陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

名大で世界へ挑戦する覚悟を固め、目標を定め羽ばたいた 鈴木亜由子4

MGCでマラソン日本代表を決めた鈴木、前田穂南、中村匠吾、服部勇馬(撮影・佐伯航平)

今回の連載「4years.のつづき」は、東京オリンピック女子マラソン日本代表の鈴木亜由子(29、日本郵政)です。陸上の強豪校ではない名古屋大学に進み、力をつけた過程を4回の連載で紹介します。4回目は世界に挑戦する覚悟を決めた4年時のこと、そして実業団に進み今につながる取り組みについてです。

日本トップレベルに成長、名大陸上部で過ごした「濃密な時間」 鈴木亜由子3

「狙いにいった」ユニバーシアード

3年時までの鈴木は10000mへの出場を避けていた。種目を変えることで練習量を増やせば、ケガのリスクも大きくなる。それに加えて鈴木は、レース後半で“失速する走りを絶対にしたくない"と考えるタイプだった。練習でも調子が良いからと、前半から飛ばす走り方は決してしなかったという。

日本郵政の高橋昌彦監督は、「今もその傾向は練習でも試合でもある」と言う。入社後に10000mで代表を狙う決断も、マラソンを走る決断もなかなかできなかった。

鈴木にとっての初10000mは名大4年時(2013年)5月の東海インカレだった。1年時は東海インカレが世界ジュニアの選考レースと知らずに出場したが、4年時の東海インカレはユニバーシアード(学生の世界大会)代表入りを目的に10000mを走り、32分49秒02で優勝した。

そして7月のユニバーシアード・カザン大会の10000m優勝(32分54秒17)が、「今までのレースで一番、やったー、と思ってゴールできたレース」になったという。

ユニバーシアード10000mで優勝。狙いに行って勝ち、今までにない達成感を味わえた(撮影・朝日新聞社)

「4000m過ぎで前に出て、自分が引っ張り続けました。ロシア選手にずっとついて来られて苦しい展開でしたが、持っている力を振り絞ってペースを上げ、30mくらいの差で勝つことができたんです。(その時点の力としては)一番臆せず、自分のやりたい走りを貫けたレースでした。リオデジャネイロオリンピックを決めた日本選手権や、初マラソンの北海道マラソンより達成感が大きくて、心から喜べましたね」

大学4年時の鈴木にとって10000mで国際大会を戦うことは、そのくらいチャレンジングなことだった。

一つ言えるのは、大学2年時の日本選手権欠場が悔しくなかったように、学生という枠を自身で設定していた可能性がある。16年日本選手権10000mも、18年の北海道マラソンも優勝はしたが、リオオリンピックやMGC(19年9月に行われた東京オリンピック最重要選考会)へのステップという意識が強かった。それに対しユニバーシアードは、学生の自分が挑める最大の国際大会だ。それが「やりきった」気持ちを持つことにつながったのではないか。

日本郵政入りを決断した理由

10000mの国際大会挑戦は金尾洋治監督が、学生時代を通じてずっと鈴木の背中を押し続けたからできたことだろう。そして4年生になって日本郵政入りを決断したことも、鈴木の国際大会で戦う覚悟を強くしていた。

日本郵政入社に関して3月末に高橋監督と話し合いをして、5月のゴールデンウィーク明けに鈴木は入社の意思を伝えていた。その直後に東海インカレで初10000mを走ったのだ。実業団入りを決心したのは「私もまだできるのでは。もう少し記録を伸ばしたい」という思いからだった。

「代表で戦いたい気持ちも、まったくなかったわけではありません。世界ジュニアやユニバーシアードで日の丸をつけて走ったことは、やはり大きかったですから」

日本郵政に決めた主な理由は、「新しく発足するチームで、チームカラーをゼロから作っていける。そういう環境の方が、自分の力を伸ばせる」と考えたからだ。競技を引退後の仕事も、やり甲斐を持って続けられると判断した。

まだまだできるのでは。その気持ちと、まっさらなチームでやってみたいという思いで日本郵政を選んだ(撮影・朝日新聞社)

