陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

松本大学・熊谷悟、地元で11年の陸上人生「最高の仲間たち」と流したたくさんの涙

熊谷は地元・長野で競技を続けてきた(写真は全て本人提供)

昨年9月17~19日の日本インカレは、松本大学の熊谷悟(4年、創造学園、現・松本国際)にとって集大成の舞台となるはずだった。しかしその直前に部員が新型コロナウイルスに感染し、部は活動停止。日本インカレも欠場となった。「そうか~という感じで……。何を言っても覆らないので、そういう運命だったかと思うしかなかったです」。地元・長野で陸上に情熱を燃やしてきた11年間。「その終盤になってから、陸上を通して得られたもの・学んだものの大きさを感じられるようになりました」と熊谷は少し照れくさそうに言った。

上を目指すことで見えた楽しさ

陸上を始めたのは小6の時。担任の先生が「思い出に残ることをしよう」と呼びかけ、走ることが嫌いではなかった熊谷は学内の陸上部に入った。「結構楽しかったんで」と広陵中学校(長野)でも陸上部へ。100mや200mを専門にしていたが個人種目では県大会に進めず、4×100mリレーをみんなで走れたらいいなと思う程度だったという。

そんな中、2年生の時に小川裕樹先生(現・長野高専)が広陵中に赴任。「筋持久力があるようだし、400mや800mが向いているんじゃないか?」と小川先生にアドバイスをもらい、2年生の冬季練習から本腰を入れて陸上と向き合った。3年生では400mに種目を変え、県大会では3位、北信越大会ではあと一歩で決勝を逃したが、「小川先生には上を目指して本気で取り組むことで、改めてスポーツの楽しさを教えてもらいました」と熊谷は振り返る。

中2での北信越中学駅伝で熊谷(左から2人目)も補欠メンバーになり、広陵中は優勝。1つ下の松崎咲人(右から5人目、現・東海大3年)は家が近所ということもあり、今も連絡を取り合っている

高2で転部してきたデーデーとともに

高校は長野県内の強豪校・創造学園高校(現・松本国際)へ。ハードル種目への憧れもあり、高校から種目がある400mHを専門にすると決めたが、それまではハードル練習すらしたことがなかった。「本当にハードルが下手で……。ちょこちょこ走ってハードルをピョンって跳んで、10台目を跳んだらダッシュするような、出し切れないからきつくもないというか」と苦笑い。顧問の山﨑豊茂先生が熱心に指導してくれ、ことあるごとに格言を授けてくれた。「『苦しくなってからが勝負』とか、『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』とか。正直、その時はふ~んとしか思ってなかったんですが、大学生になってからハッて思って、先生の言葉が響くようになりました」

高2の春にはサッカー部から同学年のデーデー・ブルーノ(現・東海大4年)が転部してきた。力試しでデーデーが見せた力強い走りは鮮明に覚えている。「素直に速かったです。ブルーノは人見知りするところがあって、僕と一緒だなって。ライバルというよりは一緒に頑張って大きな大会にいけたらいいなと思っていました」

熊谷(右)は同期のデーデーと競い合うように力をつけてきた

デーデーは急激に成長し、高3の時には100mで北信越大会2位、インターハイ5位と実績を残した。東海大に進んでからも勢いは止まらず、昨年の日本選手権では100mと200mでともに2位になり、本戦で走ることはなかったが、東京オリンピック4×100mリレーのメンバーに選ばれた。熊谷もその日本選手権をテレビ越しに応援し、準決勝の走りを見て「3位にいける」と確信したという。「まさか2位になるとは思ってなくて、さすがブルーノだなって」。デーデーとは今も交流は深く、「親みたいな目線で、楽しくやってくれたいいなと見守ってます」と笑いながら明かす。

デーデーが100mで2位になった北信越大会で、熊谷は400mHで7位となり、6位までが進めるインターハイを逃した。目指していた舞台に立てなかった悔しさを国体出場に昇華することができたが、熊谷自身にはやり切ったという気持ちが一切なかった。「ここでは終われないなという気持ちがあって、陸上を続けて、大学では日本選手権を目指そうと思うようになりました」

草野誓也さんの指導で変わった

関東の強豪大学に進めば強い選手と張り合いながら練習ができるかもしれない。でも練習する・しないは自分で決めること。環境だけが全てではない。そう考えていた熊谷は家から通える地元の松本大に進む道を選んだ。「松本大学の歴代の先輩には400mHで日本インカレに出ていた人もいましたし、親に対してせめてもの孝行かな」。2018年春、松本大学人間健康学部スポーツ健康学科に進学。自分が好きで親しんできたスポーツを学術として学び、将来もスポーツに関われたらと考えた。大学4年間で競技を終える自分が後悔しないように、という思いとともに。

