陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

名大スタイルで強さの基礎を作るも、世界に飛び出す自信を持ちきれず 鈴木亜由子2

2019年12月、母校を訪問し陸上部の部員と写真におさまる鈴木(撮影・朝日新聞社)

今回の連載「4years.のつづき」は、東京オリンピック女子マラソン日本代表の鈴木亜由子(29、日本郵政)です。陸上の強豪校ではない名古屋大学に進み、力をつけた過程を4回の連載で紹介します。2回目は日本トップレベルの力を持ちながらも、自信を持てなかった大学2年時のことについてです。

「これを成し遂げたい、という目標を見つけるため」名古屋大学へ入学 鈴木亜由子1

日本選手権欠場にも悔しさは希薄だった

2年時(2011年)の鈴木は、前年秋の記録で6月の日本選手権5000mの出場資格を持っていた。入学時に立てた目標の3大会出場の中で、最後に残った大会である。しかし、その日本選手権に鈴木は故障で出場できなかった。

卒業後3年目(2016年)で代表入りしたリオデジャネイロオリンピックは、直前に故障をして10000mは出場できず、日程が後だった5000mだけ走った。前年の北京世界陸上は決勝に進んで9位と入賞に迫ったが、リオでは予選落ち。「記憶は靄(もや)がかかったようにぼやけている」と言うほど悔しい思い出だ。

2016年のリオオリンピックは予選落ち。記憶があいまいなほど悔しい思いをした(撮影・朝日新聞社)

それに対して名大2年時の日本選手権には、「そんなに悔しかった記憶はなかったんです」と言う。「まだ学生だっていう枠を、自分で設定してしまっていたのだと思います」。故障をするのは自分が弱いからで、日本一を争うレベルまで自分は達していない。そう決めつけていた。

日本選手権欠場への悔しさはなかったが、故障対策への意識は高かった。名大ではポイント練習前の準備は各選手に任されていたが、鈴木の流しやストレッチは「人一倍丁寧だった」(金尾洋治監督)という。個人的に鍼治療にも「週に1回か2週に1回」(鈴木)は通っていたし、「足底のセルフマッサージ」も、練習後に欠かさず行っていた。

故障をしてしまったときは、水中トレーニングを行うために民間ジムのプールに通った。冬期に故障したときは、短距離ブロックと補強を一緒に行ったり、体幹トレーニングのやり方を短距離のコーチから教わって行ったりしていた。

故障が治っても体幹や自重でのトレーニングを継続していると、いつしか鈴木と一緒に行う部員が増え、“亜由子の輪”と周りから言われるようになった。鈴木は「故障が明けて力が落ちていると思ったことは、意外とないんです」と当時を振り返る。

食事への配慮も十二分にした。実家が米穀店だったこともあり、小さい頃から食生活はしっかりしていた。だが高校時代は故障した後に、体重増を気にして食事制限をしすぎてしまった。その反省も学生時代は持っていた。

「一品でバランス良く栄養がとれる食事を作りました。いろんな食材を入れて、偏らないようには心がけましたね。ご飯、肉や魚、野菜、果物と。不安もあったので1年の時に、専門の方に栄養分析をしていただきました。自分で栄養に関する知識も仕入れ始めた頃で、サプリメントを飲み物に溶かして飲んでいました」

強豪校や体育系の大学でも、自分ひとりでここまで実行できる選手は少ないだろう。鈴木の故障防止への意識レベルは相当に高かった。

日本インカレ優勝、中学以来の全国制覇

2年時の鈴木は6月までは試合に出られなかったが、7月の復帰戦を経て8月には15分49秒46で走っている。独走だったことを考えれば自己記録に匹敵するタイムだ。故障中のトレーニングもしっかり行ったことで、ケガ明けですぐに以前と同じか、それ以上のレベルに戻ることができた。

大学2年になっても、ポイント練習の大半はBグループで行っていた。金尾監督の方針で特に速いタイムで行っていたわけではないが、秋になると結果が出始めた。

9月の日本インカレ5000mでは優勝することができた。「自分で先頭を行くことに怖さがなかったレースです。自分のやりたいことができましたね。金尾監督もすごく喜んでくれました」

中学時代に全日本中学選手権1500mを2連覇した(2年時は800mとの2冠)。当時も自分で先頭を突っ走ったが、その頃は他の選手と力の差があった。大学2年時は故障や、自分の力が通用するか自信が持てなかった時期を乗りこえた上で、先頭を走ったことが違いだった。

「中学の時は優勝することが当たり前のように感じていて、プレッシャーもかなりのものでした。しかし2年時の日本インカレは勝たなければいけないプレッシャーはありませんでしたね。挑戦者としてのびのびと、自分の走りを迷いなくすることができました。直前の全日本大学女子駅伝予選会で調子の良さが確認できていたことも、プラスに働いたように思います。そこが大きな違いであり、また中学以来の全国でのタイトルだったので、少し感慨深いものもありました」

そして10月には15分33秒47と5000mの自己記録を更新した。年が明けて1月の全国都道府県対抗女子駅伝では1区で19分23秒の区間4位。1年時も1区を任され19分49秒の区間6位だった。区間賞選手との差も8秒から2秒へと縮めている。

