ラグビー

特集:第58回全国大学ラグビー選手権

帝京大学・白國亮大 決勝で3トライ、4季ぶりの優勝引き寄せた必然のインターセプト

帝京大学の白國亮大。全国大学選手権決勝で3トライ目を挙げ、押川敦治副将らから祝福される(撮影・関田航)

ラグビーの第58回全国大学選手権で4大会ぶりの王座に返り咲いた帝京大学。27-14で快勝した明治大学との決勝で、背番号「14」の白國亮大(りょうだい、4年、摂津)が一人で3トライを挙げた。大阪の府立高校から逸材ぞろいのチームに進み、4年生でレギュラーをつかんだ快足ウィング(WTB)が、10度目の優勝を引き寄せた。

28分間に3連続

1月9日の決勝。帝京大は5点リードの前半13分、明大ゴール前の左ラインアウトから右へ、右へと攻めた。スペースがある右サイドにいた白國は、センター志和池豊馬(4年、日向)からパスを受ける。鋭いステップを内に切って明大バックスをかわし、右中間へ飛び込んだ。

1本目のトライは鋭いステップで明大選手をかわした(撮影・関田航)

続く2本目は34分。同じように攻撃を右へ展開、狭いサイドへ回り込んできたNo.8奥井章仁(2年、大阪桐蔭)をフォローし、今度は右隅へ飛び込んだ。そして、41分の3本目。前半終了を告げるフォーンが鳴った後、攻めてきた明大バックス陣のロングパスをインターセプト、そのまま約50mを走りきった。

2本目のトライを挙げ、1年生SH李錦寿(9)と喜び合う(撮影・西畑志朗)

ディフェンスで信頼得る

白國は「4年生になるまでずっと出られなかったので、試合に出た時はエネルギーを爆発しようと思っていた」と今シーズンを振り返った。トライを取り切る決定力が目立ったが、チームから信頼を得たのはむしろディフェンスだった。「一番自分の強みに感じたのは、トライセーブであったり、泥臭いプレーだったり、最後まであきらめず80分間やり続けるところで、使って頂けたのかなと。オフェンスやったら大籔(洸太)や高本(とむ)、人見(太基)ら優れた選手がいっぱいいた」

それを確信したのは関東大学対抗戦の開幕戦(2021年9月12日)だった。筑波大学との試合は競り合いになった。7点リードの後半10分ごろ、自陣ゴール前に絶妙のキックを蹴られた。筑波大の2選手が先にボールに迫る。追いかける形になった白國はインゴール直前で追いついてタックル、筑波のトライを間一髪、防いだ。帝京大は終了間際にPGを追加、17-7で何とか逃げ切ったが、あそこでトライを許していたら勝負も、シーズンの行方もわからなかったかもしれない。

しつこく、泥臭くタックルを繰り返しチームからも信頼を得た(撮影・関田航)

「一番きつい場面で相手にチャンスを与え、それを防げた。自信につながったし、周りから信頼を得られたので印象に残っています」。ジュニア選手権にも出たことがなかった白國は以降、けがで1試合欠場しただけでシーズン通じ「14」を任された。2000年2月29日生まれは、4年に1度巡ってきたチャンスを逃さなかった。

大阪府立摂津高から背中を押され

父や兄の影響で空手を習っていた白國がラグビーを始めたのは摂津市立第五中学校から。空手をやっていた先輩がラグビー部にたくさんいて、誘われたのがきっかけだった。しばらくは両方やっていたが、ラグビーが楽しくなってきた。強いチームではなかったが、スタンドオフなどで活躍した。

高校は自分の学業のレベルと通いやすさを考えて摂津へ進んだ。公立高校では珍しい人工芝のグラウンド。そして、当時の天野寛之監督(63)との出会い。恩師は「サイズはちっちゃかったが、スピードと『ちょこちょこする』という表現が一番適しているような選手だった」と振り返る。練習でタッチフットを多くとりいれており、相手を抜く感覚などを磨いた。大阪の公立高校では健闘していたが、全国高校大会の大阪地区予選では準決勝止まりだった。

