日体大・佐藤慎巴、補欠から最初で最後の箱根駅伝へ 諦めない心が未来を引き寄せた
日本体育大学は今年、74年連続となる箱根駅伝を走り抜けた。総合17位と苦しみながらも、力強い走りでフィニッシュテープを切ったのが、4年生の佐藤慎巴(しんば、埼玉栄)だ。当日変更で10区に起用されて挑んだ、最初で最後の箱根駅伝。最後まで諦めない心を持っていたからこそ、チャンスをつかんだ。
バスケのための陸上
岩手県出身の佐藤は小1から中3までバスケをしていた。小6で県2位に入り、中2で県新人を優勝。ジュニアオールスターの岩手県代表に選抜され、同時に主将を務めた。中3では県総体で優勝するなど、トップレベルの選手として活躍していた。
陸上はバスケの体力づくりの一環として中1から始めたが、9割バスケ、1割陸上という練習量だった。朝と放課後にバスケの練習をし、陸上は大会に出場するだけだったが、陸上の成績も圧巻だった。3年連続でジュニアオリンピックに出場し、中1の時には1500mで3位、中2では1500mで7位、中3では3000mで2位に輝いた。また中3の時には全中に1500mと3000mに出場している。「バスケ、陸上、バスケ、陸上でこなしていたけど、すごく楽しかったです。バスケでは目標である全中に行けなかったことが悔しかったですが、陸上では100点の出来ぐらい走れていたので、濃い3年間でした」とがむしゃらに駆け抜けた3年間だった。
高校進学にあたり、岩手県の強豪校からもバスケのスカウトはきていた。しかし「バスケでトップを狙うには180cm以上ないと上のカテゴリデーは戦えないので、陸上の方が活躍できる」と将来を見据え、高校から陸上を本格的に始めることを決めた。
埼玉栄で館澤亨次に刺激を受け
高校は姉が進学しており、最初に声をかけてくれた駅伝強豪校の埼玉栄高校に進学。目標はインターハイで日本人トップ。「陸上に専念してやるので、どれだけ上にいけるかが楽しみでした」と、期待を膨らませていた。入学して寮に入ったが、当時の寮生は館澤亨次(現・DeNAアスレティックスエリート)と佐藤の2人だった。館澤について、「大会で出たらしっかりと結果を残しているので、すごかったです。近くにお手本の選手がいるのに、自分はけがで走れないことが葛藤でした」と話す。佐藤は入学してすぐに疲労骨折をしてしまい、その後も故障を繰り返し、高2の8月まで万全な状態で走れなかった。
走れない期間も日々トレーニングに励み、その努力が高3でのインターハイ出場につながった。1500mの予選4組目、3着に入れば決勝進出だったが、3着と0.04秒差の4着で決勝を逃した。「やっと行けた全国で華々しく返り咲いてやると挑んだので、すごく悔しかったです」。その年には全国高校駅伝(都大路)にも出場し、5区区間8位と粘りの走りを見せたが、チームは15位に終わった。「チームの目標である入賞に貢献できなかった。不甲斐ない結果に終わってしまった」と振り返る。
悔しい思いをした3年間、箱根駅伝を走って引退を
高校での悔しさを胸に、母と祖母も進んだ日体大へ進学。1年目の目標は5000m13分台。高校はけがから始まったが、大学では入学時から練習にもついていくことができ、同年11月の日体大記録会5000mで14分8秒と自己ベストを35秒も更新した。
2年目には初めて関東インカレに出場することが決まった。その前にあった日体大記録会5000mで13分台を狙ったものの、結果は14分35秒。「関東インカレに出させていただくのに、こんな記録じゃ情けない」と頭を丸刈りし、気持ちを入れ直して練習に向かったが、男子1部5000mで15分16秒40での33位と悔しい結果となった。
夏合宿はAチームに選抜され、10月の箱根駅伝予選会にもメンバー入りを果たす。長い距離にも対応できるようになり、飛躍を誓った3年目、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい始めた。キャンパスにも入れなくなり、選手たちは帰省を余儀なくされ、佐藤も地元・岩手に帰った。母はスポーツ用品店「和賀スポーツ」を営んでおり、「将来店を継ぐのでいい経験ができました」と、帰省中は店の手伝いをしながら1人で練習を継続。100mのインターバルなどスピード練習を中心に、好きな練習をしていたという。
寮に戻れたのは6月になってからだった。関東インカレなど様々な大会が延期や中止になり、実業団を目指していた佐藤はアピールする場所がなくなったことで焦りを感じていた。その中でも気持ちを切らすことなく練習に取り組んできたが、箱根駅伝予選会、全日本大学駅伝、箱根駅伝は全て補欠に回った。「10000mもタイムが出なくなってしまった。あと一歩で逃してしまい、本当に悔しかった。来年は絶対箱根を走る」。実業団に進んでいつかは日本代表に。3年生の時まで抱えていたその夢に区切りをつけ、箱根駅伝だけを見据え、競技生活にピリオドを打とうと考えた。
