ビーチバレー

連載:4years.のつづき

16年ぶりの五輪出場、「我」を貫いて浮くことも恐れず トヨタ自動車・石島雄介3

石島(左奥)は2006年に男子バレー日本代表に選ばれた(撮影・全て朝日新聞社)

「ゴッツ」の愛称で親しまれ、男子バレーボール日本代表として2008年の北京オリンピックを経験。17年からビーチバレーボールに転向し、37歳を迎えた現在は、東京オリンピックを目指して突き進んでいます。そんな石島雄介(トヨタ自動車)のストーリーを4回連載で紹介します。3回目は筑波大学の後に進んだVリーグ・堺ブレイザーズと日本代表経験についてです。

北京五輪をかけた大勝負

石島は筑波大の卒業を待たず、05年12月から堺ブレイザーズに合流し、チームの優勝に貢献。06年春、日本代表メンバー入りを果たした。同年に日本で開催された世界選手権と07年ワールドカップを経験し、ユニホームの背に刻まれた「GOTTSU」の文字が人々の記憶に刻まれていった。08年には北京オリンピック最終予選という大一番があった。今でもその大会を思い出すと鳥肌が立つという。

「自分の中で葛藤もあったし、監督や仲間と衝突することや言い合いもありましたけど、決してそれはネガティブなものでもマイナスなものではなかったですね。最初の方はよく分からなかったけど、当時のチームは試合をやる度に強くなっていきました。特に最終予選初戦のイタリア戦、大逆転で負けて(第4セット24-17から33-35で取られ、第5セットも7-15となり敗戦)、その時は『やっちゃったなぁ』と思いましたが、そこで終わりではなくチーム一丸となって次の試合へ切り替えることができた。主将の荻野さん(正二、現サントリーサンバーズ・アンバサダー)が背中でチームを引っ張ってくれて、北京オリンピック出場という目標を現実にかなえることができました」

最終戦のアルゼンチン戦ではオリンピックへの切符がかかった1点を争う勝負所がいくつもあった。鬼のような形相で馬力のあるサーブやスパイクを決めていく。そのプレーに迷いはなかった。エースとして大車輪の活躍を見せた石島は、男子バレーが16年ぶりに味わった歓喜の輪の中にいた。

飽くなき向上心を掲げ、周りの評価も受け止めた

以降、石島は堺ブレイザーズに軸足を置きながら、日本代表でなくてはならない存在になっていく。13年まで在籍した日本代表ではロンドンオリンピック出場を目指し(最終予選敗退)、世界を舞台に戦ってきた。

「今思うと、もう少し休みながらやってもよかったと思います。日本代表の活動があって、その1週間後からVリーグが開幕。終わったら5月に黒鷲旗があってまた代表での生活がスタートする。それを毎年、めまぐるしく繰り返していました。正直、体を休められないし、リセットする時間もありませんでした。ハードワークの積み重ねがけがを招いて、その結果、今苦労している部分もあります。もう少しガス抜きできたらよかったなと思いますけど、当時はコントロールできなかった部分。もったいなかったですね」

過密スケジュールの中、石島(右から2人目)は「自分に負けたくない」という思いで戦い続けた

その時は気づかなかった。でもやり抜こうと決めた。トップの世界でトッププレーヤーとして居続けるため、手を抜くことはできなかった。

「ただ、ひたすら自分がうまくなりたいからバレーボールをやってきました。自分がうまくなることで試合に勝ったり優勝したり。『この選手には負けたくない』とかそういう気持ちはないんですよね。他者には興味がなくて(笑)、あくまでも自分自身への思いをエネルギーにしてやってきました。それは今でもそうです。自分はジャンプ力がないし、技術力も低い。走るのも速くない。だから頑張りたい。自分の限界をここって決めつけたくないというか、自分がまだまだ伸びると思った瞬間をモチベーションとしてやってきた。そういうところが、チームの中で浮いてしまう要因なのかもしれません(笑)」

自分に負けたくない。それが石島の「我」である。高校・大学という横一線の学生時代は、恩師たちがその「我」を受け入れつつ、チームの生命線をつなげてくれた。しかし、Vリーグや日本代表の世界では、様々なプロがいる。一筋縄で結集することは難しく、いわばそこがチームスポーツの醍醐味でもある。

「自分のやっていることが間違っていたと思うこともあって、その時はそれが正解だと思ってやってきました。たくさん失敗もしてきましたね」

長い年月を経て自分の立ち位置も変わっていく。周りが自分のことをどう評価しているのか。「チームの中で扱いにくい」と思われていたことも、どっしりと受け止めた。

自分の限界を突破できる場所を求め

日本代表から外れた14年からは、夏になるとビーチバレーのイベントに参加するようになった。転向を発表した16年までの3年間、毎年のように砂と戯れた。その時から頭のどこかで転向するビジョンはあったのだろうか。

「なかったですね(笑)。ビーチバレーを経験していたからこそ、こんな過酷な競技はないし、転向するなんて考えたこともありませんでしたよ。東京のお台場ビーチでやっていたイベントの時は、動きやすい砂の上でもかなりへばっていましたから(笑)。だから、ビーチに転向してやると決めた時は相当な覚悟はありました」

17年には男子バレー日本代表としてともに戦ってきた越川優(右)とともにビーチバレーへ転向した

16年12月。石島はビーチバレーへの転向を発表した。本当は最後までバレーを貫き通したかったが、もうこの世界に自分の限界を突き詰める場所はどこにもなかった。しかし、石島はプレーヤーとしてまだまだ限界を追い求める場所を見つけた。それがビーチバレーだった。

4years.のつづき

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