陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

楽しいから始まった棒高跳びが「世界」と結びついた瞬間 富士通・澤野大地1

40歳の今年、澤野は自身4度目となるオリンピックを目指している(撮影・松永早弥香)

今回の連載「4years.のつづき」は、棒高跳びの日本記録保持者(5m83)で3度のオリンピック(2004年アテネ、08年北京、16年リオデジャネイロ)を経験し、40歳になった現在、東京オリンピックを見据えている澤野大地です。富士通で競技を続ける傍ら、母校である日本大学の専任講師とコーチを務めています。5回連載の初回は棒高跳びとの出会いについてです。

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先生の“棒高跳び愛”が伝染

1本の棒に全体重を預け、自分の身長の何倍も高いバーを超える。棒高跳びと聞いて大空に飛び上がる姿をイメージする人も多いだろうが、その前の助走にこそ繊細な技術が求められ、バーを越える時には体操選手のようなバランス力も欠かせない。澤野が棒高跳びを始めたのは中学生の時。あの時に感じた「楽しい」という思いは今も変わらず、澤野の原動力となっている。

小学生の時から体を動かすのが好きだった澤野は、サッカーや水泳、体操、バスケと、様々なスポーツに向き合っていた。ただし野球を除く。「日曜日がつぶれるのが嫌だったんですよ」と屈託なく笑う。とくにサッカーは長く続けていたが、校内マラソン大会をきっかけにして、より走ることに意識が向いた。1位になれたからではない。結局1度も1位になれなかったが、単純に走るのが楽しく、「好きだな」と自然に思えたという。

印西中学校(千葉)では迷うことなく陸上部へ。走るのが好きだったことから長距離を選んだが、夏休み前に顧問の岩井浩先生に呼ばれ、「棒高跳びをやらないか?」と声をかけられた。当時は足こそ速くはなかったが、体育の授業では体操や鉄棒でキラリと光るものがあったという。長距離の練習をしていた時も、グラウンドの隅で友達が棒高跳びの練習をしている様子を目で追い、ときにはポールを借りて平均台をポールで渡ったり、砂場で棒幅跳びをしたりと親しんでいた。だから岩井先生から声をかけられた時も、「じゃあやってみます」とスッと受け入れられた。

08年の北京オリンピック前、母校・印西中の学生たちから手作りの金メダルで激励を受けた(撮影・朝日新聞社)

岩井先生は元々走り幅跳びの選手だったが、指導者になってから棒高跳びの楽しさに目覚め、私費を投じてマットやポールなどを学校にそろえていた。棒高跳びの指導ができる先生や練習環境が整っている学校は決して多くない。そんな環境に巡り合え、何より岩井先生は「楽しい」という気持ちをもって指導をしてくれたことが今につながっていると澤野は実感している。「『好きこそものの上手なれ』という言葉がありますけど、私も40年生きてきて『棒高跳び以上に好きなものはないな』と思えています。そうした気持ちを植え付けてくれた中学時代でした」

成田高で知った陸上の面白さ

中3の時に初めて全国大会(全中)を経験し、4m30の記録で11位。その大会で優勝した鈴木将宏さんは4m73をマークし、中学新記録を樹立した。まだ体が細かった澤野は、がっちりした体形の優勝者を前にして、「こういう人が中学新記録とかつくって、全国1位とかになるんだな。自分とは違ってすごいな」と感じていたという。

最初は全国大会に出られるだけで満足だった。しかしその舞台を経験し、トップ選手との違いを知らされ、「自分も強くなりたい、高く跳びたい、日本一になりたい」という気持ちに変わっていった。そのために選んだのが成田高校(千葉)だった。

岩井先生が成田高出身で、地元・印西からアクセスしやすかったということもあったが、中2の時に全中で1、2位だった上田啓司さんと中嶋博之さんがそろって成田高に進んだことが大きかった。「絶対的に強い先輩がいて、(大会に出られるのは1校あたり1種目3人までのため)もしかしたら3年生になるまで自分は選手として試合に出られないかもしれない。でも先輩たちについていったら、3年生になった時にすごく強くなっているんじゃないかなって思ったんです」

成田高はロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表の増田明美さんや、アテネオリンピックハンマー投げ金メダリストの室伏広治さんなどを輩出している名門校。「初めて陸上競技の練習をした」と感じるほど、そこには多くの刺激が待っていた。「もちろんそれまでにも棒高跳びの練習やインターバルなんかも取り入れていたんですけど、あくまでも中学生の練習だったので。高校で初めてドリルやウェイトやサーキットとかをやって、『ああ、楽しいな!』って」

成田高で本格的な陸上に触れ、自身の成長も陸上の面白さも感じられた(撮影・松永早弥香)

澤野は当時の自分を“マッチ棒”と表現するほど体が細く、走り込みでは女子に負けることもあった。みんなが70~80%の力でこなせる練習でさえ、常に100~120%。朝練のために始発に乗って学校に行き、20時台の電車に乗って帰宅したらご飯を食べてすぐに寝るという生活。毎日が一生懸命でつらいと感じることもあったが、楽しいという気持ちは消えなかった。「この練習についていけば強くなれる」と信じ、1年目から4m80、2年目の最初の大会で5m00を記録するなど、結果も出始めていた。

「澤野はもっと世界を目指さなければいけない」

2年生になったある日、滝田詔生先生(故人)から声をかけられた。滝田先生は増田さんや室伏さんが学生だった時、自分の家に下宿させることで普段の生活から鍛え上げ、その後の活躍につながる土台をつくった人だ。

「澤野、先輩(上田さんと中嶋さん)の5m25や5m30もいい記録だけど、澤野はもっと世界を目指さなければいけない。5m40や5m50を目指さないといけないよ」

当時の高校記録は5m22。まだ日本一も経験していない。それでもその言葉は澤野の胸にスッと入ってきた。高校新記録を出しても、まだ「世界」には全然届かない。目指す場所はそこではない。そう思えたからこそ、高2のインターハイで高2最高タイ記録(5m10)で優勝しても、満足できなかった。

4years.のつづき

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