日本トップレベルに成長、名大陸上部で過ごした「濃密な時間」 鈴木亜由子3
今回の連載「4years.のつづき」は、東京オリンピック女子マラソン日本代表の鈴木亜由子(29、日本郵政)です。陸上の強豪校ではない名古屋大学に進み、力をつけた過程を4回の連載で紹介します。3回目は日本トップレベルに成長した3年時、そして陸上部の仲間と過ごす中で変わってきた意識の持ち方についてです。
ロンドン五輪選考で感じた新谷たちとの差
大学3年時の2012年はロンドンオリンピックイヤーだった。モンクトン世界ジュニア出場選手では男子200mの飯塚翔太(現ミズノ、当時中央大3年)と、やり投のディーン元気(ミズノ、当時早稲田大3年)が日本代表に入った。
鈴木はというと、シーズン序盤の重要試合である5月の静岡国際5000mで10位(15分51秒88)。優勝した小林祐梨子(豊田自動織機)には100m以上の差があった。6月の日本選手権も10位(15分50秒16)で、優勝した新谷仁美(積水化学、当時ユニバーサルエンターテインメント)とは、やはり100m以上の差をつけられた。
「日本のトップはまだ見えていませんでしたね。日本選手権でも差があって、どうやったらあんなに速く走れるんだろう、と思っていました」
金尾洋治監督は2年時の記事中で触れたように、ロンドンオリンピックを狙わせたかった。「鈴木はその頃、Aグループの男子と一緒に練習をしていました。自己記録が15分ちょっとで、本気で14分台を狙っていた選手たちです。福士(加代子・ワコール)さん、新谷さんに負けるとは思わない、と言って励ましたのですが、本人はそこまで自信を持てませんでした」
鈴木と金尾監督では、Aグループで練習をしていた時期の記憶が食い違っている。金尾監督は、2年の終わり頃から継続してAチームで練習していたという。だが鈴木自身は、3年時にAグループで練習した回数は、「それほどないです」と話している。
鈴木の中でBチームとAチームの違いを、そこまで意識していなかった可能性がある。ポイント練習のタイムも、4年間で「それほど上がったわけではない」と言っているのだ。
ではなぜ、試合の成績が上がっていったのか。鈴木は「継続できたから」だという。「故障は大学でも2、3回はしましたが、私の競技生活の中では少ない方でした。金尾監督は量よりも継続することを重視した練習だったので、自分のようなタイプには合っていたのだと思います。学生時代にすごく練習を積んでいたら体が持たなかったでしょう」
金尾監督の立てる練習を理解し、継続することで鈴木は強くなった。2人の記憶の相違も、見方によっては名大時代の鈴木のスタンスを表しているように思える。
Aグループの男子選手との練習の具体例
金尾監督が当時のAグループの、2つのメニューのタイム設定を教えてくれた。
4000m(13分20秒~13分40秒)-2000m(6分10秒)-1000m(3分切り)。つなぎはジョグかウォーク
8000mビルドアップ(1周84~88秒で4000m、82秒で2000m、80秒で2000mとペースを上げていく)
設定よりも速く走ったりすることはなかったようだが、金尾監督は「鈴木は平気な顔をしてやっていましたね」と当時のことを話す。「実業団のスカウトの方が見学に来られることもありましたが、『練習の方が試合より強いのでは』という評価をいただいたこともありました。それで私もロンドンオリンピックを狙えると本人に言ったのですが、試合になると新谷さん、福士さんに勝てませんでしたね」
鈴木自身は名大時代の練習を、どう走っていた印象を持っているのか。「名大は集合する回数も少なかったですし、ジョグを速く走ったりするより、ポイント練習に合わせていくトレーニングパターンでした。自分の体調をしっかり合わせていくことに集中していました」
マラソン練習でよくあるような、ジョグのスピードを上げたり距離を増やしたり、という練習の仕方ではなかった。学生時代に“マラソンランナー鈴木亜由子"につながる部分があったのか。その点に関しては4年時の記事で触れるが、名大時代は基本的にはトラックや駅伝に多い練習パターンだった。
それでも学年が進むと徐々に、ポイント練習以外も充実してきていた。上級生になっていくと授業の選択の幅が広がるが、ポイント練習がない月水金曜日の午後にジョグができるような授業スケジュールを組んだ。「グラウンドに併設されていた一万歩コースはかなりの山道なのですが、そこやクロスカントリー・コースを走っていました。キャンパスの外へも走って行きましたね」
後輩部員の「亜由子さんが走っているのに会う回数が多くなった気がします」という証言もある。
人との関わりが鈴木の生き方に影響
3年時10月の国体成年5000mは15分34秒15のシーズンベストで2位。優勝した新谷との差は16秒36で、シーズン前半の日本選手権のときよりも小さくなっていた。それでも鈴木は、実業団で競技を続ける決心ができないでいた。
「そろそろ進路を決めないといけない時期になってきて、実業団でやってみようという気持ちに傾き始めてはいました。でも、決心はまだつきませんでしたね。大学1年で15分30秒台を出したときは、15分30秒は切れると思ったんですが、毎年シーズンベストは15分30秒台。ここまでの選手かな、という気持ちもあったんです」
現実を見れば、5000m16分台の選手でも実業団入りしている。15分30秒台なら駅伝メンバー入りは間違いないレベルだ。鈴木の中で実業団に所属することは、日本のトップレベルで走る、あるいは世界で戦うべき立場、というイメージがあったのかもしれない。言い換えれば、実業団駅伝に出られればいい、どんなポジションでも走り続けられればいい、という気持ちで陸上競技を続けるつもりはなかった。
金尾監督からは「人よりも恵まれた能力があるのだから、それを生かさないといけない」と言われていた。使命感というと本人は否定しそうだが、続けるとすればそれに近い感覚も鈴木にはあった。
その状況でも実業団入りに傾いていたのは、陸上部のチームメートと過ごす時間を、「濃密な時間」と感じていたことが関係している。
「陸上部にはいろんな学部の人がいて、考え方も競技へのスタンスも人それぞれでした。なかには院生になっても競技を熱心に行う人も、全日本大学駅伝を走りたくて卒業しないで競技を続けている人もいました。皆それぞれ目指すものを持っているんです。だからこそ走る時間をすごく大事にしている。そういった人たちと一緒に過ごす時間が、すごく濃密な時間でした」
金尾監督が次のように補足してくれた。「名大に来る学生は、私から見ると東大や京大に行けなかったコンプレックスをどこかに持っています。走ることも、中京大の学生には勝てない。それが自分も頑張れば、全日本大学駅伝に出られそうだとわかると人が変わってきます。理工系の学部の学生はもともと大学院まで行くケースが多いのですが、大学院に進学して陸上もプラス2年、それも気持ちを込めてやるようになる。ドクターにいって9年間続ける選手もいます。市役所に就職しても1単位残し、留年して全日本大学駅伝を目指した部員もいました。そこまで競技に懸けている部員たちを間近に見て、自分はどこまで競技に向き合っているのだろうと考えたのだと思います」
鈴木にも、決断の時が迫っていた。