体操着で駆けた初の800mで優勝、いつの間にか陸上選手になっていた 横田真人1
今回の連載「4years.のつづき」は、男子800m元日本記録保持者で、ロンドンオリンピックで44年ぶりに同種目の日本代表として戦った横田真人さん(32)です。今年1月にプロチームTWOLAPS TCを立ち上げ、女子ハーフマラソン日本記録保持者である新谷仁美(積水化学)や東海大学時代に1500m日本選手権を連覇した館澤亨次(横浜DeNA)などを指導しています。5回連載の初回は、中学最後の夏に開けた陸上の扉についてです。
「僕を育ててくれたのが陸上」
2016年の岩手国体で引退した横田さんは翌17年春に富士通を退社し、NIKE TOKYO TCのヘッドコーチに就任。指導者という新たなキャリアを歩み始めた。チームは今年1月にTWOLAPS TCへと生まれ変わり、世界で戦える中長距離選手を育てるべく、ときには自らの走りで選手を支えている。しかし横田さん自身の競技生活を振り返ると、コーチに導かれたという意識はないという。「僕なんかがコーチングをしたらダメなんじゃないかって思うことはありますよ。でも必要としてくれる人がいるからやっていて、求めてくれる選手がいることはうれしいです」
大学で初めて日本一になった時も、日本人として44年ぶりとなるオリンピックを走った時も、陸上で生きていこうとは考えていなかった。それでも「僕を育ててくれたのが陸上」という思いはあり、指導者になった今は自分が開けなかった“世界の扉”に挑む選手たちに期待も寄せている。
突然終わった野球人生
小学生だった横田さんは学校の友達とサッカーや水泳だけでなく、父親がサーフィン&スノーボードショップをしていた影響で、夏はサーフィン、冬はスノボーと様々なスポーツに触れていた。附属の小学校からそのまま立教池袋中学校(東京)へ。せっかく部活をするんだったら厳しそうなところでがっつりやりたいと考え、野球部に入った。「親がサッカーをしてほしそうだったから」というのも一つの理由。期待されることに逆らいたい“あまのじゃく”な性格は、このころからあった。
真剣に野球と向き合っていたものの、あんまりいい思い出はない。特に最後の試合は今でも悔しさが残っている。3年生になって副将になり、都大会にいけるぐらいの力はついたと自信を持って挑んだ区大会2回戦、対戦相手がなかなか来なかった。「不戦勝じゃない?」と思っていたちょうどその時に、ギリギリで姿を見せた。そこからぬるっと試合が始まり、ぬるっと負けた。高校では大学受験をしようと考えていたため、野球は中学でやめるつもりだった。そんな集大成となる戦いが、突然終わった。
突然始まった陸上人生
不完全燃焼ではあったが、後は遊ぼうと気持ちを切り替えた。その矢先、陸上部の顧問につかまった。「来週の大会、エントリーしたからな」。例年、野球部の足の速い選手は陸上部の助っ人に呼ばれていた。先輩たちが駆り出される姿を見て、いつか自分にも声がかかるかもしれないと逃げていたが、横田さんには選択の余地がなかった。自分が走る大会は北区ナイターという大会で、種目は800mと1500mらしい。「800m? なんで1000mじゃないの?」というのが率直な感想だった。特に練習するでもなく、一度もタータンを踏むこともなく、体操着と運動靴で大会に臨んだ。
初めての種目が800mだった。走り方が分からない。「先頭のやつについていって抜けばいいんだ」と先生に言われ、その意識で挑んだら優勝してしまった。「俺って足が速いんだ」とその時に知った。
盗塁もよく失敗していた。野球の練習でも持久走をしていたが、「持久走で勝っても野球に直結しない。だったらもっとバッティング練習をした方がいい」という思いもあり、いつも主将に次いでの2位だった。なのに優勝するとは、本人はもちろん、チームの誰も予想していなかった。一緒に走った選手の中には都大会5位の選手もいたと先生に知らされ、「だったら俺も都大会5位ぐらいにはなれるんだ」と理解した。レース後、友達が横田さんの親に「横田君、優勝したよ!」と伝えたら、「また馬鹿なこと言って」と一笑されたそうだ。その大会後、横田さんは初めてのスパイクを親に買ってもらった。
駅伝のほか、東京私立大会や豊島区大会、秋季の都大会でも800mに出場したがすべて2位だった。ただ、最後の大会で全中の参加標準記録を突破。大会はすでに終わっていたため出場こそできなかったが、「順調にいけばインターハイにいけるんじゃないか」という希望が見えた。野球部的な考えでいけば、全国大会は甲子園。そんな遠い世界に、もうちょっと頑張れば出られるんじゃないか。中高一貫だったため、高校の陸上部がどんな環境で練習をしているのかは知っていた。この環境なら勉強との両立もできるかもしれない。方向転換し、高校では陸上をすると決めた。
偶然が重なって中距離選手へ
立教池袋高校(東京)で初めて本格的に陸上を始めることになったが、横田さんが陸上部に対して最初に抱いた印象は「自由だな」だった。野球部ではボールが1個落ちていたら練習をさせてもらえず、先輩に荷物を持たせることがあれば本気で怒られた。その点、陸上部では個人の裁量に任せられていた。
高校の顧問は当初、横田さんを長距離選手に育てようと考えていたという。しかし大会に出場できる選手が限られていたため、デビュー戦は他に選手がいなかった800mとなった。秋季の都大会に続く豊島区大会では800mと3000mに出場したが、ともに2位。両種目で1位になった他の選手が3000mを選んだため、横田さんに800mがまわってきた。「もし彼があの時に800mを選んでいれば、僕は3000mをやっていたかもしれない」と当時を振り返る。
もう一つ、決定的な理由がある。ジョグが嫌いだった。20分走った先で流しを10本し、また20分走って戻ってくるという練習の際、横田さんは途中で膝(ひざ)を痛め、一人で歩いて帰ることになった。下校時刻を過ぎても姿を見せない横田さんを見かね、「外ジョグ禁止。短距離とかとも練習しろ」と顧問に言われてしまった。結果、4×400mリレーも走る中距離選手に落ち着いた。
しかしチームには他に800mの選手がいなかったこともあり、普段の練習は基本的に横田さんが考えていた。「僕がこういうのをやりたいって言ったら、先生はいいよって言ってくれるような感じだったので、適当です」と明かす。土の200mトラックで、野球部やサッカー部も一緒に練習していたため、場合によっては150mしかとれない。そのため、端の方で短距離と一緒に動き作りやスプリント練習に時間をかけることになったが、それは今、横田さんが指導する際のベースにもなっている。
限られた環境下ではあったものの、1年生の時に800mでインターハイの切符を手にし、準決勝まで進んだ。そこからは意識を変えた。