ラグビー

明治大学の雲山弘貴、出遅れた最後のとりでは「結果を残すことしか頭にない」

明治大学の雲山弘貴。10月の筑波大戦に途中出場で復帰した(撮影・全て斉藤健仁)

関東大学ラグビー対抗戦は12月5日、最終戦の「早明戦」が行われる。帝京大学の優勝が決まり、明治大学は対抗戦3連覇を逃したが、伝統の一戦に勝利するだけでなく、その後の全国大学選手権のためにもライバル早稲田大学を相手に中身の濃い試合をしたい。定期戦の通算成績は明大の40勝54敗2分け、ここ2年は明大が連勝している。

けがから復帰の大型フルバック

タレントが揃う明大において、バックスの最後尾から力強いランとロングキックで勝利に貢献してきたのが身長187cmのFB(フルバック)雲山弘貴(4年、報徳学園)だ。ただ今季は、6月の試合で負傷し出遅れてしまった。10月24日の筑波大戦で控えから出場し、その後の慶應義塾大戦、帝京大戦では定位置の15番として先発出場した。

11月20日の帝京大戦は接戦に持ち込んだが7-14で敗れた。雲山は「(帝京大の)動画を見ていて、ディフェンスで13番が上がってくると思っていて、それに対応するアタックの練習しかしていなかった。実際には13番が(ディフェンスで)流してきて、ちょっと想定外のことが起きたときに、なかなか対応できなかった……」と唇を噛(か)んだ。

早明戦には1年生の時から出場してきた

個人的には雲山は「(けがの)痛みは完全にとれましたが、4カ月くらいラグビーができない時期があり、あまり言い訳したくないですが、自分の思い描いているプレーとはほど遠かった。いかにスピードに乗ってボールをもらえるか。味方にポジショニングを伝えて、良い形でボールをもらえるようにしていきたい」と先を見据えた。

チームとしては早大戦に向けて、春から鍛えてきたフィットネス、クイックテンポを武器に「キックをあまり使わず、どんどん攻めていこう」と話しているという。個人としては雲山は「キックでエリアを取って、自分がラインブレイクして、活躍してチームに勢いつけるようなプレーがしたい」と意気込んでいる。

高校からのライバル対決

雲山にとって、今年の早明戦は「特別で、特に勝ちたい」試合である。ライバルの早大との大学最後の定期戦ということもあるが、1年生の時、勝てば対抗戦で優勝できるという大一番で、ミスを多発し「自分のせい」で敗戦、対抗戦で3位タイ(大学選手権では4位扱い)になってしまった。そのシーズン、明大は大学王者に輝くが、雲山は大学選手権のピッチに立つことができず、「悔しさの方が大きかった」と振り返った。

もう一つ、雲山にとっては早明戦ではどうしても勝ちたい訳がある。早大の対面が同じ4年の河瀬諒介(東海大仰星)となった。ずっと切磋琢磨(せっさたくま)してきた相手だけに「意識しないようにしていても、やっぱり気になってしまう」と正直に吐露した。

報徳学園高時代、U17日本代表選考を兼ねた近畿ブロックのセレクションマッチで、雲山はけがをしてしまったが、河瀬は活躍してそのままU17日本代表に選出された。また3年生の時は、花園(全国高校大会)の準々決勝で対戦して20-50で敗れ、河瀬がいた東海大仰星は優勝した。高校、大学を通して対戦成績は2勝2敗といい、「勝ちたいですね!」と語気を強めた。

早稲田大学のFB河瀬諒介 連覇へのキーマンは明治大学の「怪物」を超えられるか
第97回全国高校大会準々決勝では河瀬諒介(左)がいた東海大仰星に敗れた

雲山は兵庫県出身で、5歳の頃、幼稚園の友達に誘われて西宮甲東ジュニアラグビークラブで競技を始めた。後に報徳学園高でも一緒にプレーする流通経済大のWTB(ウィング)中西海斗は同スクールで小さい頃から楕円(だえん)球を追った幼なじみだ。

