おてんば少女、中国でペアと運命の出会い フィギュアスケート・高橋成美1
連載「4years.のつづき」から、慶應義塾大学総合政策学部4年の高橋成美(28)です。フィギュアスケートのペア選手として、2012年世界選手権銅メダル、2014年ソチオリンピック日本代表として活躍。2018年に現役を引退しました。先月、女優に転身を発表し、新しいキャリアを歩み始めました。全4回連載の初回は、スケートとの出会いからペア競技との出会いを振り返ります。
人を驚かせるのが大好き
千葉県松戸市出身の高橋は3歳のとき、スケート教室に通う姉の影響でスケートを始めた。リンクは自宅から徒歩圏内にあった「新松戸アイスアリーナ」。小児ぜんそくを患っており、医師から勧められたのがスケートだった。
当時、そのリンクにはソチオリンピック男子5位入賞の町田樹さん(30)やプロフィギュアスケーターの無良崇人さん(29)ら、後に日本のフィギュアスケート界を引っ張ることになる選手たちがそろっていた。「樹くんはお姉ちゃんのお友達という感覚。本当に一生懸命練習していたのを覚えています。いつも樹くんの背中を追いかけようと努力していました」と語る。
自他共に認めるおてんば少女で、階段の高いところから飛んだり、ジェットコースターに乗ってはしゃいだり。スケートでも年上の選手が跳ぶようなジャンプを決めては周囲を驚かせていた。
ペアの技に心奪われた
小学4年のとき、父の転勤で中国・北京に移住。転勤先は米国の選択肢もあったが、高橋が中国を懇願した。フィギュアスケートで中国は「ペア大国」。高橋は憧れだった2010年バンクーバー五輪金メダルの申雪、趙宏博(しんせつ、ちょうこうはく)組と一緒に練習することを夢見ていた。既にシングル選手として国際大会に出場するほどの実力があったため、日本スケート連盟の働きかけもあって、中国のナショナルチームが練習するリンクで受け入れてもらえた。
ある日、申雪、趙宏博組に次ぐ実力のホウ清(ホウはまだれに龍)、トウ健(トウはにんべんに冬)組のツイストリフトを見た瞬間、心を奪われた。「女の人が横になって空中で回っている。いったい何が起きているんだ」。人を驚かせることが大好きな高橋の心がうずいた。「怖いことに挑戦してやり遂げたら皆がびっくりする。ペアだったらそれが何回もできる」。それ以降、時間を見つけてはペアの練習を見に行くようになった。
リンクの傍らで熱心に練習を見る姿勢が関係者の目に留まり、次世代を育成する中国のジュニアナショナルチームに入ることができた。学校に通いながら、シニアのトップ選手が使用しない深夜や早朝に練習した。「常に寝不足でした。つらい環境だったと今は思うけれど、たまに午後の練習でトップ選手と重なるときがあり、その時は早めにリンクに行って練習を見ていました。ご飯を食べる時間さえもったいなかったです」
ペアに転向「私の天職」
12歳の頃、シングル選手だった高橋に転機が訪れた。グランプリシリーズ中国杯が北京で開かれ、高橋はフラワーガールとして参加していた。「会場で男性から『スケートやっているの? ペア?』と聞かれて、私は『シングル』と答えたんです。でも隣の女の子が『ペア』と答えると、男性が『すごいね、期待しているよ』と言ったんです。それが悔しくて、ペアをやると決めました」
ペア転向を関係者に申し出ると、最初は驚かれた。だがすぐにパートナーを紹介してもらえ、ペアの練習が始まった。「背が小さくて体形もペア向きだったし、性格も勇気があって怖い物知らずでした。ペアが私の天職だ、運命の出会いだと思いました」。才能はすぐに開花した。シニアの全国大会に出場すると、世界トップクラスが参戦する中で6位に入った。
突然閉ざされた扉
全国大会を終えて意気揚々としていた高橋だったが、中国フィギュアスケート協会から告げられたのは思わぬ一言だった。
「あなたをこれ以上、教えることはできません」
高橋は絶句した。「私が中国に国籍を変えない限り、リンクには上がることはできないと言われました。神の一声のように、その日から友人も先生も態度が変わってしまいました」。トップに近づくほど、国とスポーツは深く関わってくるのだと子どもながらに感じた。
練習拠点を失い、中学2年の終わりに失意のまま日本に帰国した。すでに新松戸のリンクは閉鎖。日本はシングルが中心でペアを組めるパートナーも練習できる場所もなかった。親からはペアを諦めるように言われた。中学校では帰国子女として「変わった子」に見られ、クラスになじめずにいた。あれだけ楽しみにしていたペアへのモチベーションもなくなった。「今までの人生で一番つらかったです。『私ってなんなの』とずっと思っていました」
高校受験も迫り、親からは難関校合格を条件にスケートの継続が認められた。高橋は苦手だった塾にも通い、猛勉強の末、千葉・渋谷教育学園幕張高校に合格した。
ペアの練習環境がなかった日本
高校入学後、スケートを続けることはできたがペアの練習をできる状態ではなかった。シングルよりも広い場所が必要で、貸し切り時間もなかなかとれない。日本人とペアを組んだが1年で解散してしまった。
それでも高橋は諦めきれなかった。わらにもすがる思いで、カナダのリチャード・ゴーティエ・コーチに一通のメールを送った。ゴーティエ・コーチはオリンピックチャンピオンを育てた名コーチ。高橋が北京にいたとき、大会で滞在していたゴーティエ・コーチに自身の動画を見せてアドバイスをもらったことがあった。
「ペアのパートナーを探しています。あなたのもとでペアの練習がしたいです」
つたない英語だったが懸命に思いを伝えた。ゴーティエ・コーチからの返事は意外なものだった。