軽やかな身のこなしは空手や摂津高で磨かれた(撮影・関田航)

白國は「関西の大学でラグビーを続けようと思っていた。帝京大学の考えはなかった。天野先生に『挑戦してみないか』と言われて……」。その気は全くなかったが、「とりあえず1回練習に行ってこい」と高校3年生の春に帝京大の練習に体験参加した。当時のチームは堀越康介主将(東京SG)はじめ9年連続大学日本一を達成する代で、「今までやってきたラグビーと全く違った。それで、絶対、やっていけないと思った」と断る決意をさらに固めて大阪に戻った。

天野監督はあきらめなかった。島本高で指導した時は堀江翔太(埼玉)を、横浜のSHで活躍する寿紀ら息子も帝京大へ送り出してきた。「岩出(雅之)先生がよくみてくれる。細かいところ、ここというところを。同じトップの大学に預けるなら帝京大に。(白國は)サイズが小さいのでどうかと思ったが、頑張ってやってみいへんかと」。摂津高から帝京大に進んだ二つ上の先輩、バックス亀井康平(広島)からも「お前やったら4年間努力したらやっていける」と発破をかけられた。考え直した白國は、帝京大で挑戦する気になった。

力蓄えた3年間

入学後、寮生活が始まった。同期は細木康太郎主将(桐蔭学園)や押川敦治副将(京都成章)の高校日本代表組もおり、「一方的に知っているくらいでした」。2年生では夏に右足をけがして、シーズンを棒に振った。「周りの同級生たちがAチームの試合やジュニア選手権にどんどん出ていって、それを見ているだけで悔しかった」

優勝を決めて喜ぶ細木康太郎主将(中央)ら帝京大の選手たち(撮影・西畑志朗)

「帝京に来たら成長できると思っていたが、そんな簡単なことではなかった。いい環境があり、日本代表レベルの人たちがいっぱいいる。近くで見て、学ぶ環境があったことが、とても大きかった」。3年生になると、一つ上のタイプが似ている木村朋也(花園)につきっきりで教わった。WTBはボールを持たない時の動きが大切とも言われる。憧れの先輩をまねると、次第にわかるようになっていった。

9連覇の時もそうだった。高校時代は無名でも帝京大でもまれて花開く選手がいる。「経験が少ない分、簡単に言ってしまえば、邪魔なプライドがない。監督やコーチが助言してくれたことに対して、素直に受け入れることができたのが自分にとって強みだった。今は下のレベルにいても、周りに負けずとにかく努力をしてほしい」。出番を待つ後輩たちへの言葉には、実感がこもった。

練習してきたビッグプレー

決勝の3トライ。どれが会心だったかを聞くと、「3トライ目のインターセプト」。即答だった。新春の日差しに照らされた国立競技場の緑のじゅうたんを一人駆け抜けたからではない。

前半終了間際、中央付近の明大ボールのラインアウト。15点を追う側は当然、トライを狙って勢い込んで攻めてくる。一度、ラックになった後、帝京大から見て右へ展開してきた。白國は、帝京大の両センターと息を合わせてスーッと前に出た。「プレッシャーをかける中で、相手がそれにあせって(パスを)飛ばせば、インターセプトできると狙っていたし、帝京のウィングはみんなそこを練習していました」。明大のセンターがスペースのある外へ長いパスを投げたのではなく、「投げさせられた」と言ってよかった。

3本目のトライは練習の積み重ねでもあった(撮影・関田航)

「1年間やってきたことを出してくれてありがとう」。試合後、同期や後輩WTBからもらった言葉が一番うれしかった。身長167cm、体重74kg。決勝を戦った選手で最も小さな白國のビッグプレーは、今季の帝京大が細部までこだわってきた証しでもあった。

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