陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

名城大・高松智美ムセンビが仲間と迎えた「幸せな引退」 13年の陸上人生で得たもの

高松は名城大1年生の時に日本選手権を制し、学生駅伝無敗で走り抜け、引退を迎えた(写真提供・名城大学)

身長150cmと小柄ながら大きなストライドと力強いキックで強さを見せつけ、レースが終われば持ち前の明るさと関西弁で仲間を笑顔にさせてくれる。名城大学の高松智美ムセンビ(4年、大阪薫英女学院)は「目標も全部達成できたし、もう次に進む時かなと思いました」と、今年1月の選抜女子駅伝北九州大会を最後に、陸上人生にピリオドを打った。13年間、そこまで長く陸上を続けるとは思っていなかったという。

田中希実と競り合いながら

ケニア人のマクセル・ムセンビさんを父にもち、高松はケニアで生まれた。だが1歳になってから日本に住むようになったため、「ケニアのどこで何をやっていたのか記憶にないです」と言う。その後、父は2001年の長野マラソンで優勝するなど、高松は小さい時から父を通して陸上を身近に感じてきた。それでも最初に選んだスポーツはテニスだった。3つ上の姉・高松望ムセンビさんは父とともに長距離に取り組んでいたが、外から見ているだけでもきついことが伝わり、あまり前向きにはなれなかったという。

しかし地元のテニスクラブがなくなったことで小3の時に陸上クラブへ。同学年の女の子には短距離をしていた子しかおらず、高松も短距離から陸上を始めた。リレーメンバーにも選ばれ、楽しいという気持ちで陸上に向き合っていたが、コーチは「長距離の方が素質があるから」と何度も誘い、小4からは短距離とともに長距離にも取り組んだ。平日は姉とともに父に長距離の指導をしてもらい、週末には陸上クラブへ。小6での全国小学生クロスカントリーリレーでは1区区間賞を獲得し、高松自身も「自分、向いてるんちゃうか」と思うようになったという。

中学校は中高一貫の大阪薫英女学院(大阪)に進学。高校生と一緒に朝練に取り組み、授業が終われば家に帰り、父から指導を受けて姉と一緒に走る日々。姉は全中1500mで2連覇などと実績を残していた。その中で陸上をする苦しさがなかったわけではないが、それよりも、高松が結果を出しても「遺伝でしょ?」と言われることが悔しかった。「ケニアの人なんだという感じで、ちゃんと練習しているのに、それも全部遺伝だからと思われるのがめちゃくちゃ嫌でした」。だからこそ、日々の練習で手を抜けなかった。

高松(左)は高1の時に姉・高松望ムセンビと都大路予選会と本戦で襷をつないだことを特別なレースとして記憶している(撮影・篠原大輔)

高松が中学時代から競い合ってきた1人が、同学年の田中希実(豊田自動織機TC/同志社大4年、西脇工業)だ。田中から「どうやったら最後にそんなスパートかけられるの?」と聞かれることもあったが、高松は「私もよく分からへんのやけど」と返していたという。だが中3の全中1500mでは田中が優勝。高松は0.56秒差での2位だった。田中に敗れたことで火がついた高松は「ジュニアオリンピックは最後のチャンス」と考え、“打倒・のぞみちゃん”を胸に3000m決勝に出場。林英麻に競り勝って優勝し、田中は3位だった。

田中とは高校に上がってからもトラックや駅伝などと様々な場面で相まみえた。大学では田中は豊田自動織機TCに所属したためともに走る機会が減ったが、レースがあれば互いを励まし、陸上以外の話もしながら交流を続けてきた。昨年の東京オリンピックに田中は1500mと5000mに出場。特に1500mでは8位で同種目における日本選手初の入賞という快挙を成し遂げた。そのレースを合宿先のテレビ越しに見ていた高松は自分のことのようにうれしかった。

「のぞみちゃんは昔から努力家で、なぜこれができないのかすごく悩みながら一つひとつ乗り越えてきた子でした。のぞみちゃんに負けて悔しいという気持ちはあったけど、ライバルとしてうれしいなと。オリンピックというすごい舞台で走るのぞみちゃんを見て自分も勇気をもらったし、頑張ろうと素直に思えました」

「高校で陸上やめます」を撤回した理由

高校はそのまま大阪薫英女学院に進み、「全国で戦いたい」という思いから練習もそれまでと同様、父の元で継続してきた。部員との練習は朝練と合宿だけだったが、だからこそ自分が走りでチームを支えたいと強く思うようになったという。

特に高2の時は「今振り返ってもあの時ほどきつい練習をしたことはない」と高松は言い切る。インターハイ3000m予選で高松は9分8秒89と自己ベストを大幅更新。あまりの快走に「明日決勝いる?」とまで思ったという。翌日の決勝には田中や廣中璃梨佳(現・日本郵政)、加世田梨花(現・ダイハツ)などとそうそうたるメンバーが集結。高松は気持ちを入れ替えて決勝に臨み、8分58秒86と再び自己ベストをマーク。留学生に次ぐ3位に入った。初めての8分台に「信じられない!」という思いだったが、「絶対に8分台は出る」と言いながら指導してくれた父に改めて感謝した。その年の全国高校駅伝(都大路)では2区区間賞の走りでチームの優勝に貢献した。

