陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

東洋大・蝦夷森章太 けがに苦しんだ4年間、最後の箱根駅伝で魅せた快走と笑顔

蝦夷森(左)は最後の箱根駅伝で8区区間4位と好走し、復路2位を引き寄せた(撮影・松永早弥香)

大学4年間はけがが続き、シーズンを通して走れたことはなかった。「モチベーションが上がらない時期もあった」と東洋大学の蝦夷森章太(4年、愛知)は振り返る。だが酒井俊幸監督は「蝦夷森がいるといないとでは違うから」と言ってくれた。「自分を信じてくださり、酒井監督の思いに応えたいと思っていました」。最後の箱根駅伝で見せた走りは、そんな思いがにじみ出ていた。

インターハイをかけたレースでまさかの転倒

陸上との出会いは中学生の時。陸上部の顧問をしていた体育の先生が蝦夷森に長距離の才能を感じ、陸上部に誘ったのがきっかけだった。自然な流れで駅伝に興味を持つようになり、正月に見ていた箱根駅伝は“楽しみな行事”から“目標”へと変わっていった。中でも憧れたのが鉄紺のユニホームだった。「小学生の時から東洋大学がかっこいいなと思ってて、自分たちの世代は柏原(竜二)さんが印象に残っている人が多いと思うんですけど、僕もそうでした」と少しはにかみながら明かす。中3の時に都道府県駅伝に出場。1区で失格となり順位はつかなかったが、蝦夷森は2区区間16位だった。

東洋大で陸上を続けることを見据えて地元の愛知高校に進学。同じ愛知県内には豊川高校や豊川工業高校など駅伝強豪校も多く、在学中に愛知高校が全国高校駅伝(都大路)に出場できたのは蝦夷森が1年生の時だけだった。1年生ながらメンバーに選ばれて5区区間9位で襷(たすき)をつなぎ、改めて駅伝の楽しさを実感した。

高2の時に自身2度目の都道府県駅伝に出場し、高3では全国高校選抜10000mで16位と全国の舞台を経験。だがそれ以上に高校3年間で最も記憶に残っているのは、インターハイを逃したレースだという。高3での東海地区大会で5000mに出場。上位6人がインターハイに進むレースで蝦夷森は最後の直線で転倒し、7位でゴールした。それまで大きな大会で転倒をしたことがなかっただけにショックが大きく、消化できない悔しさがずっと胸に残った。

初の箱根路で感じた悔しさと高揚感

高校3年間で記録を伸ばし、東洋大には同期の中で最も速い記録を持つ選手として進学した。初めての寮生活に戸惑いもあったが、「4年間ここでやると決めたんだから」と前向きに取り組み、同じ部屋だった1つ上の西山和弥(現トヨタ自動車)などから励まされながら、一つずつ学んでいった。

箱根路を走る東洋大に魅せられ、迷うことなく東洋大に進んだ(撮影・佐伯航平)

箱根駅伝を走りたい。その一心で競技に向かっていたが、1年目は箱根駅伝のメンバーに選ばれず、同期の中では唯一、鈴木宗孝(現4年、氷取沢)が出走。鈴木は8区で首位を明け渡したものの区間3位と好走し、東洋大は総合3位だった。「鈴木は本当にひたむきに練習を積んで箱根のメンバーに入り、あれだけの走りをして、負けていられないなと自分も火がついたし、来年は走ってやろう!という前向きな気持ちになりました」と振り返る。

蝦夷森は1年生の時からけがが続き、2年目も疲労骨折で練習ができない時期が続いたがなんとか箱根駅伝に間に合わせ、7区を任された。東洋大は往路を11位で終え、復路のスタートとなる6区の今西駿介(4年、現・トヨタ自動車九州)が区間2位の走りで7位に順位を上げた。蝦夷森は今西から笑顔で襷を受け取ると7位を守り、8区の前田義弘(現3年、東洋大牛久)に襷をつないだ。

