陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

日大1年目に日本選手権優勝、意識は翌年のシドニー五輪へ 富士通・澤野大地2

1998年のインターハイは「澤野大地」を全国に知らしめた(撮影・全て松永早弥香)

今回の連載「4years.のつづき」は、棒高跳びの日本記録保持者(5m83)で3度のオリンピック(2004年アテネ、08年北京、16年リオデジャネイロ)を経験し、40歳になった現在、東京オリンピックを見据えている澤野大地です。富士通で競技を続ける傍ら、母校である日本大学の専任講師とコーチを務めています。5回連載の2回目は成田高校(千葉)から日大進学についてです。

日大・江島雅紀 両親の励ましに応えて日本選手権初V、澤野大地へも恩返し

インターハイで5m40の高校新記録&2連覇、それでも……

高2の秋には5m25を跳び、高校新記録を樹立。また同じタイミングで、自身初となる国際大会に出場した。アジアジュニアで場所はタイ・バンコク。海外に行くのも初めてだったため、まずはパスポートを作らないといけなかった。現地では言葉が通じず、食事も全然合わない。「試合をする以前の問題でした」と澤野は振り返る。当時はすでに5m20をコンスタントに跳べていたにも関わらず、この大会は4m80で惨敗した。

滝田詔生先生(故人)の言葉で「世界」を目指すようになった澤野は、2連覇がかかっていた高3のインターハイで5m40をマークし、自身が記録した高校記録を大幅に更新。大会MVPにも選ばれた。この時に澤野は初めて専門誌「陸上競技マガジン」「月刊陸上競技」の表紙を飾っている。「陸上をしていた人には分かると思うんですけど、あの雑誌に名前が載ること自体がうれしいじゃないですか。中学生の時に初めて名前が載った時とか『あった!』とか思ったもんです。今度は自分が表紙になっている。友達と本屋さんに見に行って、『自分がいっぱいいる!』ってなりましたね(笑)」。その雑誌は今も実家にある。続く国体でも、少年共通棒高跳びの大会新記録(5m30)で優勝をつかんだ。

5m40を跳び、目指していた記録に手が届いたと思った一方で、「これではまだ世界で戦えない」という思いもあっという。同時期にフランスで世界ジュニアがあり、澤野はどちらかの大会を選ばないといけなかった。「一緒に練習してきた仲間たちと一緒に戦いたい」という思いからインターハイを選び、その結果、5m40を跳ぶことができた。ただ世界ジュニアではパヴェル・ゲラシモフ(ロシア)が5m55を跳んで優勝している。記録だけを見れば5m40は銅メダル相当。ただ自分が遠征して同じ舞台に立った時に、力を発揮できるかを計算すると、まだ自分と世界とには差があるように感じた。

世界ジュニアで活躍した選手と自分。5m40ではまだ足りないと感じた

五輪を見据えて日大へ

世界との差をどうやって埋めるか。明確にオリンピックを見据えていた澤野は、総合連覇していた日本大学への進学を決めた。成田高の陸上部監督だった越川一紀先生(元・順天堂大学陸上部監督)と日大陸上部で指導していた小山裕三先生(現・日大スポーツ科学部長)は成田高時代、滝田先生の指導の下で初めてインターハイ総合優勝を果たしたメンバーだった。そうした縁もあり、日大に進むのは自然な流れだったという。

ちなみに澤野には1つ下と4つ下の弟がおり、澤野が5m40を跳んだ際、次男は「あの澤野の弟」ということで当時通っていた高校の陸上部の顧問から熱心に勧誘され、高3になった時にハンドボール部から陸上部に転部した。肩の強さを見込まれてやり投げに取り組み、その後、順天堂大学で十種競技に転向して関東インカレ2位などと結果を残している。三男は澤野と同じく印西中から棒高跳びを始め、成田高に進んだ。「正直、よくできたなって思いましたよ。私が日本トップなわけですから、絶対比べられるじゃないですか。でも棒高をやっていたからこそ、私のことを兄貴としてリスペクトしてくれているのは感じました」

三兄弟は顔が似ていたこともあり、澤野が日大の学生だった際、日大のジャージを着ているにも関わらず、順大の学生から「こんにちは」と挨拶をされることがあった。「『あれはお兄さんの方だよ』と言っているのが聞こえました」と笑って振り返る。

日本選手権優勝にも満足せず

日大の練習拠点は今と同じ桜上水。当時も棒高跳びのピットにはタータンが敷かれていたが、トラックはまだ土だった。入学した時の4年生には西川康秀さん(現・函大有斗高監督)や山本佑樹さん(現・明治大駅伝監督)などがおり、とくに一つ上には山村貴彦さん(シドニー五輪の男子400m/男子4×400mリレー日本代表)や寺野伸一さん(アテネ五輪の走り幅跳び日本代表)、村上幸史さん(アテネ五輪と北京五輪のやり投げ日本代表)など、力のある選手がそろっていた。

初めて家を出ての寮生活は「不安半分、楽しさ半分」だったという。「先輩と一緒の集団生活がどんなものなのか分からなかったけど、東京に住める新しい生活は楽しみでもありました」。当時は食堂のおばちゃんがいて、その手伝いを1、2年生が担っていた。寮の規律をたたき込まれ、目上の人との付き合い方を学ぶ日々。集団の中で生活することで社会性を養い、人として成長することができたと感じている。

1999年の初優勝に始まり、澤野はこれまでに日本選手権で11回優勝している(写真は19年の日本選手権)

澤野は1年生の時に日本選手権を制している。日大に進んだばかりの時は環境が変わったことで競技のペースを崩してしまい、春の関東インカレでは思うような記録を出せなかった。日本インカレの前に一度、成田高に帰って練習したところ、なんとなく自分を取り戻すことができたという。9月の日本インカレで5m50のジュニア新記録で優勝。勢いのまま、10月に行われた日本選手権で5m40を跳び、優勝を飾った。初めて手にした日本一ではあったが、澤野の感覚は「優勝できちゃった」という程度。翌00年のシドニーオリンピックにどうやって挑むか、しか考えていなかった。

日大には3つのユニホームがある。最初に皆が着るのは白地にNのユニホーム。関東インカレ・日本インカレ・日本選手権で3位以内になればNにピンクの縁が入り、同3大会で優勝もしくは日大記録を更新するとピンクの襷(たすき)が入る。日大の学生たちにとっては、ピンクの襷のユニホームは誰もが着たいもの。澤野も気持ちは同じだったが、それよりも「それにしないと駄目だろう」という方が近かったという。結局、白地にNのユニホームは初めての日本インカレで卒業した。

4years.のつづき

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