フィギュアスケート

特集:フィギュアスケート×ギフティング

関学・櫛田一樹「他の人にできないことを」、マイケルジャクソンメドレーへ挑戦

櫛田はフィギュアスケート選手の中では遅いとされる小5で競技を始めた(代表撮影)

櫛田一樹(関西学院大4年、岡山理科大附)は昨シーズン、思うように結果を残せなかったが、スケーティングの評価は上がっており、それは櫛田にとって大きな自信となっている。今シーズン、ショートは昨シーズンからの継続、フリーは新たな挑戦として「マイケルジャクソンメドレー」を選んだ。「他の人にできないことをしたい」という思いから、終始踊りっぱなしというハードで難易度が高いプログラムだ。多くの人に喜んでもらえるような演技を見せたい。そのためにも、櫛田はスポーツギフティングサービス「Unlim(アンリム)」を活用することを決めた。

田中刑事を見てすぐにフィギュアを決意

小学5年生の時、「本当は私がやりたかった」という母に連れられ、櫛田は岡山県倉敷市にあるスケートリンクを訪れた。見学に訪れた時間はちょうど倉敷クラブの練習時間となっており、たくさんの選手が練習をしていた。その中で一際目立っていたのが、田中刑事(現・国際学園)だった。目の前で軽々とジャンプを跳んでいるのを見ているうちに「これは僕にもできるかもしれない」と思い、その場でフィギュアスケートを始めることに決めた。しかし、既にノービスAの年齢に達しており、選手を目指すなら急いで級を取らなければならなかった。

現在、全日本選手権に出場している多くの選手は、幼児期からフィギュアスケートを始めており、小学生から始める選手は少ない傾向にある。ましてや小学校高学年からスタートをするのは遅すぎると一般的には言われている。しかし櫛田はその一般論をものともせず、学校が始まる前にリンクに行き練習をし、学校が終わってからもすぐにリンクに戻るなどして1日中練習をし、諦めることなく人一倍努力をした。また周りにいてくれた人たちも、献身的にサポートしてくれた。その成果が実り、翌年のノービスA最後のチャンスとなる全日本ノービス選手権に出場できた。

平日は岡山で練習、週末は早朝バスで大阪へ

中学に進学するのと同時に、田中と同じコーチに指導をしてもらうべく、毎週末、大阪に通うことになった。交通費を浮かすため早朝バスを利用するなど、少しハードな日々を過ごしていたという。大阪で練習をしている時は、自分の技術がどんどんよくなっていくのを感じていた。しかし平日に倉敷に戻って自主練をしていると、どうしても元に戻ってしまい、大阪での練習はまた振り出しからの指導になることが多かった。

櫛田は高3の時、ババリアンオープン(Jrクラス、ドイツ)で優勝している(写真は本人提供)

もっと効率よく練習を積み上げるために、平日は岡山県にいるコーチに見てもらうのはどうかと提案され、櫛田もその提案にぜひにとお願いをしたという。そうして出会ったのが、現在、櫛田のメインのコーチとなっている有川梨絵コーチだ。平日は倉敷市や岡山市にあるリンクで有川コーチの指導を受け、週末は今まで通り大阪で練習を積む。練習の積み上げができるようになると技術がどんどん伸びていき、自然と結果もついてくるようになった。そして高校3年生の時、初めて強化選手に選ばれ、国際大会に派遣されるまでになった。

コロナ禍、お風呂場に板氷を敷き詰めて

兵庫県に新しいリンクができたことで、指導を受ける拠点リンクが変更。毎日指導が受けられるよう、リンクから徒歩5分の場所で一人暮らしを始め、進学先も同じ兵庫県にある関西学院大学に決めた。当時は田中を含め、同年代の男子スケーターがリンクに多く在籍し、日々切磋琢磨(せっさたくま)できていた。ときにはリンクで行われているスケート教室でコーチを担当し、スケートの楽しさを伝えることもあった。また近所に住む同じ大学の先輩と一緒に自転車で大学に通ったり、スケート仲間でオンラインゲームをしたりなど、オンオフともに楽しい日々を過ごしていたという。