高橋監督も鈴木に5000mではなく10000mを、さらにはマラソンを走ってほしいと考えていた。だが高橋監督は、選手を強引に従わせる指導者ではなかった。

鈴木は名大1年時に世界ジュニアに入賞したときも次の目標を、周囲の雰囲気に乗ってオリンピックや世界陸上と決めなかった。実業団入りのときも自身の目標は、自分で決めたかったのだろう。自身で考え抜いて決めるのが鈴木のスタイルである。だから何事につけ、決断するのに時間がかかる。合宿や遠征時の荷物も多いタイプだという。

ユニバーシアードの10000mで優勝し、日本郵政入社2年目(15年)の全日本実業団陸上10000mにも優勝した。にもかかわらず10000mでリオオリンピックを狙うと最終的に決めたのは、オリンピックイヤーの16年に入ってからだった。5月の米国のレースで31分18秒16を出し、やっと決心した。

初マラソンは18年8月の北海道マラソン(2時間28分32秒で優勝)だった。マラソンを走ることはずっと以前から頭の片隅にあったことで、リオオリンピックが終わって具体的に考え始めた。だが、なかなか出場を決心することはできず、走ると決めたのは北海道マラソンの4カ月前だった。

4年時の日本インカレは東京五輪開催が決まった日

東京オリンピック開催が決まったのは13年9月7日。鈴木の大学最後の日本インカレ期間中で、5000mを走った日だった。正確には鈴木が5000mで2位(15分46秒39)になった翌朝(日本時間)にブエノスアイレス(南米アルゼンチンの首都)で決定した。

2連勝していた日本インカレの5000mで敗れたことで、「東京オリンピックでは距離を伸ばしてマラソンで目指す」ということは少しも考えなかった。2年時の記事でも紹介したように、リオオリンピック5カ月前ですら「オリンピックが目標だと、自分が口にしていいのかわからない」と話した選手である。むしろ3連勝がかかった日本インカレで敗れ、実業団で走っていく自信が少し小さくなった。

ラストイヤーの日本インカレ5000mは2位。自信と不安の間で揺れ動いた(撮影・朝日新聞社)

その一方で、少し自信を大きくしたレースもあった。翌10月の国体も2位(15分46秒30)だったが、それまでは苦手意識が強かったラスト勝負に進歩が感じられた。

「尾西(美咲・積水化学、リオオリンピック5000m代表)さんが強かったので、途中で2位に目標を変えて、2位争いの集団から最後のスパートで抜け出すことができました。突き詰めればラスト勝負もできるかもしれない、と感じられたレースでした」

その後、駅伝を何レースか走ったが、国体が学生最後のトラックレースになった。自分もやっていけるのではという自信と、自分は大した選手ではないのではないか、という不安。その間で揺れ動いた4年間を象徴するようなトラックレースだった。

「自分の可能性を引き出してもらった4年間」

14年3月。鈴木は名大を卒業した。

6年半が経過した今、名大での4年間を振り返り「自立への一歩でした」と鈴木は答えた。競技というより、人生全般の中での学生生活の意義を口にした。1年時の記事の冒頭で紹介したように、入学時の目標も同様の答え方をしている。

「高校までは競技も生活も両親のもとでやらせてもらって、自分で何かができたわけではありませんでした。そこからの4年間で生活全部を自分でやることを覚えましたし、競技だけでなく、色々な人たちと関わる中で視野が広がり、ものの考え方も変わりました」

3・4年時に履修したゼミはイギリス金融史の講座で、金本位制について専門的に研究した。「当たり前のように言われている内容が、実は違っていることもある。本当に実証されたことなのか、自分でデータを検証して考えなければいけないことを学びました。その考え方は一生役に立つと思いました」

競技面も含め、大学4年間で「常識にとらわれない」ことを学ぶことができたという。素早く決断しないことで優柔不断と見られることが多い鈴木だが(自身もそう認めている)、膨大な検証作業を行って答えを出そうとする姿勢の表れだと言える。

