中央学院大・吉田光汰、3000mSCで才能が開花 最後の箱根駅伝こそはシード権を
今シーズンの中央学院大学はエース・栗原啓吾(4年、東農大二)の活躍が目立っているが、同期の吉田光汰(拓大紅陵)も大学4年間で力をつけてきた選手だ。1、2年生の時に出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝と学生3大駅伝を全て走り、今年5月の関東インカレ男子2部3000m障害(SC)では2度目の優勝を成し遂げた。この活躍ぶりとは裏腹に、高校時代は「納得の結果が残せなかった」という。そんな吉田の現在までの陸上人生を振り返る。
「すごい悔しかった3年間でした」
吉田は小学校1年生から中学3年生まで野球少年だった。投手、捕手、ショートなど様々なポジションを務め、中学3年生の時には主将に就任。部員約10人ほどと少数だったが、「キャプテンとしてまとめることができた」と振り返る。
中学3年生の時に出場した市内の陸上大会で拓大紅陵高校(千葉)の小谷野慎也監督に声をかけられ、また、2つ上の兄も拓大紅陵で陸上をしていたこともあり、吉田も拓大紅陵で陸上をしようと決意。「上を目指して頑張りたい」という思いを胸に、「関東大会・全国高校駅伝(都大路)への出場」を目指すチームの中で力を蓄えた。
3年生の時に副将を務め、「キャプテンのように表に立っていうのではなくて、背中で見せていく方が自分には向いていた」と言葉通り、吉田は自分の走りでチームを引っ張った。千葉県高校駅伝で3年間全て1区を走ったが、3年生の時にチームは8位となり、目標である関東大会への出場(6位以内)はかなわず。「すごい悔しかった3年間でした」と振り返る。
始めたばかりの3000mSCで関東インカレ準優勝
大学は中央学院大に入学。きっかけは川崎勇二監督だ。「一番に声をかけていただいた監督でした。こんな自分に声をかけていただいたことがすごく嬉(うれ)しかった。川崎監督に恩返ししたい」という気持ちから入学を決めた。
そしてルーキーイヤーから吉田の快進撃が始まった。
前半シーズンは好きな種目に取り組めたため、3000mSCを選択。「ただ走るだけではつまらなかった。障害があれば楽しさが増すんじゃないかなって」と好奇心で競技を始めた。初レースは4月29日に行われた平成国際大学競技会。吉田はいきなり9分12秒74をマークして関東インカレ3000mSCの男子2部A標準(9分15秒00)を突破し、関東インカレへの出場を決めた。
2レース目となった関東インカレの予選では、9分9秒08と自己ベストをマーク。決勝では序盤から先頭集団でレースを進める積極的な展開を見せると、「(高橋)翔也さん(当時中央学院大2年、現・ヤクルト)の背中を追って無我夢中で走ってました」と先輩の力も借り、8分55秒38と更にタイムを縮めて準優勝を果たした。吉田は「表彰台に上れたのが信じられないほど嬉しかったです」と当時の興奮を振り返る。周りも「やばいでしょ!」と驚きの反応を返してくれた。
関東インカレが終わってからは、駅伝に向けた練習に切り替えた。すると関東インカレの勢いそのままに夏合宿では選抜メンバーに入り、「びっくりするほど走り込んだことで強くなれた。自信を持って駅伝シーズンに挑むことができた」と言う。その年の内に学生3大駅伝全てに出走を果たした。
18で途切れた箱根駅伝連続出場
勢いは留まることを知らず、2年生での関東インカレでは男子2部3000mSCで優勝をつかんだ。「初めて大きな大会でてっぺんを取れたのはすごく嬉しかった」と吉田。「けがなく順調にこなせていたことで結果を出せている」と、ケアも怠らず練習に取り組んでいたことが功を奏した。
2年目も学生3大駅伝全てに出走し、特に箱根駅伝は2年連続で7区を任された。しかしチームは総合11位に終わり、シード権を逃した。吉田も区間14位と精彩を欠き、「自分のところでもっと走れていれば、と思うとチームの足を引っ張ってしまって申し訳ない」と反省点を述べた。「走ることで満足してしまっていた。結果を残さないといけない」と新たな目標を掲げて練習に取り組んだ。