しかし昨年、新型コロナウイルスの蔓延により緊急事態宣言が発令され、スケートリンクの長期休館が決定し、櫛田の生活も一変した。練習がなくなった上に大学もオンライン授業となり、家でひとりで過ごす時間が長くなった。しばらくスケート靴を履かない日があると、革で作られているスケート靴の感覚が変わることがある。そのためオンライン授業中はスケート靴を履いて過ごすなど、家にいながらできることを続けていた。

コロナ禍で練習ができなくなったことをきっかけに、改めてフィギュアスケートと向き合うことができた(代表撮影)

毎日練習をしていた頃は「今日は練習したくないな」と感じることもあったが、いざ練習がなくなると氷の感覚が恋しくなり、お風呂場に板氷を敷き詰めそれに乗ることもあった。「今考えるとおかしいですよね」と笑って話してくれたが、フィギュアスケートを始めてからずっと毎日練習を積めてやってきた櫛田だったからこそ、氷に乗れないことがコロナ禍での大きな不安材料だったのだろう。緊急事態宣言が明けて1カ月ほどは、1日の練習は1~2時間ほど、その後、制限はあれど通常通りの練習ができるようになった。そうした日々を過ごす中で、「初心に返ることができた」と振り返る。

全てやり切る覚悟で、再び倉敷へ

練習が再開されてからは、以前の感覚を取り戻すのに必死だった。特に三半規管は衰えており、スピンの練習をすると気分が悪くなることも多々あった。またジャンプも精度が落ち、なぜ跳べないのかと自問自答することが続いた。それを見ていたコーチも心配して声をかけてくれたが、自分の中で何かが違うと感じていた。そうした日々が続き、色々悩んだ末に、櫛田は当時のコーチに一度倉敷に帰って練習をしたいと伝えた。「残りの競技人生は長くはないのだから、思ったことはやった方がいい」。コーチはそう背中を押してくれ、倉敷に戻ることに決めた。そして、帰省した際にレッスンをしてくれていた有川コーチに連絡をし、メインコーチとして指導を受けることになった。

倉敷に戻ってからはリモートで授業を受けながら、練習時間もある程度確保でき、トリプルアクセルや4回転の質も上がってきている。そして冒頭の通り、今シーズンはフリーで「マイケルジャクソンメドレー」に挑戦することを選んだ。

難易度が高いプログラムゆえに、櫛田自身はもっと振付の指導を受けたいと思っているが、振付のコーチは関西在住で、指導を受けにコーチのいるリンクに通うか、練習をしているリンクへ来てもらうかのどちらかとなる。ただ、どちらをとっても交通費などといった経費がかかってくることが負担となっていた。ちょうどその時に「Unlim」のことを知った。チームメートである平山姫里有(倉敷FSC)も利用しており、「もし支援をしていただけるのであれば日々の指導に加え、プログラムの精度を向上させるための指導を受けに行けるのではないか」と思い、利用することに決めた。

後悔のない日々を過ごし、「マイケルジャクソンメドレー」を

今シーズンは大学生としては最後のシーズンとなるが、初心に戻って一つひとつの試合を楽しみたいという。初戦は8月8~12日に滋賀県で行われるサマーカップだ。そこで初披露となるフリーは、ステップの入りから工夫を凝らしており、そこが一番の見どころだという。成績は特にはこだわっていないが、「昨シーズンより強化しているスケーティングに加え、高難度のジャンプが決まるなど自分が満足する演技ができたら、自然と結果はついてくると思っている」と話してくれた。大きな会場で「マイケルジャクソンメドレー」に乗って観客を沸かしてくれる姿を見るのが楽しみだ。

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