陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

法政大・鎌田航生、4度の箱根駅伝でエースが深めた自信 実業団でも1年目から活躍を

鎌田(左)は法政大入学時に「箱根駅伝を4回走る」という目標を掲げ、その目標以上の走りを見せた(撮影・藤井みさ)

大学入学にあたり、4年間の目標として掲げたのは、「箱根駅伝を4回走る」ことだった。それをまさに有言実行した法政大学の鎌田航生(4年、法政二)にとって、大学生活で最も印象深いのは、「コロナ禍で自分一人でやらなければいけなかった時期から駅伝シーズンにつなげた」という3年目の2020年度。1年時から主力を担い、上級生になってからはチームを引っ張ってきたエースが、山あり谷ありの、それでも充実していた4年間を振り返る。

会心のレースだった2021年箱根駅伝

学生長距離ファンに「法政大の鎌田航生と言えば?」という質問をぶつけたら、多くの人が1区で区間賞に輝いた2021年の箱根駅伝と答えるに違いない。鎌田自身も、4年間を振り返った時、会心のレースとして前々回の箱根駅伝を挙げている。

「チームとして前年に出遅れてしまった1区を重視していたことと、故障者が多くて1区を走れる選手がいなかったことで、自分が回ったという感じです。年間を通しては2区を走るつもりでしたが、1カ月くらい前から1区の準備もしていました」

ハイペースを予想していたレースは、各選手が牽制(けんせい)し合う、異例の超スローペースで始まった。鎌田は「なんだ、これ」と心の中で笑ってしまったが、すぐに切り替え、「区間5位以内で、いい位置で2区につなげる」という自身の役割に集中した。

六郷橋を下り終えた19km手前で、「まだ余裕があった」と積極的に仕掛けた鎌田は、持ちタイムでは上回るライバルたちを振り切り、最後は塩澤稀夕(東海大4年、現・富士通)との一騎打ちを制した。「区間賞が取れそうだと思ったのはラスト1kmを切ってから。実際に1番で中継所に入った時は、思わず『よっしゃー!』と叫んでしまいました」。法政大の1区区間賞は、2000年の徳本一善(現・駿河台大駅伝監督)以来、21年ぶりのことだった。

超スローペースの難しい展開の中、鎌田(左)はラストスパートで勝ちきった(撮影・北川直樹)

そこで大きな自信をつかんだ鎌田は、約2カ月半後の日本学生ハーフマラソンでも優勝を飾る。昨年8月に開催予定だった中国・成都でのワールドユニバーシティゲームズ(旧ユニバーシアード)のハーフマラソン日本代表の座を手にした(大会は22年6月に延期)。「学生ハーフもスローで、ペースが上下する箱根と似たような展開でした。風が強い荒れ気味のコンディションでしたが、自分は体力で押していけるタイプなので、問題はなかったです」

21.3kmの箱根駅伝1区と学生ハーフで、距離は若干異なるものの、マークした記録がいずれも1時間03分00秒だったのは興味深い。単なる偶然に過ぎないが、法政大のエースから学生長距離界を代表する選手へと飛躍したこの時期の鎌田を象徴するタイムと言ってしまうのは強引だろうか。

「箱根駅伝を4回走る」と誓い、法政大へ

マスターズ陸上の中距離選手だった父の影響で、中学の部活動で陸上を始めた鎌田は、高校は陸上の強豪校で長距離にも力を入れ始めていた法政大学第二高校(神奈川)に進む。中学時代よりも質や量が上がった練習や長い距離に徐々に慣れていき、1年生の時にはチームが初出場した全国高校駅伝(都大路)で、3番目に長い8.1075kmの3区に抜擢(ばってき)される。2年生の時には5000mでインターハイ出場。3年生では、インターハイと都大路の両方で全国の舞台を踏んだ。

それぞれ思うような結果を残せなかったのは、「インターハイは南関東大会で力を使い果たしていたのと、3年の都大路は大会前に交通事故にあってしまい、どうにか本番に間に合わせた状態だった」から。それでも万全ではない中、都大路では2年前に区間56位(25分45秒)だった3区を区間15位(24分49秒)で走破したのだから、鎌田の成長が見て取れる。

高校3年間のベストレースは、卒業の2カ月前に臨んだ全国都道府県対抗男子駅伝だ。自身が「全国では調子を合わせられないことが多かったのですが、唯一合わせられたのが都道府県駅伝でした」と振り返るように、鎌田は5区で5人を抜く区間3位の快走。神奈川県チームは過去最高順位となる7位入賞を果たした。

2つ上の青木の姿に学び、日々の練習から考えて行動すること意識するようになった(撮影・藤井みさ)

