世界の扉をこじ開けるため、日本選手権3連覇よりもリスクがある挑戦を 横田真人3
今回の連載「4years.のつづき」は、男子800m元日本記録保持者で、ロンドンオリンピックで44年ぶりに同種目の日本代表として戦った横田真人さん(32)です。今年1月にプロチームTWOLAPS TCを立ち上げ、女子ハーフマラソン日本記録保持者である新谷仁美(積水化学)や東海大学時代に1500m日本選手権を連覇した館澤亨次(横浜DeNA)などを指導しています。5回連載の3回目は、北京オリンピックに挑戦した慶應義塾大学時代の話です。
世界ジュニアで感じた悔しさ「ここがゴールじゃない」
高校時代にインターハイと国体を制して世代のチャンピオンになった。大学ではさらに上を目指すモチベーションがあったかというと、「全然ないです」と苦笑い。当時は今ほどSNSが盛んではなく、陸上専門誌で紹介されるような選手がすごく遠くに感じた。永井純さんがメキシコオリンピックに出場した1968年以降、男子800mはオリンピックの舞台から遠ざかっていた。遠い存在の国内トップ選手たちでさえ届かない世界。ましてや自分なんかがいけるなどとはまったく思っていなかった。
ただ、大学1年生の2006年には世界ジュニアがある。高校時代は日本代表になっていない。「1回ぐらい、日の丸をつけられたら満足」と、世界ジュニアを目標に大学で競技を続けた。
当時の慶應は今のようなタータンではなく、土の400mトラックだった。練習は高校の時と同様、どんな風に800mを走りたいかを考え、そのためのメニューを実践する。動きづくりについては短距離の先生に学んだ。そして1年目の6月にあった日本選手権で、横田さんはいきなり優勝を果たす。「いけるかなという感覚はあったけど、まさか勝つとは思っていませんでした」
5月にあった関東インカレで、横田さんは1部800mで1分48秒58の大会新記録を打ち立てたが、当時早稲田大学3年生だった下平芳弘さんに敗れての2位だった。高校時代から強さを見せつけられていた人だ。「下平さんに勝ちたい」という思いで6月の日本インカレに臨み、優勝。勢いのまま、1分48秒42で日本選手権を制した。
初の日の丸となった7月のアジアジュニアでは、「日本チャンピオンとして負けるわけにはいかない」という気持ちで中国・マカオに渡り、800mと4×400mリレーで2冠をなし遂げた。8月には目標としていた中国・北京での世界ジュニアに挑み、800mで準決勝敗退。「アジアジュニアではポコンと勝ったけど、世界ジュニアはあと2人ぐらい抜けば決勝に残れた。やっぱり悔しかったです」と振り返る。
その時までは世界ジュニアがゴールだと思っていた。しかし悔しいと感じている自分に、「ここがゴールじゃないんだな」と気付いたという。2年後には北京オリンピックが控えている。頑張ったらそんな世界が開けるんじゃないか。それがゴールだと考えるようになってから、明確に世界を意識するようになった。
日本一になることか、それとも世界で戦うことか
2年生での日本選手権でも800mで優勝。そして08年、3連覇とともに北京オリンピックがかかっていた日本選手権では、0.12秒差で当時日本体育大学4年生だった口野武史さんに敗れ、北京オリンピックを逃した。そのレースは今でもよく覚えている。「めっちゃ足が痛かったんですが、どうにかしてオリンピックに出たかった。勝つだけなら勝てたと思う」
北京オリンピックに出るには、参加標準記録(1分46秒60)を切らないといけない。日本選手権前にもアメリカで挑戦したが、0.5秒程度届かなかった。タイムを狙って自分から仕掛けると、勝負に負けるリスクは高まる。日本選手権で勝ち続けることがゴールなのか、世界で戦うことがゴールなのか。仮に負けたとしても自分にリスクを負ってでも、チャレンジすることを体に覚えさせないと大事な時に逃げてしまうんじゃないか。自分はどういう選手になりたいのか。この時から自分に問いかけるようになった。
翌09年、ベルリン世界陸上がかかっていた日本選手権では800mで優勝しているが、参加標準記録(1分46秒60)は切れなかった。「どうやったら“世界の扉”をこじ開けられるか」。その意識でリスクをとり続けたレースが、同年10月、1分46秒16という15年ぶりの日本新記録(当時)につながる。
目指していた北京オリンピックには複数の学生アスリートが出場し、その一人、当時早稲田大学4年生だった竹澤健介さん(現・大阪経済大学の長距離ヘッドコーチ)は現役の箱根駅伝ランナーであることでも注目されていた。ただ、横田さんは高校生の時から短距離選手と一緒に練習する機会が多かったため、同学年でもあった金丸祐三(現・大塚製薬)にライバル意識を持っていた。「なんで金丸ができて、僕ができないんだろうとか思っていましたね(笑)。金丸は高校生の時から日本選手権で優勝しているんですけど、勝手に日本選手権の優勝回数で勝負していました。でもあいつ、全然負けないんですよ。結局、11対6で差がついてしまいました」
主将としてチーム理念を掲げ、「みんなで」戦う
慶應義塾體育會競走部の主将は例年、4年生からの指名で決まる。3年生のシーズンが終わるころ、横田さんは主将を任せられた。まず、このチームは何を目指すべきなのかを考えた。「キャプテンとしてこういうチームをつくりたい」と仲間にうったえ、議論し、チーム内にも浸透させる。そのために新たな理念を掲げ、「みんなで」を強調した。陸上ではブロック別に練習やミーティングをすることが多く、各自が自由に考えて行動できるのはチームの魅力でもあった。その良さを壊さない程度に、例えば冬季練習中のアップはブロックをまたいで実施することなどを促した。
5月の関東インカレは1部残留を目指し、チーム一丸となって挑む舞台だ。入部して間もない1年生もその輪に加わる。「入部して数週間後の関カレで、いきなり知らない先輩を応援しないといけない。でもちょっとでも先輩たちのことを知っていたら、応援する気持ちが変わるだろうなと思ったんです」。1年生が入部した瞬間にブロックをまたいでのミーティングを開き、ブロックも学年も超えて、互いを理解して応援し合える環境をつくろうと心がけた。例え1~2人の活躍が目立ったとしても、みんなで1部残留の喜びを分かち合えるようにしたい。その思いから行動し、最後の関東インカレもみんなで1部残留を果たした。
横田さんは部員の勧誘にも力を入れ、2年生の時には、その後、3大会連続で世界陸上に出場することとなる廣瀬英行さんを勧誘するため、九州大会にも足を運んでいた。連覇がかかっていた日本選手権の1週間前のことだった。「よくやったもんだな」と横田さんはつぶやいた。