区間6位という結果に「中途半端」と蝦夷森が言うのにはわけがあった。同じく初めての箱根路となった同期の宮下隼人(現4年、富士河口湖)に5区区間賞・区間新の走りを見せられたからだ。「1年生の時から意識してきた選手でしたし、それに比べるとちょっとな……って」。それでも夢に見た舞台は想像以上で、「こんな大会があるのか」と走り終わった後も高揚感が体に残った。

3年連続で6区を走った今西(左)が区間新の走りで追い上げ、蝦夷森は笑顔で襷を受け取った(撮影・ 佐伯航平)

大森主将の背中

3年目の2020年春、世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、東洋大は部員全員が自宅待機となった。蝦夷森も地元・愛知に戻り、1人で練習を継続。その間もオンライン越しに学年ミーティングやグループミーティングなどを通じて部員とコミュニケーションをとってきた。目標となる大会が見えず、けがにも苦しんでいた蝦夷森に、主将だった大森龍之介の言葉が心に響いた。

大森は佐野日大高校(栃木)時代に5000mで13分台を出し、東洋大の主力となるべく入学したが、大学ではけがに苦しめられてきた。「大森さんはいつもポジティブで自分も元気をもらいました。練習の時だけじゃなくて日常でも空気を和ませようとしてくれ、何か特別な言葉というよりも、ただ毎日、大森さんを見ているだけでも元気になれるような、そんな存在でした」。大森もかげではたくさんの悔し涙を流してきただろう。それでも笑顔を絶やすことなく仲間の力になろうとしてくれた姿に、蝦夷森は自分もそうありたいと思うようになった。

10月に5000mで13分57秒99と自己記録をマークし、11月の全日本大学駅伝に向けて存在感を示したが、その直後にけがをしてしまい、全日本大学駅伝を逃した。けがと向き合いながら練習を積み、箱根駅伝では16人のエントリーメンバーに入ったが、出走は叶(かな)わなかった。「走れるようになってから箱根駅伝までは約1カ月しかなく、間に合わせることができませんでした。本当に申し訳ない気持ちが大きくて……。来年こそはという気持ちがすごくありました」

宮下の涙で覚悟を決めた

ラストイヤーを迎えるにあたり、蝦夷森は酒井監督から「最後の年は競技に向き合うとともにしっかりとチームのことも支えていってほしい」と言われ、寮長を任された。東洋大内の他の寮長とコミュニケーションをとりながら寮の管理・運営をし、コロナの感染対策を徹底。主将となった宮下を支えるためにも、自分ができることを考えた。「宮下は走りで、背中で引っ張るタイプなので、自分は下級生たちとも同じ目線に立ち、ときには寄り添ってケアをしようと思いました」。かつて大森が自分にしてくれたように、後輩たちの力になろうと心に誓った。

「1つ目標があれば変わってくるから」と酒井監督の言葉を受け、5月の関東インカレ1部ハーフマラソンに出場。23位と思うような結果を残せなかったが、前を向くきっかけになったという。夏にふくらはぎを痛め、ケアをしながら走ってきたが、全日本大学駅伝の直前に再発。走れない悔しさを抱えながら、後輩たちのサポートに徹した。

東洋大はけが人が相次ぎ、宮下もけがに苦しんでいた。それでも全日本大学駅伝には主将の覚悟を胸に、唯一の4年生としてアンカーを担った。蝦夷森は寮のテレビ越しに仲間を応援。宮下は10位でゴールし、14年ぶりのシード落ちに泣き崩れた。蝦夷森は度重なるけがにモチベーションが保てずにいたが、宮下の姿を見て覚悟が決まった。「宮下は責任感が強い選手なので、全部背負わせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいでした。だから最後の箱根駅伝こそは自分の走りでチームを支えたい、支えないといけないと思いました」

涙を流しながらゴールする宮下の姿を見て、蝦夷森は申し訳ない気持ちでいっぱいだった(撮影・井出さゆり)

蝦夷森の快走が復路2位を引き寄せた

11月中旬から全体練習に復帰。11月末からの合宿を経て、箱根駅伝のエントリーメンバーに入った。「選ばれるかどうかギリギリのところにいたと思うんですが、これが本当に最後だから、と4年生の意地と気持ちでもっていきました」。蝦夷森は2年生の時に走った7区を希望していたが、チーム状況やコースの適性から酒井監督に8区を打診された。どの区間でも自分の力を発揮すると決めていた蝦夷森に迷いはなかった。