2018年春、「箱根駅伝を4回走る」という目標を胸に抱き、法政大に進学した。ちょうど強い上級生が在籍していた時期で、当初は「練習を毎日こなすのが必死だった」という。なかでも鎌田が「すごいな」と感じたのが、2つ学年が上の青木涼真(現・Honda)だった。4年連続箱根駅伝を走り、うち3回を担った5区では2年生の時に当時の区間新記録を打ち立てて区間賞を獲得。主戦場だった3000m障害(SC)では、昨年の東京オリンピックに出場した偉大な先輩だ。

「いろいろと考えて動いているというか、見ていて頭が切れると感じる選手でした。練習への取り組み方とか姿勢などが参考になりましたし、上のレベルに行くためには考えてやらないとダメなんだと教えていただきました」

しっかり練習を積めた夏あたりからめきめき力をつけた鎌田は、上級生ばかりの駅伝メンバーの中、唯一の1年生として全日本大学駅伝と箱根駅伝に出場を果たす。学生駅伝デビューとなった全日本大学駅伝では青木から襷(たすき)を受け、箱根駅伝は「同じ区間の他大学の1年生に負けていたので、欲を言えば、もう少し行きたかった」と語ったものの、8区で区間7位と大健闘。総合6位でチームの3年連続シード権獲得に貢献した。

3年目に押しも押されぬエースへと成長

2年目になると、鎌田は早くも主力としての地位を固めていく。トラックシーズンは関東インカレに出場し、学生3大駅伝は初出場となった出雲駅伝を含め、3レース全てで主要区間を担った。ただ、これはチーム内にけが人が続出し、鎌田が回らざるを得なかったという事情があった。

「自分はロングスパートで抜け出すタイプですが、出雲では、スタートがもともとあまり得意ではなく、しかも短い距離の1区を任され、2区に入った箱根は、1区で出遅れたこともあって、そのまま自分も流れに飲まれてズルズル行ってしまった感じです」

全日本大学駅伝は2区で区間8位と踏ん張ったが、出雲駅伝は1区区間14位。最下位を1人で20km以上も走ることになった箱根駅伝は2区区間18位に沈み、チームも3年間守ってきたシードの座を失った。

それから青木らの世代が卒業し、3年生となったシーズンは、春先から新型コロナウイルスに振り回された年でもあった。選手たちがまとまって練習することもできなかったため、鎌田は「治療も思うように行けない状況だったので、とにかくけがをせず、試合日程が決まるまでは練習を継続する」ことに重点を置いて毎日を過ごした。

箱根駅伝に続き学生ハーフもラストスパートで優勝をつかんだ(撮影・藤井みさ)

そうした我慢の日々を乗り越え、8位通過を果たした箱根予選会で、鎌田はチームトップとなる1時間02分03秒をマーク。11月に入ると、中旬に5000mで13分47秒57、その6日後には10000mで28分33秒25と、次々と自己記録を塗り替えていく。鎌田にエースとしての自覚が芽生えてきたのは、この時期からである。その姿勢が自身3度目となる箱根駅伝での快走や学生ハーフ制覇という結果につながった。

4年間で得られた確かな「自信」

最終学年となった21年度は、「チームでは箱根のシード権を取り戻す。自分自身は悔いのない1年を過ごす」ことを目指してスタートした。2種目に出場した関東インカレでは、男子1部10000mで28分30秒61の自己新をマークし、7位入賞。翌月の全日本大学駅伝関東学連選考会は、各校のエース級が集まる最終4組目を危なげなくまとめた。

順調にこなした夏を経て、駅伝シーズンに入っても、箱根予選会でチームトップ。チームが2年ぶりに出場した全日本大学駅伝では、鎌田は自身3度目となる2区で区間4位と奮闘した。最後の箱根駅伝は2年ぶりに挑んだ2区で1時間7分11秒(区間9位)と力走し、坪田智夫駅伝監督が持つ2区の法大記録(1時間8分16秒)を22年ぶりに更新。チームも粘りの継走を披露し、10区最終盤の大逆転で3年ぶりのシード権奪取に成功した。全ての大会で軸になっていたのが、エースの鎌田だった。

鎌田は「これまで大きな故障をほとんどしたことがない」。それは「自分の代がいつも故障者が多く、そういうのを見ながらなるべくけがをしないように、練習で無茶をし過ぎないとか、日頃から体の状態を把握する意識を持つようになりました」と話す通り、努力の賜物(たまもの)に他ならない。だからこそ普段の練習を継続できるし、特に上級生になってからの数々の実績が、そのことを如実に物語っている。

けがなく練習を積めたことが結果につながった(撮影・松永早弥香)

大学生活はまもなく終了し、春からはヤクルトで社会人1年目の活動が始まる。坪田監督とは時に意見がぶつかったことも、いい思い出に変わりつつある。4年間を駆けてきて、得られたものは「自信」だという。

「その自信や大学での経験を実業団での活躍につなげていきたい。1年目の目標はニューイヤー駅伝に出ることで、最終的にはマラソンに挑戦していきたいと考えています」

大学4年間で大きく羽ばたいた鎌田。しかし、ゴールはここではない。その視線は早くも次の舞台に向けられている。

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