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特集:あの夏があったから2021~甲子園の記憶

智辯和歌山・池田陽佑 歓声が聞こえないほど集中していた、星稜・奥川との投げあい

19年夏の甲子園、3回戦の星稜戦で力投する池田(撮影・朝日新聞社)

立教大学の池田陽佑(ようすけ)は1年時から神宮のマウンドに立ち、現在2年生ながらチームの中心選手になっている。池田は智辯和歌山高校で春夏通じて4季連続で甲子園に出場した。3年夏の甲子園では、星稜高校との延長十四回の攻防の末サヨナラホームランを打たれて敗戦。その試合に至るまで、そしてそこから得たものについて話を聞いた。

地道な努力を続け成長し、チームのエースに

京都府宇治市出身の池田は、小学校2年のときから野球を始めた。もともと野手だったが、中2のときにピッチャーに転向した。高校進学時には「地元を離れたい」という思いもあり、いくつかの高校から誘いがあった中で、智辯和歌山高校に進学した。入学する時はある程度やれるだろうと自信があったが、先輩たちのプレーを目の当たりにすると、「本当にここでやっていけるのだろうか」という気持ちになってしまった。それでもしっかりと練習についていき、2年生の春のセンバツで初めて甲子園のマウンドに立った。

「マウンドに立ってみたら、マウンドからキャッチャーがめっちゃ近いな! って思って、そこにびっくりしすぎて。それで緊張がほぐれました」。マウンドからホームベースまでの距離は規定で18.44mと決まっており、甲子園もそれを踏襲しているはずだが、池田には他の球場よりも圧倒的に近く感じたという。

春は初戦(2回戦)の富山商業戦でリリーフとして投げ勝ち投手に。準々決勝の創成館(長崎)戦でもリリーフとして登板すると、準決勝の東海大相模(神奈川)戦では先発を任された。しかしここでは1アウトも取れずに4点を先制され、降板。その後、点の取り合いとなり延長戦を制し、迎えた大阪桐蔭との決勝。池田はまたも先発を任された。四回に両チームが2点ずつ取り、七回まで投げた池田だったが、先頭打者に四球を出したところで交代。交代した投手が打たれ、池田は負け投手となりチームは準優勝だった。

2年のセンバツでいきなりチームの中心に抜擢。決勝まですすんだ(撮影・朝日新聞社)

「とにかく、2年生のときは全国で投げられましたが、『すごい人たちばっかりだ』という感想でした」。他の選手に圧倒され、もっと努力しようと決意した。まず基礎体力の向上に地道に取り組み、フォームもじっくりと見直した。そして自分のピッチングに自信が持てるようになり、「自分のピッチングができたら抑えられる」と思えるまでになっていった。

優勝を目指しチームが一致団結

3年春のセンバツでは2試合に先発し、2回戦の啓新(福井)戦では完投して勝ち投手に。しかし翌日の準々決勝で敗退となった。夏こそ、「優勝」をつかみとりたい。池田たち3年生は本気で練習に取り組んだ。「自分がちゃんとしないと、後輩もついてこないんで。人一倍練習して見せるようにしてました」。特に夏の大会前の6月に厳しい集中練習があり、それを乗り越えた時に一致団結したチームになっているなという手応えがあった。

「メンバーとそれ以外の仲もすごく良くて、特にメンバー外になった選手たちが『勝たせよう』という気持ちで取り組んでくれました」。対戦相手のデータを取ってきてくれたり、次の代にはレギュラーとなるであろうピッチャーも、自分から志願してバッティングピッチャーを務めてくれたりした。その気持ちに、メンバーに選ばれた選手たちの士気もますます高まっていった。

「絶対に優勝する」という気持ちで甲子園に乗り込んだ(撮影・朝日新聞社)

和歌山大会を突破し、迎えた夏の甲子園。池田は1回戦の米子東(鳥取)戦に先発で登板し、八回1失点に抑え勝ち投手に。2回戦の明徳義塾(高知)戦では、後輩の矢田真那斗(当時2年)のあとを受けて、1点ビハインドの六回から登板。七回にはみずからのバットでチャンスを作ると、一挙7点のビッグイニングによりチームが逆転。そして九回表の投球で、球速が150kmを記録した。「試合では球速にこだわることはなかったんですけど、その瞬間は球場全体の『ウオー!』っていう歓声が聞こえました」と笑う。「この試合の時は自分でなんとかしよう、という気持ちが大きかったです」