母「やれるまでやってから帰ってきなさい」
4年生では寮長を務め、主将の岡嶋翼(4年、遊学館)や嶋野太海コーチに相談しながら、寮の環境整備に取り組んだ。競技では2年ぶりに関東インカレに出場し、1500mでは3分49秒04の自己ベストを更新。また同期の大畑怜士(れお、島田)が10000mで28分台をマークし、「自分も負けてられない」と闘争心を燃やした。関東インカレの直後には教育実習があり、先生や生徒からかけられた箱根駅伝への期待に「応えたい気持ちが強くなった」という。
最後の夏合宿では「全ての練習でつくことができて、4年生として引っ張ることもできた」と、走りで後輩に背中を見せた。そんな中、長野県の野尻湖合宿で実業団のセキノ興産に声をかけられた。諦めていた実業団。母と何度も話し合い、「あんたがやれるまでやってから帰ってきなさい」という母の言葉で、佐藤は卒業後も競技を続ける決心をした。
9月の日本インカレ1500mで3分47秒86、その2日後の日体大記録会5000mでは13分55秒79とともに自己ベストをマーク。目標を達成できた喜びを胸に練習に励み、10月の箱根駅伝予選会では集団走の先頭を任された。ラスト2周はフリーの指示だった。持ち味のスピードを生かしてラストに追い上げ、チーム内3位でゴール。思い描いた通りのレースに自信を深めた。
11月の全日本大学駅伝では1区に選ばれた。自身初の学生駅伝は「緊張もありましたが、楽しみが大きかった」。だが区間17位という結果に、「流れをつくれなかった。チームに本当に申し訳ない。やり返すのは最後の箱根で」と悔しさをかみしめ、最後の箱根駅伝に向けて切り替えた。
その後の東海大学長距離競技会10000mで28分56秒92をマークし、28分台に突入した。「嬉しさよりも、ホッとしました」と、5000m13分台、10000m28分台と2つの目標を達成し、箱根駅伝に弾みをつけた。向えた箱根駅伝の区間発表。佐藤は補欠だった。「心の中ですごく悔しかった。でも気持ちを切らしてはダメだ。最後まで準備をしていよう」と4年生としての役割を果たすことを心がけた。
最初で最後の箱根駅伝は後輩のためにも
箱根駅伝往路の3日前、10区の選手の調子を見た玉城良二監督から、「準備しておけ」と声をかけられた。「往路の様子を見て判断する」と言われ、その往路後に玉城監督から「10区で行く」と言われた。「最後までやるべきことをやって、気持ちを切らさずにやったからこそだと思います」と佐藤は言う。日体大は往路を16位でゴールし、チームの目標であるシード権に向けては厳しい戦いになった。それでも佐藤は「シード権獲得のためにどういう走りをするか」と最後の最後まで考え、大舞台を待った。
復路では8区から9区の戸塚中継所で襷(たすき)をつなげられず、日体大は繰り上げスタートになってしまった。「4年生としての走りで、後輩に何かを残したい」。佐藤は最初で最後の箱根駅伝のスタートを切った。目標タイムは1時間10分30秒、昨年の箱根駅伝10区5位相当のタイムを設定した。各ポイントで目標タイムをしっかりと刻み、1時間10分40秒、区間12位でゴール。フィニッシュテープを切った直後は思いがこみ上げ泣きそうになったが、同期の大畑や岡嶋に抱えられ、「やり切ったんだから、来年に後輩に託そう。笑え笑え」という声かけで涙をこらえた。
「最大限の走りができて、持てる力は出せました。走れないで終わるはずだった中で、最後まで諦めなくて良かった」と佐藤は言い、「全てにおいて成長できた4年間でした。箱根駅伝を経験できたことは、人生において1つの大きなものになりました。陸上を選んで良かったです」と笑顔で加えた。
実業団で日本のトップレベルを目指す
大学卒業後は実業団のセキノ興産に進み、新潟を拠点に活動する。「実業団でやらせていただけるチャンスをもらったことは、本当に感謝の思いです」と話し、「まだまだ日本のトップレベルとは差があります。1500m、5000mで日本選手権を出場し、日本のトップレベルで争える選手になるために、努力していきます」と力強く目標を話した。背中を押してくれた母には感謝しかない。「応援してくれて、最後は自分の道を尊重してくれたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。これからは恩返しをしていきたいと思います。店に戻ることになったらしっかり貢献するのでよろしくお願いします」
最後まで諦めない気持ちを走ることで体現した。そんな佐藤の姿は、後輩たちは目に焼き付けたことだろう。実業団や今後の人生でも、最後まで諦めない心を持ち続け、活躍に期待したい。