走りに対するスタンスも、学生時代に変化した。

鈴木は走ること自体が何よりも好きで、時間さえあれば走っている、というタイプではなかった。大学ではケガをしないことを最優先したからでもあったが、強いから走らなければいけないという使命感を、心のどこかに持っていた。

2015年世界陸上、序盤は尾西美咲(後ろ)と先頭を引っ張り、9位に入った(撮影・朝日新聞社)

それが徐々に、競技で結果を出す充実感も感じ始めた。卒業時に金尾監督に宛てた手紙で、「大学で改めて走ることの楽しさを知りました」と書いている。

当時の心境を次のように振り返った。「名大という環境の中で自分の可能性を引き出してもらった4年間でしたし、エネルギーをチャージできた4年間だったと思います。世代トップに戻ったというより、次へのスタートラインに立てた学生時代でした。覚悟を持って取り組み、強くなっていこうと思いました」

入学時に立てた「必ずこれを成し遂げたい、という目標を見つける」という目標を達成して、鈴木は名大での4年間にピリオドを打った。

「強くなる道は1つではない」

実業団入り後の鈴木は、学生時代に築いたベースにレベルの高い練習を積み上げ、世界で戦う選手になった。

鈴木の持って生まれた才能が高いことは間違いない。そして努力する才能はそれ以上に高い。大学時代にケガをしないでいかに練習を継続するかを考えたように、実業団入り後はレベルの高い練習をケガなく続けられるにはどうすればいいかを考え続けてきた。そのため、その日のメニューを予定通り行うかどうかを、ポイント練習開始直前まで迷う日も多い。

走る練習だけでケガをしないトレーニングをやり遂げることは不可能で、走り以外のメニューや、日常生活中の地道な工夫をどれだけ続けられるかの勝負になる。入社してからの鈴木を見続けてきた高橋監督は、「鈴木の強さは才能ではなく努力」と言い切る。

現在の鈴木は大学時代と変わって、故障に苦しむ回数が増えている。リオオリンピック前に甲の立方骨を疲労骨折し、10000mは欠場せざるを得なかった。クイーンズ駅伝前も、間に合わないのではというケガが何度かあった。

それでも15年の北京世界陸上、16年のリオオリンピック、17年のロンドン世界陸上と3年続けて代表入りし、2度の世界陸上では入賞に迫った。日本郵政が2回優勝しているクイーンズ駅伝にもすべて出場し、区間賞はないが必ずチームに貢献している。重要な大会は絶対に外さない強さがある。

2016年の日本選手権10000mで優勝。リオオリンピック出場を決めた(撮影・朝日新聞社)

それでも、今年のケガは長引いた。1月末に右太もも裏を肉離れし、4月末まで走る練習ができなかった。5月末から強度を上げたが、小さな痛みや違和感が何度か出ていた。東京オリンピックの1年延期がなければ今年の8月7日には女子マラソンが行われていた。その日に取材に応じた鈴木は、「今日が本番だったら、ベストな状態で立てたか疑問」と話している。

だが鈴木の強さは、こういうときにこそ発揮される。

名大での4年間を経て、いくつもある人生の選択肢の中で陸上競技を選んだ。決めるまで長い時間を要したが、一度決めたことは強い意思をもってやり遂げる。

迷った末に代表を狙い始めた10000mでは、17年ロンドン世界陸上で10位と入賞に迫った。代表を狙うと決めた翌年のことだ。そして激戦のマラソン代表選考を、わずか2回のレース経験で勝ち抜いた。決断を逡巡している間にも地力を上げる努力は怠らない。だから一度決めたら、結果を出すのも早いのだろう。

強くなる道はひとつではない。これからも自分のやり方で、鈴木は成長していく(撮影・佐伯航平)

8月7日にはこうも話した。

「強くなる道は一つではありません。その時々の自分の体に向き合い、ケガをしないで力を引き上げる方法は必ずある。力は試行錯誤することで付くと確信しています。同じ練習、同じ方法でなくても、自分に合ったやり方を探していけます」

そして考え抜いた末にこれという方法を見つけたとき、鈴木は東京オリンピックでも結果を出すだろう。

4years.のつづき

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