陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

男子800mで44年ぶりの五輪、その先に新たな世界の扉を求めて 横田真人4

横田さん(前から4人目)が男子800mで44年ぶりにオリンピックの舞台に立てたのは、「リスクをとり続けたから」と言う(写真は本人提供)

今回の連載「4years.のつづき」は、男子800m元日本記録保持者で、ロンドンオリンピックで44年ぶりに同種目の日本代表として戦った横田真人さん(32)です。今年1月にプロチームTWOLAPS TCを立ち上げ、女子ハーフマラソン日本記録保持者である新谷仁美(積水化学)や東海大学時代に1500m日本選手権を連覇した館澤亨次(横浜DeNA)などを指導しています。5回連載の4回目は、ロンドンオリンピックへの挑戦とその後についてです。

世界の扉をこじ開けるため、日本選手権3連覇よりもリスクがある挑戦を 横田真人3

「世界と戦ってきた証しを残しなさい」

横田さんは2010年に慶應義塾大学を卒業後、ロンドンオリンピックを目指し、富士通で競技を続ける道を選んだが、当初は一般企業への就職を考えていた。陸上では食べていけないという考えから、実業団の選手になることに不安があったからだ。ましてやその先で、人に教わったことがない自分が指導者になることは絶対無理だと思っていた。ただ、北京オリンピックを逃した悔しさはずっと燻(くすぶ)っていた。そんな中、恩師である上山信一教授に言われた。「陸上をやりなさい。それは君にしかできないことだから、チャレンジするべきだ」。覚悟を決めた。

横田さんは自由にカリキュラムを選べる総合政策学部で学び、3年生になってからは経営学やビジネスモデルを研究する上山教授のゼミを選んだ。週に2~3回はグループワークがあり、実際に企業へインタビューするほか、客のふりをしての潜入取材をすることもあり、多忙な毎日だった。卒論は希望者のみだったため横田さんは書かなかったが、「毎学期、卒論みたいなものを書かされていましたよ」と振り返る。

上山教授はこうも話してくれた。「引退する時には、世界と戦ってきた証しを残しなさい。単にメダルをとるという意味ではなく、対等になりなさい」。世界の人々に自分の意思を伝え、対等に渡り合うには英語は不可欠だ。だったら海外に出ようと考えて英語を学び始め、海外での練習も認めてくれた富士通に進んだ。

リスクをとり続けた4年間を経て

10、11年は日本を拠点にしたまま、定期的に渡米して合宿に参加した。12年5月、韓国・大邱(テグ)でのワールドチャレンジで1分46秒19を記録して8位になり、ロンドンオリンピックの参加標準記録(1分46秒30)を突破。その年の日本選手権では4連覇、自身6度目となる優勝で、同種目44年ぶりとなるオリンピック日本代表をつかんだ。

ロンドンオリンピック日本代表選手たちと。横田さん(右から2人目)はオリンピックの熱狂を肌で感じた(写真は本人提供)

08年の北京オリンピックをあと一歩で逃した時、“世界の扉”は何度も何度もたたかなければ開かないということを、身をもって知らされた。「世界って口で言うのは簡単だけど、それをもう何十年も届いていない中距離で体現するのはやっぱり難しい。いろんなリスクがあるけど、でもやらなきゃいけないと自分に思い込ませる。誰かが助けてくれるわけじゃなく、自分がやるかやらないか。そんなことを積み重ねていくしかないと思っていました」。リスクをとり続けながら、少しずつ確率を上げていく。そんな4年の先に、44年越しのオリンピックがあった。

待ち望んだオリンピックは、想像していた通りの特別な舞台だった。ロンドンの街全体がオリンピック一色で、人々の興奮を肌で感じた。横田さんは予選5組で出走し、1分48秒48の記録で4着。予選敗退ではあったものの、あと1人抜けば着順で準決勝に届くという結果だった。その差は0.12秒。前年の韓国・大邱であった世界陸上では組6着で予選敗退だったことを考えると、かみ合えば日本人でももっと上が見えてくるという手応えがあった。新たな“世界の扉”は開ける、と。

横田さんは慶應義塾大学時代に3回、富士通時代に3回、日本選手権800mで優勝している(写真は本人提供)

覚悟の渡米で挫折、新しい世界が見えない

翌13年には拠点をアメリカに移し、リオデジャネイロオリンピックを目標に、かつてカール・ルイスが所属したサンタモニカトラッククラブでトレーニングを始めた。この時に初めて、横田さんは長期的なコーチングを受けることになったが、一方的な指導方針に疑問を感じてしまった。「合う合わないがあるんだなと思いました。過去にそれで強くなった選手がいたとしても、そのやり方が万人に合うとは限らない。ある選手の栄光の影で、駄目になった選手もいる。一人でやっていた時には分からないことでした」。住まいやクラブ、ビザなども自分で手配し、覚悟を決めて渡米しただけに、すぐにはやめられなかった。

その後、2年で帰国を決意。一生住むつもりで渡米したが、ここにいても強くなれる気がしなかった。自分はどうしたいのか、改めて自分に問う。ロンドンオリンピックでは見られなかった世界を見たくてアメリカに渡ったのに、2年経った今、自分が見たい世界が逆戻りしているんじゃないかと感じた。

世界最速を競う華やかな短距離や、駅伝やマラソンなどで注目される長距離に比べると、中距離への注目度は低くなりがちだ。日本選手権を何連覇しても、日本新記録を出しても、新しい世界は待っていないという感覚が横田さんにはあった。同じ世界しか見えないんだったら、やめよう。

しかし実業団として競技をしている以上、期待されていることは最低限達成したかった。15年に帰国し、どうしたらリオデジャネイロオリンピックに出られるかを必死に考えた。しかし16年の日本選手権は1分47秒45で2位。同年10月の岩手国体を最後に、現役を引退した。

岩手国体の舞台となった北上競技場に、横田さんのユニフォームが飾られている。「2016.10.11 北上にて引退 ありがとうございました!!」(撮影・藤井みさ)
結果だけでは注目されない、中距離が生きる道を照らしたい 横田真人5

4years.のつづき

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