法政大・清家陸主将 青木涼真先輩の涙で決意したあの日、箱根駅伝5区は走らずとも
法政大学の清家陸(4年、八幡浜)はチームに欠かせない主力選手の1人となったが、決して高校時代から突出した実績を残していたわけではない。八幡浜高校(愛知)3年生の時に四国インターハイ5000mに出場し、2位の好成績を収めたが、タイムは14分58秒82。14分30秒が1つのラインと言われる中で、抜きん出た成績ではなかった。大学進学にあたって関西の大学も考えたが、箱根路を夢見たことや、マスメディア系への就職も考えていたことから法政大を選んだ選手だ。
3年ぶりに箱駅伝シード権を逃す
法政大入学後は、度重なるけがに見舞われた。左ひざ負傷に右大腿骨(だいたいこつ)疲労骨折と、本格的に走れるようになったのは2年生になってからだった。出雲駅伝で大学駅伝デビューを果たすと、5区(6.4km)区間10位。前との差を詰める走りで、「自分のペースを守れた」と自身も満足のスタートを切った。続く全日本大学駅伝でも5区を走り12位。まずまずの走りではあったが、「全然通用しないと感じた」と話す。
迎えた初の箱根駅伝は当日変更で9区での出走となった。17位で襷(たすき)を受けると、攻めの走りで区間7位。更に9区の法政大記録を塗り替えるというオマケ付きの快走を見せた。しかしチームは総合15位と3年ぶりにシード権を落とす結果に、5区を走った青木涼真(当時4年、現・Honda)は涙を流した。先輩の姿を見て、清家は5区への思いが強くなったという。
「来年は絶対に山を上ってやる」
コロナ禍でも「今できることを」
3年生となり、清家は同期の鎌田航生(現4年、法政二)とともにチームの主力となった。しかし、誰もが予期せぬ事態が襲った。新チームが発足し、「箱根駅伝総合8位」の目標を掲げた矢先、新型コロナウイルスの拡大によりチームは大幅に活動を制限されたのだ。
練習ができる場所は限られ、夏合宿も実現できなかった。ただその中で箱根駅伝5区をイメージすると同時に、距離を踏むことは意識していた。「今できることを」。それが初の箱根駅伝予選会での好走をにつながった。目標としていた日本人20番以内には届かなかったが、33位でチーム内2位。タイムは1時間2分35秒の自己ベストで、予選会突破(8位)に貢献する走りだった。
2度目の箱根駅伝を迎えるにあたり、周囲からの山上りへの期待は大きかった。清家も意識する選手として第96回大会で5区区間賞&区間新だった東洋大学の宮下隼人(現4年、富士河口湖)を挙げるほど、山への強い思いがあった。しかし箱根駅伝当日、5区に「清家陸」の名前はなかった。直前の故障が影響し、4区での出走となった。
チームは1区で鎌田が区間賞を獲得するが、その後大きく後退。16位で襷を受け取り、後方からのレースに区間11位と本来の力を出し切れずに終わった。チームも総合8位どころか総合17位でシード権を落とし、更に区間1桁順位で走った選手は、1区区間賞の鎌田のみに終わるという屈辱的な大会になってしまった。
ラストイヤーは主将としての役割を
最上級生となって主将を任された清家は、「箱根駅伝総合5位」を目標に掲げた。前回大会では「総合8位」を掲げながら総合17位に沈んだにもかかわらず、あえて目標を高めた。それはチームとして、そして主将としての自信の表れだった。鎌田・清家の上級生頼みのチームから内田隼太(3年、法政二)、河田太一平(3年、韮山)、小泉樹(1年、國學院久我山)、武田和馬(1年、一関学院)と後輩の台頭があった。実際に、内田は昨年9月の日体大記録競技会で28分58秒65、小泉は1年生ながら昨年6月の全日本大学駅伝予選で2組3着と、早くも主力の仲間入りを果たそうとしていた。
しかし、清家本人は苦しんだ。シーズン中盤まで10000m30分台のレースが目立ち、自身の実力からは程遠い成績が続いた。その中でも、さすがは経験豊富な4年生。駅伝シーズンが近づくと徐々に調子を上げ、予選会は周りを見つつも56位(チーム内3位)で走り切り、主将の役割を果たした。
最後の箱根路で魅せた猛追
迎えた最後の箱根駅伝は2年前と同じ9区だった。後輩の台頭や細迫海気(2年、世羅)が山への適性を見せたことから、いいイメージのある9区にまわることができた。チームは1区からシード権のボーダー付近でレースを進め、清家に渡った時には12位。目標を「区間賞」と定め、シード権獲得のためにひたすら前を追った。早稲田大学と並走していたが、12km過ぎに振り切りってからは「2年前よりはるかに練習を積めていた」とペースを一気に上げる。猛烈な勢いで前を追い、最終的にはシード権(10位)まで32秒まで詰めてみせた。
区間7位の力走で、1時間9分22秒は2年前に自身が打ち立てた法政大記録を30秒以上上回ったその姿は、まさに主将として最後の雄姿を後輩たちに示すものであった。アンカーの川上有生(3年、東北)は残り1kmを切ったところで東海大学を交わし、10位でゴール。清家の執念の走りは、シード権をつかみ取る大逆転劇につながった。
目標の「総合5位」「区間賞」には届かなかった。しかし、1年間主将としてチームを引っ張った清家が、「(主将を)任された当初は不安で、あまり気は進まなかったこともありました。ただ1年間主将をやらせていただいて、今日のように、成果が少しずつチームに返ってきて、とてもいい経験になりました。この経験を今後にも生かしていきたいです」と語る様子は、実に清々しいものだった。
これからは地元・愛媛でスポーツを盛り上げる
卒業後は地元・愛媛の南海放送に就職し、番組を制作する。1年間チームを引っ張る以外にも、全日本大学駅伝や箱根駅伝のためのプロモーションビデオの制作を行い、部を盛り上げてきた。そんな清家は4月から地元のスポーツを盛り上げていくことだろう。
来季の法政大は、清家、鎌田というチームを支えた屋台骨が卒業する。しかし、内田や河田、武田に小泉など箱根路を経験したメンバー8人が残る。自身が青木の涙を見て5区を志が大きくなったように、後輩は先輩の姿を見ている。常に高い目標を設定し、自らを追い込んできた主将が見せた最後の23.1kmは、後輩にも受け継がれ、法政大が更に強くなるための布石と言っても過言ではない。