3年生になった昨年は新型コロナウイルスの感染症拡大を受けて様々な大会が中止になり、吉田のモチベーションの軸となっていた関東インカレも延期になった。「モチベーションを保つのが難しい年でした」。結局、関東インカレは箱根駅伝予選会の1週間前に開催されることが決まり、関東インカレを回避して箱根駅伝予選会に集中することにした。
迎えた箱根駅伝予選会、中央学院大は総合12位で2003年から続いていた本戦連続出場が18で途切れてしまった。吉田はチーム4番手の1時間3分21秒でゴールしたが、「まさかの予選落ちで悔しかった。自分でもう少し稼げていたらと思うと……。来シーズンは小島慎也(大阪)が3年生キャプテンに就任することが決まっていたので、自分たち最上級生がサポートして、来年の予選会は必ず通過する」という目標を掲げた。吉田はその年度の箱根駅伝で走路員を務めたが、選手たちが通り過ぎるのを見て、改めて舞台に立てなかった悔しさがこみ上げてきたという。
最後の関東インカレで後輩とそろって表彰台
今年の関東インカレは、例年通り5月に開催されることが決まり、「昨年出られなかった分、優勝しよう」と目標を立てた。男子2部3000mSC決勝では、後輩の上野航平(3年、市立船橋)が序盤から引っ張り、中盤では吉田が引っ張った。後ろの集団が離れて上野と2人になり、「ワンツーでいきたい」という気持ちが強くなったが、「勝つ、絶対負けられない!」と最後は先輩の意地で優勝をつかんだ。吉田は8分46秒55、上野は8分48秒30での3位に入り、ともに自己ベストをマーク。「表彰台に2人で立てたことが嬉しかった」と吉田は満面の笑みで話した。
3000mSCで結果を出し続けている理由をたずねると、「ハードルをどちらの足でも跳べることが大きいです。そこで他の選手との差を広げられていると思います」と技術面の理由を挙げたが、「楽しんで走れていることが結果につながっています」と笑顔で加えた。
しかし、翌6月の全日本大学駅伝関東地区選考会では2組目で最下位に沈んだ。「走り出したら体が重くて動かなかった。チームに迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかった」と落ち込んだが、チームは3、4組目で巻き返し、総合6位で全日本大学駅伝の切符をつかんだ。「後ろの組ですごい走りをしてくれた。こんなところで落ち込んでいてはチームに迷惑がかかる。すぐ切り替えよう」と前を向き、再び練習に取り組んだ。
最後の箱根駅伝こそシード権獲得を
8月は体調管理不足で合宿に参加できず、「自分が戻らないとチームは終わる」と回復に向けて取り組んだ。チーム内には故障者が続出し、10月の箱根駅伝予選会では出場者の半分以上がハーフマラソンの距離に不安を抱えたまま、レースに向かうことになった。
吉田も緊張こそしていたが、「チーム全体で何が何でも予選会は通過しよう」と闘志を燃やしてスタートラインに立った。強い風が吹く中でのレースに苦戦を強いられたが、吉田は111位でチーム5番目につけ、中央学院大は総合7位で22回目の箱根駅伝出場を決めた。「昨年落ちていた分、チームみんながすごい嬉しさにあふれていた。自分も状態が戻ってきていると実感できて良かった」と話した。
その2週間後にあった全日本大学駅伝では、7区区間7位で順位を1つ上げ、チームは11位で終えた。最後の箱根駅伝に向けて「いい状態に仕上げられている」と吉田。区間賞を目指し、シード権獲得に貢献する走りを思い描いている。
吉田は3000mSCで才能を開花させ、トラックでもロードでも4年間で成長を遂げた。最後の箱根駅伝では最高の結果で、笑顔で、襷(たすき)リレーが見られることに期待したい。