松本大には学内にトラックやトレーニングルームがあり、何より、人見知りな自分を先輩たちが温かく迎えてくれた。課題に感じていたハードル技術は、他の選手の走りも参考にしながら少しずつ改善。特に110mH東京オリンピック日本代表の金井大旺や、400mHリオデジャネイロオリンピック日本代表の松下祐樹(ミズノ)の動画を見て、自分に応用できそうなところを実践していった。

2年生の時に日本インカレに初めて出場し、予選敗退。「本当に力の差を見せつけられました。これが大学の全国か、と」。自分が取り組まないといけないことがまだまだあると実感させられた。2年生の冬には村中智彦コーチの縁で、ACCEL TRACK CLUBの草野誓也さんに指導してもらえる機会に恵まれた。草野さんは20年にヒューストン大学でトム・テレツコーチから指導を受け、その理論をベースにしてアスリートに指導をしている。

草野さん(下段左から2人目)の指導を受けたことをきっかけに、熊谷(上段右から5人目)の中の陸上は大きく変わった

草野さんの指導は2日間だけだったが、基礎となる動きをたたき込まれ、練習の方向性や質が大きく変わるきっかけになったという。「草野さんのおかげで走りの根幹となるものをつかめ、それを忠実に何度も再現できれば理想の走りに近づくのかな、というイメージも湧きました」。3年目のシーズンを前にして、最高の状態に仕上げられているという実感もあった。

コロナに翻弄された2年間

その矢先にコロナが世界中で猛威を振るい、春を前にして部活は停止。様々な大会が中止・延期となった。目指す大会が見えず、9月の日本インカレも本当にできるのか分からない。熊谷の気持ちも折れてしまった。今は休み期間だと前向きに捉え、練習はほどほどに毎日アルバイトをして過ごし、日本インカレのことは諦めた。8月には部活が再開され、熊谷も記録会に出場。日本インカレは開催され、熊谷は顔なじみの選手たちをライブ配信越しに応援した。「僕は楽観的な方ですし、普通に『ブルーノ頑張れ!』とか思いながらライブ配信を見ていました」。その分、最後の日本インカレにかける気持ちは大きかった。

ラストイヤーを前にして、熊谷は短距離ブロック長に就任。草野さんから学んだことを参考にしながら、他の選手の走りを見て気になるところがあれば積極的に声をかけた。冬季には充実した練習ができ、昨年8月の東海選手権では51秒94と自己ベストをマーク。最後の日本インカレこそは入賞を。そう思っていた矢先に部員のコロナ感染が発覚し、大学として日本インカレ出場は認められなかった。東海選手権が自分のラストレースだったのか。そう思うとやり切れなかった。

9月24日には大学の後期が始まり、授業は全てオンラインに切り替わり、部活は引き続き活動停止。だが10月8日には条件下で部活を再開できるめどが立ち、10月23~24日北信越インカレに間に合った。練習は間に合わせ程度だったが、熊谷は陸上ができる喜びと自分を支えてくれた人々への感謝を胸にラストレースに挑み、400mHで優勝。52秒82と自己ベストには届かなかったが、自分が思い描いてきた走りができたことがうれしかった。

引退試合となった北信越インカレを終え、「全然練習できてなかったわりにはいい走りができたし、いい形で終われたかな」と熊谷

照れくさいことも素直に言い合える仲間

引退にあたり、後輩たちへ4年生からメッセージを送った。4年生は皆、感謝の気持ちを述べ、熊谷もまた「最高の仲間たち」への感謝の言葉を続けた。

「普段だったら照れくさいことも素直に言い合えて、そんな言葉が出てくるのは当たり前のことじゃないと思うんですよ。コロナで大変な思いをしたメンバーもいたけど、みんなきつい時は励まし、声をかけ合い、自分が後悔なく陸上を終えられたのはこの同期、この仲間のおかげだと心から思っています。高校まではただがむしゃらに競技に向かっていたけど、月並みな言い方かもしれませんが、大学4年間、特に上級生になってから人として成長させてもらったなと感じています。これが大学で部活をする意味なのかなとも思います」

仲間とともに引退試合を迎えられたことが本当にうれしかった(最前列右から3人目が熊谷)

4月から総合商社の医薬品関連の部署で働く予定だ。生まれ育った長野を離れる可能性もある。これからの夢を聞かれるとちょっと言葉に詰まるが、はっきりと言った言葉がある。「陸上から学んだことを、人生において、仕事だけじゃなくて全部に生かしていきたいです」。全てが順風満帆だったわけではない。たくさんのうれし涙も悔し涙も流してきた。でもその涙もきっと、これから続く長い人生の力になってくれるはずだ。

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