奥川との投げあい、ゾーンに入っていた

4日後の3回戦は星稜(石川)戦。エース・奥川恭伸(現ヤクルトスワローズ)は「大会ナンバーワンピッチャー」との呼び声高く、試合前から注目が集まっていた。中谷仁監督は、試合前に選手たちに「絶対に勝負は後半戦になる」「後半で点を取られないように」と言っていた。先発は小林樹斗。矢田への継投があり、六回表に味方が1-1の同点に追いついた直後。池田はその裏からマウンドを任された。奥川は1点を失ったものの圧巻の投球を続けていた。

「絶対に点を取られない」という気持ちで登板した池田。味方の攻撃の時は、奥川の投球は意識して見ないようにしていた。「奥川くんは相当すごいんだなと思ってましたけど、もし彼を見て、自分も速い球を投げようとして力んじゃうと、自分のピッチングができないので。必要以上に相手のことを気にしないようにしていました」。しびれるような投げあいが続き、九回でも決着がつかず延長戦へ。池田はこの時のことを「ゾーンに入っていた」と思い返す。「聞こえていたのはキャッチャーからの声と、味方の合図ぐらいでした。歓声は本当に聞こえませんでした。集中すると本当に音が聞こえなくなるんです」

延長十三回からはタイブレークとなり、ノーアウト1、2塁の状態からプレーがはじまった。十三回は両者3人で終え、十四回も智辯和歌山は奥川の前に3人で終わる。そして迎えた十四回裏。最初の打者奥川が送りバントに失敗し、2人目の打者福本陽生に0-1から投じた球をレフトスタンドに運ばれ、ゲームセットとなった。池田は膝を折ってマウンドでうなだれた。

14回裏、サヨナラホームランを打たれがっくりと膝を折る池田(撮影・朝日新聞社)

「優勝を本気で目指していたので、本当に悔しかったし、みんなとの思い出も頭をよぎって涙が出ました」。しかしこうも思ったという。「高校最後にあんな試合ができるチームなんてなかなかないし、そこで奥川くんと投げあえたことも幸せだったと思います。なにより、みんなと最後に野球ができたのが本当に幸せでした」。ともに頂点を目指した仲間とは「めちゃくちゃ仲がいいです」と笑い、今でも連絡を取り合うという。

みずから考え、さらに高みを目指して

池田は立教大学に入ってからも、高校時代の経験が生きていると感じている。「智辯和歌山では、高校では珍しいと思うんですが自主的な練習が多かったんです。そういう環境で『自分がなにをするべきなのか』と考える習慣が身につきました。大学でも自主性に任されているところが多いので、しっかり考えて行動できていると思います」。今は基礎体力はかなり向上してきたので、体の使い方など細かいところを気にして、自分の体をより知ることに努めている。

1年の春シーズンから神宮で登板し、特に今年の春リーグは2年生ながら9試合に登板した池田。優勝争いをするチームの躍進にも大いに貢献した。去年と今年で、チームの何が変わりましたか? とたずねると「勝ちにこだわるようになりました」と返ってきた。「去年は『できることをしよう』と言っていました。今年は極端に言えば、『できていなくても、勝てればOK』という雰囲気になりました」。池田も自分の課題というよりも、「相手をどう抑えるか」をより意識して戦っていたという。「ただ、大学は負けても次の日も同じ相手とやらなければいけなかったりと、気持ちの切り替えが難しいところがあります。甲子園は1回負けたら終わり。大学は負けても続く、それが一番難しいです」

チームの主力として、4年で20勝、そしてプロ入りを目指す(写真提供・立教大学野球部)

2年生ながら投手陣の主力として期待される池田の大学での目標は「20勝」、そして「プロ入り」だ。「そこしか見てません。同世代でプロに行っている選手たちと、同じ世界で勝負したいと思っています」とはっきり言い切る。

改めて最後に、甲子園を戦う高校生に向けてのメッセージを聞いた。「3年生はこのメンバーと戦うのが最後だと思うので、一球一球大切に、楽しんでプレーしてほしいです」。高校最後の夏、一生の思い出に残る試合をしたからこその言葉だった。

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