陸上・駅伝

中央大・若林陽大新主将「強い中央大」を目指してきた先輩らの思いを胸にチームで戦う

若林は過去3度の箱根駅伝で3度6区を任されてきた(撮影・小野哲史)

2021年度は全日本大学駅伝で8位、箱根駅伝で6位と、ともに10年ぶりにシード権を獲得し、名門復活を印象づけた中央大学。1年生の時から箱根駅伝に出場してきた若林陽大(4年、倉敷)が新たな駅伝主将に就任し、スタートを切った。中学時代から駅伝で力を発揮し続けてこられたのは、チームで戦う駅伝に魅力を感じているから。大学最後のシーズンも、その思いを原動力にしながら、チームを更なる高みへと導く。

中央大・藤原正和監督 本気で箱根駅伝優勝を目指す「この1年がキーとなる」

チームで戦うのが駅伝の魅力

岡山市出身の若林は、吉備中時代も倉敷高時代も、2年生と3年生の時に駅伝の全国大会に出場し、中央大に進学してからは箱根駅伝でルーキーイヤーから3年連続6区に出場してきた。全国高校駅伝(都大路)はいずれも4区を任され、区間8位で走った2年生の時は準優勝。区間3位と好走した3年生では日本一に輝いた。大学でも区間10位で堂々の箱根駅伝デビューを果たし、2年生の時からは2年連続で区間5位。いまや山下りのスペシャリストとして、藤原正和駅伝監督やチームメートから絶大な信頼を寄せられている。

なぜ駅伝で外すことがなく、大舞台で力を発揮できるのか。「それが自分の強み」と話す若林は、「駅伝はチームで戦っているので、1人が走れないとチーム全員に迷惑がかかる。自分自身は絶対に足を引っ張らないように、むしろチームに貢献するという気持ちで挑んでいる結果だと思います」と自己分析する。

中学生の頃、顧問の先生から常々、「駅伝は全員でやる競技。みんなのためにも遅れてはいけないし、仮に誰かが遅れたら別の仲間がカバーすればいい」と聞かされていた。若林は当時からその言葉を胸に刻んでレースに臨み、今もその姿勢は変わっていないという。

駅伝の魅力もそこにある。「普段、一緒に生活している仲間も個人単位で見ればライバルですが、チームとして見ると頼もしい存在になります。それに自分は、個人で勝つよりチームで勝つ方がうれしいと感じています」

「駅伝は全員でやる競技」だからこそ、若林(左)は皆のことを思いながら駅伝に向かってきた(撮影・佐伯航平)

高校時代はインターハイにも出場したが、最も印象に残っているのは、やはり都大路の優勝だ。

「チームが初優勝した1年生の時はメンバーにも入れず、2年生では準優勝。今年こそは絶対に優勝すると最後の1年間を頑張ったので、それが報われた思いでした。僕自身の走りは区間賞を狙っていたので、良くはありませんでしたが、僕が引っ張る練習についてきてくれた後輩が頑張ってくれたのが何よりうれしかったです」

中学時代以上に駅伝に情熱を傾けた高校3年間だった。

中央大1年目の夏以降に大きく飛躍

高2の秋頃、まだ高校での全国大会出場がなく、それほどいい記録を持っていたわけでもない若林に対し、中央大側から接触があった。その冬の全国都道府県対抗駅伝後から本格的に勧誘を受けた。その後、いくつかの大学からも声がかかったが、若林は「最初に気にかけてくれた大学だったことと、知っている人がいる所が良かった」と、倉敷高の先輩・畝拓夢(現・日立物流)がいた中央大に進学を決めた。

若林が入学した2019年の箱根駅伝は11位と惜しくもシードに届かなかったが、前年までの中央大はシード獲得どころか15位以下の下位に低迷し、本戦出場を逃した年もあった。高校では常に優勝を目指すチームにいた若林だが、「苦しい状況からはい上がっていくチームでやるのも面白い」と考えていたという。

1年目は、まず「前半シーズンに高校時代の5000mの自己ベスト(14分16秒45)を超える」と目標を掲げたものの、授業の大変さを含めた環境の変化に苦労し、全く目標に届かなかった。「何かを変えないといけないと思い、井上大輝先輩(現・大阪ガス)たちにアドバイスをもらったりして、陸上に向き合う姿勢が少しずつ変わっていった」

フォームの改良にも取り組み、徐々に力をつけていった若林は、夏合宿の下りの練習で藤原監督から適性を見出される。10月の箱根駅伝予選会を走る機会は得られなかったが、11月の10000m記録挑戦競技会で29分28秒44の自己ベストをマークし、「箱根を走れるかもしれない」という思いが芽生え始めた。

初めての箱根駅伝は、「往路は13位で、シード獲得の可能性もあったので緊張していたし、走っている時はきつくて楽しむ余裕はなかった」と振り返る。それでも59分25秒で、目標としていた1時間切りをクリア。最終的にチームはシード権を逃したこともあり、やれたという手応え以上に、「もっと上の順位で走らないといけないし、走りたい」と強く感じた最初の箱根駅伝を終えた。

