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SR渋谷・関野剛平、東海大で学んだ「みんな違ってみんないい」で自分の武器を生かす

関野は東海大卒業後、レバンガ北海道を経て2019-2020シーズンからサンロッカーズ渋谷で戦っている(写真提供・B.LEAGUE)

バスケットボール選手に話を聞くと「子どものころから運動はほぼなんでもできた」と答える者が多い。サンロッカーズ渋谷の関野剛平(27)もその1人だ。ただし、本人によると同じスポーツ万能少年の中にもランクがあるらしく、「自分は上級バージョンでしたね。身体能力には子どもの頃から自信がありました」と笑った。

その図抜けた身体能力を武器とし、任されたのは勝機を呼び込むディフェンダーの役割だ。休むことなく足を動かし、しつこく食らいつき、いかに相手に嫌われるか。「渋谷のアイデンティティはディフェンスですから、スタメンで出る自分が先陣を切って相手の出鼻を挫(くじ)くこと、それが仕事だと思っています」

「勝てなかった悔しさ」で東海大進学を決意

生まれは北海道。オホーツク海沿岸に位置する湧別町で育ち、2歳上の兄を追うようにバスケを始めた。高校は地元を離れてバスケの名門・東海大第四(現・東海大札幌)へ進学したが、当時の関野にはそれほど上昇志向があったわけではないという。

「そうですね。田舎の学校で自由にバスケをしていた自分はそのまま地元の高校に進むつもりでいました。東海大四に進んだのは親の強い勧めがあったから。それがなかったら、多分のんびりバスケを楽しんで終わっていたと思います」

ハードな練習や厳しい上下関係など今までとガラリと変わった環境の中で、関野の3年間は過ぎていく。インターハイ、ウインターカップを経験したのは「先輩たちが連れて行ってくれた1年の時だけ」。主力となった2年間はいずれも全道大会を突破できずに終わった。「忘れられないのはウインターカップ出場を懸けた3年最後の大会です。全国の舞台まであと1つというところで高橋耕陽(現・サンロッカーズ渋谷)がいた札幌日大に敗れました。あんなに練習してきたのに、あんなに頑張ってきたのに俺たちは勝てなかったんだと思ったら、悔しさと寂しさが入り混じったような何とも言えない気持ちになりました」

北海道で生まれ育った関野は、勝ちたいという気持ちから強豪・東海大に進んだ(写真提供・B.LEAGUE)

東海大学に進んで優勝を目指したいと思ったのはその時だったかもしれない。周りからおまえのレベルではついていくのは難しいと言われ、他の大学を勧められても関野の気持ちは揺るがなかった。例え主力になれなくてもいい。大学トップのチームで自分を磨きたい。「進学するなら東海大。自分の中にはそれしかなかったです」

ギリギリAチームの関野が手に入れた新しい武器

東海大バスケ部は実力によってAとBの2チームに分かれ、年に1度“ふるい分け”が行われる。付属高校の推薦枠で入学した関野は暫定的にAチームに配属されたが、集まった同期の顔ぶれを見て驚いた。

「延岡学園から来た寺園脩斗(現・レバンガ北海道)や洛南から来た伊藤達哉(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)をはじめ、自分がバスケの雑誌で見たことがある有名選手ばかりでした。知られていないのは僕と同じ付属推薦で東海大相模から来た中山拓哉(現・秋田ノーザンハピネッツ)ぐらい。だから、初めの頃はちょっと気が引けてましたね。無意識にみんなから少し離れたところにいました(笑)」

練習が始まると、まず圧倒されたのは先輩たちとのフィジカルの差だ。「1対1で守っていても横からザックさん(バランスキー、現・アルバルク東京)やケビンさん(晴山、現・富山グラウジーズ)がスクリーンに来るとそれだけでバコーンと吹っ飛ばされるんですよ。ただスクリーンをかけに来ただけですっ飛んじゃうんです」。そんな自分がAチームに残れる自信は全くなかった。2カ月後に行われた“ふるい分け”で残留が決まった時は喜びより驚きの方が大きかったという。

「残れたと言ってもギリギリでぶら下がっているのは分かっていました。ただレベルの高いAチームの中でやれるのは刺激的で楽しかったです。考えていたのは自分の長所をもっと伸ばしたいということだけ。得意のドライブやディフェンスでピンポイントでもいいから使ってもらえるようになるのが目標でした」