高3の春、織田記念からの帰りの新幹線で高松は安田功監督に初めて「高校で陸上やめます」と伝えた。突然の申し出に安田監督はビックリし、沈黙が続いたという。「私、変なことを言ったのかしら」と思ってしまうほどに高松にとっては自然な選択で、そのために高1の時から大学進学を見据えて勉強をしてきた。

高松(左)にとって加世田梨花が名城大にいることも、「ここで陸上をしたい」理由の1つだった(撮影・藤井みさ)

だがある日、母がなんとなく見ていた名城大学女子駅伝部のブログが目に留まった。そのブログには選手の誕生日をチームメートみんなが祝っている様子がつづられており、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。こんなに楽しそうな部で陸上ができるならいいなと思い、「ちょっと見学に行ってみたら?」と母に言われ、自分で部に電話をした。その後、名城大の他にも複数の大学の見学に行ったが、一番オン・オフがしっかりあり、先輩たちともコミュニケーションがとれた名城大に進むことに決めた。

ロケットスタートでいきなり日本一

初めての寮生活は「親から何も言われないし、めちゃめちゃ楽しみ」にしていたものだったが、昼食の自炊には苦労した。また「英語を勉強したい」と考えて進んだ外国語学部は2016年に開設された学部で、高松の代は3期生ということもあり、部内には同じ学部の先輩がいなかった。何を履修したらいいのか分からず、英語で行われる授業についていくのに必死だった。慣れない環境に最初の1年はホームシックになることもあったという。

だが競技はロケットスタートを切った。毎週のようにレースに出場し、5月の東海インカレ1500mで優勝、6月のアジアジュニア(岐阜)1500mでは銀メダル。その2週間後にあった日本選手権では1500mで4分17秒43の記録で初優勝を飾った。ただ高松自身は連戦で疲労が体に残っており、予選で+2で拾われての決勝進出だった。米田監督からは「完走すればいいよ」とだけ言われ、高松もいつも通りスタートラインに立ったという。「まさかという感じで驚いたんですけど、米田監督がスピード強化に尽力してくださったおかげでラストスパートに自信がありました」

7月のU20世界陸上5000mで7位入賞、9月の日本インカレ1500mで初優勝。中学生の時から東京オリンピックの強化指定選手「ダイヤモンドアスリート」に選ばれていた高松に対し、「東京オリンピックへ」という声はより大きくなった。

「どうしよう……と。自分に期待して応援してくださる方がたくさんいることはとてもありがたいことでしたが、私はそこをゴールとしていなかったので、正直な気持ちを言うことができませんでした。プレッシャーにすごく弱くて考えすぎてしまうところがあるので、オリンピックを意識するとつぶれてしまうなと思い、『行けたらラッキー』というくらいに捉えていました」

2年生の時にはけがもあり、モチベーションを保つのが難しかった(撮影・藤井みさ)

勝つのが当たり前と言われるのが不安だった。負けた方がホッとすることもあった。そして、負けても悔しいと思わなくなった。「そこからちょっと狂ってしまったのかもしれない」と高松は言う。2年生の12月に右股関節を痛め、年末の大学女子選抜駅伝(富士山女子駅伝)には痛め止めを飲んで出走。2区区間5位での3位で襷(たすき)をつなぎ、名城大は2連覇2冠を達成。喜びを爆発させるチームメートのそばで、高松は素直に喜べなかった。翌20年1月には選抜合宿のメンバーに選んでもらったが、けがでウォーキングしかできない状況。残してきたメンバーの方がまだ走っていると思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

コロナ禍がきっかけになった

3月には新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて合宿は中止となり、グラウンドも閉鎖。米田監督は「この機会に自分たちでメニューを考えて練習をしてみよう」と、学生たちの自主性を尊重する方針に切り替えた。

高松は新入生を引き連れて川沿いに行き、400m変化走や1000m変化走、ペース走などに取り組んだ。高松自身、自分で考えて練習をするのはこれが初めてのことで「これはこれで楽しいじゃん」と思え、後輩たちからの「先輩とやれて楽しいです」という言葉がめちゃめちゃうれしかった。「言われてやるんじゃなくて、自分でやる。それまではダラダラやっていたところがあったけど、よし頑張ろう!って気持ちが入りました」。9月の日本インカレ1500mでは2年ぶりに優勝。2位には同期の和田有菜(現4年、長野東)が続き、2人笑顔で表彰台に立った。

コロナ禍での自主練で気持ちを入れ替え、高松(右)は日本インカレ1500mで2度目の優勝をつかんだ(撮影・藤井みさ)

最終学年を前にして、高松は大学に進む前から決めていた通り、就職活動を始めた。「やっと自分もこの機会が来たなって。新しい世界をのぞけるきっかけじゃないですか。他の大学の学生と一緒に就活の会場に行っている自分に酔ってました」と笑いながら明かす。周りから「実業団に進まないの?」と言われることも多く、特に中尾真理子コーチから「話だけでも聞かない?」と言われた時は少し悩んだが、それでも決意は揺るがなかった。「自己分析をしながら思ったのが、本当に陸上ばっかりやってきたんだなぁって。でも思い残したことないな。これはもう、前に進む時が来たんだなって思いました」。世の中にはこんな仕事もあるんだな、自分にはこんな仕事が向いているかも。色々な可能性を探り、その度に自然とワクワクしてきた。

