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特集:あの夏があったから~甲子園の記憶

東海大菅生・小玉佳吾「めちゃくちゃ楽しかった」甲子園、旋風巻き起こしたベスト4

2017年夏の甲子園、準々決勝で2ランホームランを打つ小玉(撮影・朝日新聞社)

大学最終学年となった今年度は、東海大の副主将としてチームをまとめる小玉佳吾(4年、東海大菅生)。10試合に出場した首都大学野球春季リーグ戦では、安定したプレーを続け、初のベストナインを獲得した。高校では3年生の夏に甲子園に出場し、チーム史上最高となるベスト4入りの原動力となった。主将となった2年秋からの「思い通りにならなかった」時期を経て、どのようにチームを立て直していったのか。当時を振り返ってもらった。

甲子園で旋風起こした2017年夏

2017年の夏、主将の小玉が率いる東海大菅生は、「全国制覇」という目標を掲げて西東京大会に挑んでいた。桐朋との3回戦こそ初戦の難しさもあってか、3-2と「あたふたしてしまった」が、以降は危なげなく勝ち上がった。準々決勝では日大三のエース・櫻井周斗(現・横浜DeNA)を打ち崩し、準決勝では小玉らの4本の本塁打で日大二との打撃戦を制した。4年連続で駒を進めた決勝で相まみえたのは、「怪物」と呼ばれた清宮幸太郎(現・北海道日本ハム)擁する早稲田実業。全国的にも注目された強豪だったが、東海大菅生ナインに特別な意識はなかったという。

「仮に早稲田に勝つ、日大三高に勝つという意気込みだと、それを達成してしまったら、次の目標がなく負けてしまう。だから、自分たちは常に『全国制覇』と言い続けて戦っていました」

その言葉通り、東海大菅生は6-2で早稲田実業に快勝し、17年ぶり3回目の甲子園行きを決めた。「プレッシャーから解放されて、ほっとしました」と振り返る小玉だが、喜びに浸ることもせず、チームメートとすぐに視線を甲子園に向けていた。

西東京大会を制し17年ぶりの甲子園を決めた。小玉は選手たちから胴上げされた(撮影・朝日新聞社)

「聖地」に乗り込んだ東海大菅生は、大舞台の緊張など微塵(みじん)も感じさせず、初戦から打ちまくった。西東京大会決勝から打順を3番に上げた小玉も絶好調だった。11-1で大勝した高岡商(富山)戦は2安打3打点。3回戦ではバックスクリーン左に豪快な2ランを放り込み、4安打3打点で青森山田(青森)を粉砕。準々決勝の三本松(香川)戦でも、初回に先制2ランを放ち、9-1で相手を寄せつけなかった。チームの打線が好調だったのは、冬場に費やしたウェートトレーニングの成果だと小玉は話す。

「前年までは早稲田や日大三高とかに比べて線が細かったので、そういうチームに勝つには体を大きくしないといけないだろうと取り組みました。すると、春先のオープン戦からバッターは長打が増え、ピッチャーは球速が速くなって、それでまたウェート自体も楽しくなってと、相乗効果が生まれていました」

しかし、花咲徳栄(埼玉)との準決勝は、9回に2点ビハインドを追いつく粘りを見せたものの、延長11回に突き放され、6-9で惜敗。仲間が作ってくれた9回サヨナラのチャンスに三振に終わったこと、「全国制覇」には届かなかったことはもちろん悔しい。でも、そうした感情以上に、「チームが試合を重ねるごとに成長できている実感があった。甲子園はめちゃくちゃ楽しかった」と、あの夏は今では小玉のかけがえのない思い出となっている。

花咲徳栄との準決勝に敗れ、涙するチームメートに声をかける小玉(左、撮影・朝日新聞社)

主将に就任してから思い悩んだ2年生の秋

その夏から遡ること3年、文命中3年生だった小玉は、西東京大会決勝で東海大菅生が日大鶴ケ丘にサヨナラ負けに終わった試合を見て、「この高校で甲子園に行きたい」と強く思ったという。東海大菅生に入った1年目も、決勝まで駒を進めながら、スーパー1年生の清宮がいる早稲田実業に逆転負け。小玉はスタンドから先輩を応援することしかできなかったが、「来年こそは」と固く誓った。その年の秋から控え投手としてベンチ入りし、2年生になった翌16年から主にセカンドで主力を担うようになったが、夏はまたしても決勝で涙をのんだ。八王子に3-5と、延長11回で力尽きた。