「山を下れるのは自分しかいない」

2年目に始まったコロナ禍では、大学側から大人数での練習が禁止され、帰省する部員も多かった。若林は寮に残り、同じく帰省しなかった池田勘汰(現・中国電力)、畝、手島駿と4人で、「こんな大変な状況だけど、俺たちはここで頑張ろう」と声を掛け合いながら練習を継続した。部員が戻る6月にチーム内でタイムトライアルが予定されていたため、モチベーションが落ちることはなかった。夏合宿も「過去最高ぐらいの出来だった」という。

2度目の箱根駅伝は万全な状態ではなかったが、「山を下れるのは自分しかいない」と覚悟を決めた(右から2人目が若林、撮影・佐伯航平)

しかし、9月中旬のメンバー選考を兼ねた重要な練習に調子が合わず、箱根駅伝予選会はこの年もメンバー漏れ。悔しかったが、藤原監督から「箱根の6区は若林しかいないから、切り替えてやっていこう」と言われ、調子と気持ちを上げていった。箱根駅伝本番は2週間前にアキレス腱(けん)を痛め、万全ではなかった中、「山を下れるのは自分しかいない」と奮起し、58分45秒の中央大記録を樹立。若林の走りがチームを勇気づけ、中央大は復路3位でレースを終えた。

21年度に入ると、若林は上級生として、それまで以上に意識が高くなったという。「今まではがむしゃらに、先輩についていくだけの練習をしていれば良かったですが、後輩も増えて、しっかり引っ張っていかないといけないと思うようになりました」。そうした使命感が、5月の関東インカレ10000mでの自己ベスト(28分54秒01)や、6月の全日本大学駅伝選考会での第2組で4位という力走につながった。

ところが、トラックシーズンに飛ばし過ぎたか、夏から原因不明の体調不良に悩まされてしまう。「ポイント練習をすると、翌日はジョッグもできないくらい回復力がなくなっていました」。徐々に復調したものの、走り始めたのが10月に入ってから。箱根駅伝予選会はまたしても出場を逃し、中央大が9大会ぶりに伊勢路に戻った全日本大学駅伝も無念のメンバー外となった。

ただ、若林は「みんなに明日は俺たちも頑張ろうと思ってもらえるような走りがしたかった」と、全日本大学駅伝前日の記録会5000mで13分59秒08。11月24日のMARCH対抗戦10000mでも28分42秒02と自己新記録を連発し、箱根駅伝本戦に向けて臨戦態勢を整えていった。

今年の箱根駅伝で中央大は9年ぶりにシード権を獲得したが、若林(左)は自身の走りに満足をしていない(撮影・北川直樹)

三度6区を任された箱根駅伝は、58分48秒で前年と同じ区間5位。「57分台で区間賞」を目指していただけに満足していないが、チームのシード権獲得は「最高にうれしかった」。山を下っているレース中に「夏にしっかり走っていないと結果は出ないんだな」と改めて感じたことも含め、多くを学べた大会でもあった。

全日本と箱根での3位を目指して

若林は2年生から学年リーダーを務め、先輩たちとコミュニケーションを取りながら、自分の学年をまとめてきた。中央大は基本的に学年リーダーが4年生で駅伝主将に就任することが多い。22年度も駅伝主将が若林で、副将が中澤雄大(4年、学法石川)、寮長が田井野悠介(4年、世羅)、主務が藤村燦太(4年、東海大札幌)といった幹部は、昨夏の時点ですでにほぼ内定していた。

前主将の井上からは、「チームのことで怒られることも多いだろうから大変だと思うけど、自分はやってきて良かった」と言葉をもらった。中学や高校時代に主将の経験はないが、「自分もきっといい経験ができる」と前向きに捉えている。

21年度の躍進で、チームには今、「俺たちもできる」「もっとやってやろう」という雰囲気に満ちているという。新チームの目標も若林らの学年を中心に「全日本と箱根で3番」と掲げた。

「具体的には優勝争いをしての3位。1つ下の学年が4年生になる箱根は優勝を目指すと思うので、そこに向けた足がかりになればと思っています。今年は出雲にも出場できますが、出雲は誰も経験がなく、イメージが湧かないので、夏合宿の出来を見てから目標を決めようという話になっています」

主将を担ってきた井上の思いも胸に、主将としてチームを支えていく(撮影・小野哲史)

それとは別に、年間を通して、「チーム全員で120回、自己ベストを出す」とした目標は実にユニークだ。部員が約40人いるので、1人平均3回。それが達成されれば、「チームの底上げにつながる」と考えている。前主将の井上は「全員で箱根を目指すチームにしたい」と広い視野でチームをまとめ、若林はその姿を間近で見てきた。

強い中央大を取り戻す――。その一心で先頭をひた走ってきた尊敬する先輩から、若林は駅伝主将という重みのあるバトンを受け取った。

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