駅伝無敗の名城大の強さの秘密

就職活動が終わったのが昨年8月。すぐに合宿に参加し、「ここで切り替えるぞ」という米田監督の言葉も受けながら、高松は自発的に距離を踏んだ。これまでの合宿の中でも一番質の高い練習が積めたという自負もあった。だが9月の日本インカレには間に合わず、1500mで4位とあと一歩で表彰台を逃した。その悔しさも10月の全日本大学女子駅伝(杜の都駅伝)にぶつけ、2区で12分01秒と区間賞・区間新。名城大は5連覇を成し遂げた。

名城大のユニホームで走る最後のレースとなった年末の富士山女子駅伝、主将の和田が「チームの優勝だけを考えて走ってほしい」と言ったように、高松も「チームのために」という思いで挑んだ。1区の谷本七星(1年、舟入)から1位で襷を受け取る。高松自身、「これは区間賞の走りではない」と感じるほどに苦しい走りになったが、「でも絶対1番は譲らない」と覚悟を決め、1位を死守。名城大は1区から1位を守り、4連覇を達成。高松たちの代は大学4年間、駅伝で無敗を守り、後輩たちにつないだ。“常勝チーム”の名をほしいままにする名城大の強さを高松に聞いた。

「名城大はオン・オフの切り替えがはっきりしてて、練習の雰囲気がレースみたい。毎日レースで、私も最初の頃はポイント練習の度にど緊張していたけど、これがあるからレースでもいい結果が出るんだなって。でも『絶対あんたに負けない』とかではなく、『一緒に頑張ろう』『一緒に乗り越えよう』とみんなで励まし合える。ライバルだけと仲間。インカレでも『3人で表彰台に上ろうね』と言い合えるチームなので、そこが名城の強さだと思う」

高松(左から2人目)は1年生の時から杜の都駅伝と富士山女子駅伝に出場し、全て優勝している(撮影・加藤秀彬)

本来であれば富士山女子駅伝が引退レースになるはずだったが、中学生の時から競い合ってきた田中の計らいで、今年1月23日、選抜女子駅伝北九州大会に名城大・豊田自動織機TC連合としてオープン参加した。高松の引退レースを飾るために田中が大会事務局にかけ合い、「全国でも頑張ってきた選手たちでつくる駅伝は、今後の選手育成につながるだろう」という判断から特別に許可が下りた。当初の予定では4区が高松、アンカーの5区が田中で、2人で襷をつなぐ予定だったが、1区の予定だったが和田が連戦の疲れで体調を崩し、急きょ1区は高松になった。「大役を任されてどうしようって思ったけど、1区はのぞみちゃんをゴールで迎えられるなって思って、のぞみちゃんに楽させるためにも頑張ろうと思いました」

オープン参加のため順位はつかなかったが、高松は1区で6番目に襷をつなぎ、アンカーの田中が2番目から首位に立ち、誰よりも早く高松の元へ飛び込んだ。「こんな幸せなことある? 中学生の時から一緒に走ってきたみんなと最後に襷をつなげて、一番幸せじゃないかなって。のぞみちゃんも『本当にやめちゃうの?』って言ってくれたけど、みんなのおかげで次のステージにいけるなと思いました」。大好きな仲間とともに、陸上人生最後の日を笑顔で終えた。

13年の陸上人生で得たもの

卒業後は飲食業界に就職し、東京での新しい生活がスタートする。高松のレースに親や祖母も応援に駆けつけてくれていたこともあり、陸上を続けた方がきっと喜んでくれるんだろうなという思いはあった。だが最後は笑顔で背中を押してくれた母や祖母のためにも、自分が頑張ることでこれからもっとたくさんの喜びを与えられたらと考えている。一方で、ずっと陸上人生をサポートしてくれた父は何も言わず、「OK! 自分が好きなことをやりな」と送り出してくれたという。父と練習をしていた時、苦しさに泣いてしまうこともあった。そんな日々も父は一緒に乗り越えてくれたからこそ、思い残すことなく陸上を引退できた。「ありがとう」という言葉では伝えきれないほどの感謝の気持ちがある。

話すのが好きで、人と接するのが好きな自分は飲食業界が向いているのではと考えた(写真提供・名城大学女子駅伝部)

13年の陸上人生でたくさんの人たちの思いに触れてきた。「直接会えてなくても、自分を応援してくれる人がこんなにもいるんだと感じられたし、そういう人たちに出会えて良かったなと思っています。スポーツを通して、大きなものをもらえているんだなと実感しました」

これから先、不安に感じたり、苦しいと思ったりすることもあるかもしれない。それでも陸上を通じて得たものや学んだものが自分にはある。「こっちの業界でも頑張れるんだと証明したいです」。高松はよどみなく、笑顔で言い切った。

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