2年時は延長11回、八王子に勝ち越されて全国はつかめなかった(撮影・朝日新聞社)

小玉は全6試合でスタメンを飾ったものの、22打数5安打で目立った活躍をできず、「先輩におんぶに抱っこで、自分の思っていたようなプレーはできなかった。先輩たちともっと長く野球をしたかった」という悔しさばかりが思い出される。チームとしても3年連続準優勝で、その要因を小玉は「甲子園に出場することが目標になっていたので、決勝戦であと1つ勝てば、となると、甲子園に行きたいという気持ちが先走って、思い切ったプレーができていなかった」と考えている。

2年の秋には新チームの主将に就任。だが、勝たなければいけないという重圧に加え、「プレーで引っ張りたかったけれど、どうしても口酸っぱく言ってしまい、おそらく納得しない部員もいて、チームの雰囲気はあまり良くなかった」という。秋季都大会は3回戦で敗れ、翌春も4回戦敗退。おまけに小玉は、春に投手を務めたことでひじを故障し、戦線離脱を余儀なくされる。しかし、治療に専念した主将不在の期間が、チームが浮上していくきっかけとなった。

「チームから一歩引いて、第三者の目でグラウンドを見るようになって、視野が広くなりました。一人ひとりと向き合う時間も増え、もっとこうした方がいいんじゃないかとアイデアもいろいろ生まれてきた。自分の怪我がチームにとってプラスになったと思います」
それが17年夏の東海大菅生の快進撃につながっていったわけだ。

苦しいときも高校時代の経験を糧に

東海大への進学は、「野球の名門校ですし、縦じまのユニフォームがかっこいい。大学でも縦じまを着たいな」という思いから希望し、高校3年の春には決まっていたという。目標にしたのが、小玉が1年生だった時のチームの主将を務めた平山快(現・JFE東日本)だった。平山は東海大相模時代の14年に甲子園に出場し、東海大では2年の春から主力として活躍。リーグ戦での4年間の通算打率は.347で、ベスト9には4回、18年の秋季リーグでは最高殊勲選手に輝いている。

「平山さんはバッティング技術が高く、人間性も素晴らしかった。チームから頼られていて、自分もそういう選手になりたいと思いました。数字的には、今もまだ達成できていませんが、リーグの3冠王を目指しています」

1年目は高校時代に受けた手術のリハビリ、2年目の春前は死球で手首を骨折と、大学生活は大きく出遅れてしまった。2年の秋季リーグで公式戦デビューを飾ったものの、3年の春はコロナ禍に見舞われた。リーグ戦が中止になったのは残念だったが、その時期もバッティングフォームを見直すなど、時間を無駄にはしなかった。そうして苦しい時もメンタリティーを保つことができたのは、「高校3年間の経験があったから」と小玉は言う。

大学ラストシーズン、高校時代の経験も糧にして日本一を目指す(撮影・小野哲史)

「最後の夏は充実していましたが、キャプテンになってからの秋や春は、いろいろとつらい思いもしてきました。その経験が、大学に進んだ後、けがをしても諦めないとか、野球ができなくても自分で着実にできることを見つけられる忍耐力につながっている気がします」

大学ラストシーズン、悲願の日本一を

最終学年として迎えた今年度は、チームの副主将としての役割も担い、「キャプテンの門馬(大、4年、東海大相模)は、私生活も練習態度も素晴らしいキャプテンなので、自分はそこで何か言うつもりはなく、練習や試合で引っ張っていこうと。とくに門馬が出ていなかった春のリーグ戦は、グラウンドでは自分がキャプテンという気持ちでやっていた」と明かす。

その責任感がプレーにも表れ、小玉は春季リーグ戦で3番、あるいは4番でファーストに入り、10試合に出場。自信があるという「勝負強さや右方向へのバッティング」をすべて出し切れたわけではなかったが、初のリーグベストナインに選ばれた。

大学での野球は、秋季リーグ戦を残すのみ。個人成績のリーグ3冠王と、チームのリーグ優勝を携えて、明治神宮野球大会で高校時代に果たせなかった「日本一」をつかみ取りたい。

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