迎えた箱根駅伝、宮下は3年連続となる5区を走り、往路は9位でフィニッシュ。往路優勝を狙っていただけに選手たちは悔しさをもって受け止めた。特に宮下は自身が持つ区間記録(1時間10分25秒)を更新する走りを目指していたが、区間8位に終わった。だが後半に巻き返して順位を上げた宮下に、「最後まで諦めない走りを見て火がついて、復路でなんとかしてやろうという気持ちになりました」と蝦夷森は最後の箱根路に向かった。

6区の九嶋恵舜(2年、小林)と7区の梅崎蓮(1年、宇和島東)はともに9位でつなぎ、襷は8区の蝦夷森へ。10位から追い上げてきた國學院大學の石川航平(4年、日体大柏)と併走しながら1kmを3分前後のペースで刻み、10kmほどで蝦夷森が前に出る。単独走になってからは苦しくなる場面もあったが、いい走りができていると自分でも分かっていたこともあり、楽しいという気持ちがドンドン大きくなったという。

序盤に余裕を持ってレースを進められたことで、15.6km地点の遊行寺坂でもグングン加速。9区の前田は寮の同部屋だったこともあり、「かわいがっていた後輩」だと蝦夷森は言う。襷リレーの瞬間、「3年間ありがとう」という感謝の気持ちを伝えようと決めていた。平塚中継所で待ち構えていた前田は、蝦夷森が見えると大きく手を振り、両手で招き入れる。蝦夷森は笑顔を見せ、襷を前田に託すと大きく「頼むぞ!」と言った。「自然とそんな言葉が出てきました」と蝦夷森は笑いながら明かした。8位の東海大学と1秒差、7位の帝京大学と4秒差で襷をつなぎ、区間4位。蝦夷森は「ベストレース」と自信をもって答える。東洋大は復路2位と力を示し、総合4位だった。

蝦夷森(左)は新シーズンに主将を務める前田に対し、「キャプテンとなって来年どんな姿を見せてくれるのか楽しみです」(撮影・松永早弥香)

これからも“東洋大学の走り”を

最後の箱根駅伝を終え、蝦夷森は退寮。太りやすい体質ということもあり、特に箱根駅伝前は食事管理を徹底していたが、今は少しだけお菓子も解禁している。ただ昨年のクリスマスには、お菓子作りが得意な宮下が作ってくれたシュトーレンは例外とした。「すごくおいしかったです。前にはマカロンを作ってくれたこともあって、作るのが難しいと聞いていたけど、それもおいしかったです」。イベントがある度に宮下は手作りのお菓子をみんなに振る舞ってくれた。主将のお菓子がみんなの気持ちを1つにしてくれましたか、とたずねると「間違いないですね」と笑顔で答えてくれた。

東洋大での4年間、特にコロナ禍での2年間、蝦夷森は自分たちが競技をできるのは当たり前のことではないと痛感した。

「酒井監督は常日頃から『感謝の気持ちを持って競技に向き合え』と言っていました。大学関係者や競技関係者、応援してくださる皆さんのおかげで自分たちは練習ができ、大会に出られていると実感するようになりました。応援してくださる方々の声援は本当に力になっています。だからこそ日々の当たり前のことを適当にやるのではなく、走りにつながることを考えながら過ごす。歴代の先輩たちも常日頃から積み重ね、それが“東洋大学の走り”につながっていると思います」

卒業後は地元の実業団・トーエネックに進む。東洋大の先輩でもある服部弾馬もおり、これまでも練習に参加すると当時の東洋大の話をしてくれ、温かく迎えてくれた。「トラックで実績のあるチームなので、まずはトラックでスピードを磨いて力をつけ、いずれはマラソンで勝負したい。東洋大学のOBに勝てるようなマラソン選手になりたいです」と意気込む。そしてこうも言った。「これからも競技を続けるので、楽しみにしていてください」

in Additionあわせて読みたい