筑波大で故・都澤凡夫監督に学んだ非科学的と科学的の融合 トヨタ自動車・石島雄介2
「ゴッツ」の愛称で親しまれ、男子バレーボール日本代表として2008年の北京オリンピックを経験。17年からビーチバレーボールに転向し、37歳を迎えた現在は、東京オリンピックを目指して突き進んでいます。そんな石島雄介(トヨタ自動車)のストーリーを4回連載で紹介します。2回目は筑波大学時代についてです。
「学業があってのバレーボール」
「筑波大しか選択肢はなかった」。そう語る石島の進学理由は明確だった。筑波大は1997年に初めて大学の頂点に立ち、当時日本インカレで5連覇中の王者だった。バレーで「一番」という点、それに加えて教育に力を入れている大学だったからだ。
「大学に入る時には体育の教員資格をとることも視野に入れていました。親から学費を出してもらっているので、部活だけ頑張るというのはおかしいですし、それが逆転してしまうと学校に行かなくていいということになってしまいますから。学業があってのバレーボールだと考えていました」
バレー部の同級生たちの志しにも大きな影響を受けた。5人いた部員の内、スポーツ推薦は石島ただひとり。他の4人は一般受験で入学してきた者たちだった。「僕以外は学習能力が高くてみな、教員を目指しながら部活動を頑張っていました。選抜チームでの遠征が多かった自分は、集中して勉強できるのは授業しかない。みなに追いつけるように前の方の席で授業を受けていましたね」
ポジション変更で大きな壁にぶつかった
1年生の時はミドルブロッカーの控えとしてベンチを温めた。最上級生には山村宏太さん(現サントリー監督)や学外では東海大学の枩田優介さんら2m級のミドルブロッカーが顔をそろえていた。身長197cmの石島は将来を見すえて、故・都澤凡夫監督にアウトサイドヒッターへの転向を志願した。
「今思うとよく言ったなぁと思います(笑)。都澤先生には『体力も備わっていないし、サイドアタッカーとしての技術力もない。まだ早い』と言われました。2年からミドルブロッカーとしてレギュラーになりましたが、自分はまだまだだなとも痛感しました。そういう刺激を受けながら、ミドルブロッカーとしても型にはまらない、自分なりのミドルブロッカー像を描いて練習していました」
ミドルブロッカーは攻撃時にはクイックを展開、守備ではメインブロッカーとしてネット際で縦横無尽に動くポジションだ。石島は100kg以上の体重をコントロールし、バズーカ砲のようなジャンプサーブを得意とし機動力も備えていた。はた目に見れば、サイドアタッカーへ転向するのも違和感がなかったほどだ。しかし4年生になってサイドアタッカーへ転向を果たした時、大きな壁にぶつかった。
「それまでサーブレシーブもやったこともない。ブロックもミドルで跳ぶのとサイドで跳ぶのは違う。どうやって跳ぶのか分かりませんでした(笑)。攻撃も高いトスを打つとタイミングが合わなくてふかしてしまう。だから最初の内は時間差攻撃を打っていましたね。すごく印象的だったのは、ミドルブロッカーだった一個下の石川(健)君がサイドアタッカー経験者だったので、彼と僕が前衛で並んだ時はポジションを入れ替えて攻撃をしていました。今までやったこともないし、見たことのないようなバレーを展開していました」
名将・都澤監督の下で培われたベース
チームの主力である石島は、前衛ではクイックやサイドからアタックを打ち、後衛ではサーブレシーブをこなし、バックアタックにも入った。どのローテーションにおいても、攻撃の枚数を増やすことでコンビネーションを複雑化し、敵に的を絞らせないバレーを展開。石島が最上級生になった2005年、筑波大は春秋リーグ、東日本インカレ、日本インカレと4冠を果たした。
当時、チームを率いていた都澤監督は、前人未踏の日本インカレ6連覇(第50~55回大会)を達成させた名将だ。勝ち始めた当初に語っていた身上は「チームづくりは実験のようなもの。チーム力を最大にするため、どうやって組み立てたらいいか。例え失敗しても、その経験を元に試し続けていくことで新しい体験が生まれる」というものだった。石島はそんな都澤監督のコーチングの下、バレーボールという競技を深く掘り続けた。
「試合に勝ったり負けたりする中で、都澤先生が『科学的根拠に基づいてこれを体現したら面白いぞ』と提案したことを皆が『いいな』と思ってやっていく。それが筑波大のバレーでした。もちろん先輩から受け継いできた良き伝統も継承します。そういう目に見えない非科学的なこと、技術やストレングストレーニングなど含めた科学的なこと、両方とも必要です。2つをミックスすることで、よりバレーという競技の面白さを味わえると感じました」
都澤監督にもうひとつ教え込まれたのがある。それが現在に至るまでの「自分のベース」となっていると石島は断言する。
「練習は高校時代よりもはるかにきつかったんですけど、その中でも体育館にきたら自分が何をしたいのか。それは何のためにやる練習で、どうすれば質のいい練習ができるか、個人やチームに対し、いい結果を残せるのか。『常に考えることが大切だ』とよく都澤先生に言われていました」
ただ肉体を限界まで追い込むのではない。自身の向上、チームをいい方向に向かわせるため、選手一人ひとりが合理的に頭をフル回転させていく。ベーシックな反復練習を積み重ねていく練習に、部員たちは柔軟に対応していったと振り返る。
「郷に入っては郷に従え、ということわざがあるように、部員全員が自分の役割に徹していましたね。試合では床を拭くモッパーやサーブ1本打てるか分からないピンチサーバーなど、試合に出られるのか分からない選手たちも含めてチーム全員が同じように、きつい練習をひたむきにやり続ける。都澤先生も縁の下の力持ちを評価しますし、レギュラーメンバーはそういう仲間の姿を見て、自分たちが試合に出られるのだということが身に染みて分かるようになりました」
最上級生としてチームをひとつにするために
大学チームスポーツは、高校卒業したばかりの1年生ともうすぐ社会人になる4年生がひとつの集団。石島はその難しさとやりがいをこう述べる。
「監督さんの思いだったり、上級生・下級生それぞれの思いだったり、色々な考えや立場の選手がひとつの目標に向かうのが大学のチームスポーツ。でも、どこか流れに合わせたり、目標がぼやけてしまったりする時もあるかもしれません。チームが本当の意味でひとつになるには、指導者の方や最上級生の動きが重要ですね。どういう考えでやっているかを下級生にしっかり共有して示していかないと、下級生もどう動いていいか分からない。チームの目標を一つひとつ掘り下げていくことで、選手それぞれの役割が明確になっていきます」
「都澤先生と出会わなかったら今の自分はない」と振り返る石島。大学卒業後は、地域密着型クラブチームとしてVリーグに所属する堺ブレイザーズへの入団を決意。日本インカレが終わって内定選手として合流した。石島が加わり、チーム力に厚みを増した堺ブレイザーズは2005/06、Vリーグのファイナルラウンドを制した。