小学2年生から4年までの3年間は父の仕事の関係で、横浜に住んでいたため、神奈川の田園ラグビースクールに通った。同時に小学校のサッカークラブでもプレーしたことで、キック力が培われたという。中学校では陸上部に所属していたが、スクールでラグビーを続けた。雲山は兵庫県のスクール選抜に選ばれたが控えばかりであまり出場機会がなく、当時は無名の選手だった。

高校は「自転車で実家から3分くらい」だった報徳学園に進学する。高校1年生の時は身長も170cm台後半で、まだまだ細かったが、西條裕朗監督、泉光太郎ヘッドコーチが、雲山のポテンシャルを買って、積極的に試合に起用したという。さらに神戸製鋼でも活躍したOBの山北靖彦コーチにランコース、クイックパス、キックなど今につながる基本スキルを指導してもらい「感謝しかないです」と話す。

高校で雲山が一番覚えている試合は、2年生の時、初めて出場した花園の2回戦、秋田工戦だ。ノーシードだった報徳学園は、現在は明大でチームメートのCTB(センター)児玉樹らがおり、シード校だった相手に24-19で勝利し、「格上にも勝てると自信になりました」。翌年も再び、シード校の中部大春日丘を下して花園でベスト8に入った。

河瀬とともに高校日本代表に選ばれるまで成長し、身長も187cmと大きく伸びた雲山には多くの大学から誘いがあったが、明大を選んだ。それは高校1年の時のキャプテンだったWTB山村知也(ブラックラムズ東京)がいたからだった。山村の肩を上げる動作を真似ているうちに、自分も癖になってしまったほど憧れの存在で、「また一緒にプレーしたい」と伝統校の門を叩いた。

「自分に自信を持て」恩師のげき

明大では高校、大学の先輩にあたる田中澄憲監督(当時)に1年の時から出場機会をもらった。2年生になり思い切ってプレーできず悩んでいた時に、田中監督に「自分に自信を持て。天狗になるのと自信を持つのは違う」と言われたことをハッキリと覚えている。それからプレーに迷いがなくなり、特にこの年の慶大、帝京大戦は自分でも「思い通りに動けた」試合となった。

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2年生のシーズン終了後には、スーパーラグビーに参戦していたサンウルブズに練習生として参加する。「今まで考えていないことばかりで刺激になった」。キックやランで少しでも疑問があれば、SO(スタンドオフ)小倉順平(横浜イーグルス)、CTB/FB森谷圭介(東京サンゴリアス)、FB竹田宜純(花園ライナーズ)らトップ選手にアドバイスをもらった。

2年生のシーズン後にはサンウルブズに練習生として参加した

また当時、サンウルブズを指導していた沢木敬介コーチ(現・横浜イーグルス監督)の存在も大きかった。4歩で蹴る、蹴り足着地といった蹴り方のスキル面だけでなく、「もっと私生活にラグビーを持ち込め」というアドバイスを受けた。それ以降、暇さえあれば、SOボーデン&FBジョーディーのバレット兄弟らオールブラックス(NZ代表)や日本代表FB松島幸太朗(クレルモン)らの動画を見るようになり、それはコロナ禍でも続けている。

雲山は小さい頃、大畑大介、小野澤宏時らが好きで「日本代表になることが目標だった」という。4月からはリーグワンのチームでプレーする予定で、「自分が一番活(い)きるポジションだと思うので、今後も15番にこだわっていきたい」。ただ、大学のラグビー生活は、残り1カ月あまり。雲山は「あと(大学では)4、5試合しかないので、今は明大で結果を残すことしか頭にない」と目の前の試合に集中している。

自分が最も輝ける背番号15のフルバックにこだわる

大学スポーツはラグビーだけでなく、最後は4年生がいかに力を発揮するかにかかっている。雲山もそれを十分承知しており「(後方から)バックスをリードしていきたい。4年生がどれだけチームを引っ張っていくかが勝ち負けにつながってくる。紫紺のジャージーにプライドを持ち、明治の名に恥じないようなプレーをして早明戦に勝って、必ず大学選手権で優勝したい」と腕を撫した。

FBというポジションはディフェンスでは「最後の砦(とりで)」であり、アタックでは後方から参加しラインブレイクすることが役目だ。ハイボールキャッチでも要となる。紫紺の15番を着た雲山が大きく見えれば見えるほど、明大が勝利に近づく。

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