そのために必要な強いフィジカルを得るためにウェートトレーニングは人一倍頑張っていたと聞く。「あっ、いえ、それはちょっと違います。多分何かの聞き間違いです。ウェートトレーニングをめちゃくちゃ頑張っていたのは本当ですが、それはバスケのためというより“海”のためでした」。東海大(湘南校舎)は海に近いこともあり、夏になるとみんなでよく海に出かける。「そこで鍛え抜いた体を誇ることを目指していたというか、そのためのウェートトレーニングだったというか。なんか不純な動機ですみません」

関野は確かに大学4年間でフィジカルを強化したが、最初はバスケのためではなかったという(写真提供・B.LEAGUE)

ところが、この“不純な動機でめちゃくちゃ頑張っていたウェートトレーニング”が後に思わぬ形で実を結ぶことになる。3年生になったある日、練習中に「あれっ?」と声を出しそうになった。激しいコンタクトを繰り返しても当たり負けしないのだ。「俺の方が普通にフィジカル強いんじゃない?って感じたんですね」。もしかするとそれは自分の新しい武器になるかもしれない。ギリギリAチームにぶら下がっていたはずの関野にベンチ入りの声がかかったのは、それから間もないことだった。

最後のインカレでも「全員バスケ」を貫いた

「ついていくのは難しい」と言われた東海大に入り、1度もBチームに落ちることなく、最後はレギュラーとしてコートに立った。関野の4年間を振り返ると、そこには確かな成長の足跡が見える。

「東海大に入って得るものはたくさんありましたが、中でも大きかったのは1年から4年までインカレの決勝を経験したことです。優勝できたのは1年の時だけで、もちろん自分が出場したわけではないですが、それでも4年間あの雰囲気を味わえたのはすごいことだと思っています。特に実際に戦った4年の時のインカレは敗れたとはいえ得るものは大きかった。あの時の僕らの代はそれぞれが自分の役割を担って戦う『全員バスケ』のチームで自分もその中の1人でした。そこで感じたのはチームって『みんな違ってみんないい』ということです。自分のような選手でも長所を生かして戦うことで戦力になれるんだと、1つの自信につながったような気がします」

渋谷の「ウルトラマン」

東海大卒業後はレバンガ北海道でプロとしての経験を積み、2019-2020シーズンに移籍したサンロッカーズ渋谷でディフェンダーとしての明確な役割を得た。「スタートから執拗(しつよう)なディフェンスで流れを作ってくれた関野を評価したい」というのは、優勝を果たした2020年の天皇杯で伊佐勉ヘッドコーチが語った言葉。待望のチャンピオンシップ進出を決めた昨シーズンは「関野のディフェンスに助けられた試合は少なくなかった」と、主将のベンドラメ礼生もその貢献度を称えた。

実はそんな関野には「ウルトラマン」という異名がある。「ありますね。瞬発力はあっても持久力がない。全力でディフェンスをして全力でコートを走ると大体3分でエネルギーが切れます。オフェンスだったら体力配分も自分のペースで作れるところがありますが、ディフェンスはボールマンについて相手の動きを読みながらずっと動き続けなければならない。で、3分で体力タイマーが点滅します(笑)」。しかし、プレータイムをシェアしながらディフェンスの精度をキープする渋谷では、関野の「全力の3分間」が大きくものを言う。「その責任は十分自覚していて、“みんな違ってみんないい”の1人として自分の武器を100%出すことだけを考えています」

ディフェンスに全力を注ぐ。それは自分の役目だと関野(右)も自覚している(写真提供・B.LEAGUE)

オフからオンへとスイッチが切り替わり、新シーズンに向けての練習がスタートした。担うディフェンスマンの仕事に加え、自らに課した目標は「強いフィジカルを生かしたドライブの精度を上げること」だ。「フィニッシュまで持っていくのはもちろんですが、それが難しい時はしっかりファウルをもらえるようになりたいと思っています」

走り続ける長いシーズンがまた始まりますねと声をかけると、「そうですね」と、神妙にうなずいた。が、次の瞬間、その顔に大きな笑みが浮かぶ。「長いシーズンにきっといろんなことがあると思いますが、負けませんよ。言い忘れましたが、僕のもう1つの長所はへこたれない性格なんで」

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