名大の練習や環境に溶け込んでの成長

鈴木が2年時に5000mで15分33秒47の自己新を出したのは、10月の名大と一橋大との対校戦だった。全国七大学対校、阪大・名大女子対校、愛知六大学対校など、ローカルな対校戦にも鈴木は積極的に参加した。

「競技レベルは違うかもしれませんが、選手それぞれが自分の力を伸ばしたいと頑張っていました。そのひたむきな思いは変わらないと感じていたので、自分が突出している感覚はありませんでしたね。だから試合では、いつも全力で走ることができました」

大きな大会で結果を出したとしても、淡々と練習をし続けた(写真は本人提供)

大きな大会とまったく同じピーキングではなかったかもしれないが、自分を特別視しないスタンスが名大で成長する上で重要になった。金尾監督の言葉が、大学時代の鈴木をよく表している。

「大きな試合で良い成績を挙げて帰ってきたとしても、凱旋イベントのようにみんなで迎えることは一切しませんでした。日曜日が試合だったら、次に集合するのは火曜日ですが、そこは休ませて木曜日からチームの練習に加わります。そしていつものように男子と一緒に練習していました」。駅伝などで快走する鈴木をテレビで見たチームメートは、数日後にはいつもと同じように名大のグラウンドを走っている鈴木の姿を見ていた。

「大きな大会前、最後1週間の調整メニューは選手が自分で考えて行いますが、そこまでのメニューや設定タイムを鈴木だけ変えることはありませんでした。大事な試合の前も緊張させないように、いつもの試合のようにトレーニングをさせました」

男子と一緒にトレーニングをすることも普通の感覚で、自分は女子だから遅れてもいい、という発想にならなかった。「ポイント練習で鈴木が遅れたことは、ほとんどなかったと思います。男子では調子が良くなると頑張りすぎて、脚を痛める選手もよく現れましたが、鈴木は安定した練習を続けました。そういった強さはありましたね。欲を言えばもう少し試合で爆発してもよかったと思いますが、大学で伸びきってしまったり、疲労感を残したりする練習はさせたくなかった。卒業後は実業団にいって世界を目指す選手ですから」

勉強も他の名大生と同じように頑張っていたし、仲の良い部員もいて、生活は普通の大学生と変わらなかった。その感覚で男子選手と一緒の練習をこなしていた。金尾監督は「鈴木は自分が特別とは思っていなかったはずです。平々凡々とやっていました。だから伸びしろもあった」と言う。

2年目の鈴木は名大の環境に自身をフィットさせることで、成長するための基礎がしっかりと固まってきた。

ロンドンオリンピックには意識が間に合わなかった

金尾監督は鈴木に特別な練習はさせなかったが、特別な才能を持っていることは理解させたかった。「陸上で生きていくべき人間なんだよ、と会うたびに言っていました。名大に入るくらいですから他にも能力は持っているのですが、『持って生まれた走る才能があるのだから伸ばさないといけない』と。私もそういう選手が来てくれたからには、世界に通用する選手になるための土台を作って、次の指導者に引き渡すのが役目だと思っていました」

決して成長を急がせなかったが、2年の終わり頃にはAチームで練習する回数が増えてきた。15分00秒~30秒の男子選手と同じ練習ができるということは、女子なら代表を争う選手たちと勝負できることを意味していた。一緒に練習していた男子たちも、そのグループに安住するのでなく、次のレベルに上がろうと必死で練習していた選手たちだ。

「大学3年のときにロンドンオリンピックがありましたから、2年生の頃から『オリンピックを狙おうよ』と何度か話しましたが、『えーっ』という反応でした。まだ実業団選手と渡り合う自信を持てなかったのだと思います。自分は朝練習もやっていないし、ポイント練習もそんなに追い込んでいない。ロンドンオリンピックの標準記録Aが15分20秒で、15分30秒を切れないことも引け目に感じていたようです」

ロンドンオリンピック女子5000m代表の(右から)吉川美香、新谷仁美、福士加代子。彼女たちと鈴木には意識の差が歴然としていた(撮影・朝日新聞社)

実際、3月のアジア・クロスカントリーでは新谷仁美(積水化学、当時豊田自動織機)に1分32秒差をつけられるなど、力の違いを見せつけられるレースもあった。

それに加えて鈴木には、「オリンピックは神聖な場」という意識が強くあった。日本郵政の入社2年目(2015年)に世界陸上5000m9位と入賞に迫ったが、それでも「オリンピックは特別な場。出るのに相応しい努力をした人間だけが立てる大会」だと話していた。世界陸上代表になっても、自分にオリンピックに出る資格があるのか、と遠慮してしまう。学生時代に貪欲に挑めなかったのは鈴木の性格上、仕方のないことだった気がする。

本気でオリンピック代表をつかみにいくには、そのために努力をした自信が鈴木には必要だった。

日本トップレベルに成長、名大陸上部で過ごした「濃密な時間」 鈴木亜由子3

4years.のつづき

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