中央大・藤原正和監督 本気で箱根駅伝優勝を目指す「この1年がキーとなる」
中央大学は箱根駅伝最多優勝14回を誇る名門校だが、近年は低迷が続いていた。今年の箱根駅伝では6位となり、10年ぶりのシード権(10位以内)を獲得した。吉居大和(2年、仙台育英)の1区区間新は、新星誕生を強烈にアピールするものだったし、チームが復路の8~9区で3位を走ったことは中大復活を印象づけた。
世界を目指した育成プログラム
中大は8位となった12年大会の後は途中棄権、15位、19位、15位と名門らしからぬ成績が続いた。OBで世界陸上マラソン3回出場の実績を持つ藤原正和氏が、16年シーズンに駅伝監督に就任。箱根駅伝の成績アップを期待されたが、藤原監督は就任当初から世界で戦う選手の育成を目標に掲げていた。それが形になったのが吉居の1区区間新だが、そのプロセスに藤原監督の考えが現れていた。
吉居は大学1年時のトラックでは5000mのU20日本記録を2度更新し(13分28秒31と13分25秒87)、日本選手権5000mでも3位に入賞した。しかし箱根駅伝では3区区間15位と、期待された成績からは遠かった。
「東京五輪には届かないかもしれませんが、本気で挑戦することに意味があると考えて日本選手権に100%合わせました。そこから急ピッチで箱根(の20km)仕様に変えていきましたが、しっかり練習ができなかった。大学1年生には難しいことでした。箱根の結果は私の責任です」と藤原監督は話す。
昨年2月から85日間、藤原監督は吉居を男女とも世界トップレベルの選手が複数在籍する米国のプロクラブチームBTC(Bowerman Track Club)の練習に参加させた。だが帰国後、2年時のトラックシーズンの吉居の成績はまったく振るわなかった。
BTCでレベルの高いトレーニングを行うのは時期尚早だった、という見方もできる。だが、それも覚悟の上での武者修行だった。早い段階で“世界の壁”を吉居に経験させたい意向が藤原監督にあったのだ。「僕自身、もっと早く外に出て経験をするべきだった、という反省があります。吉居はあれだけの素材です。少しでも早く世界の経験をさせて、その先に向かって成長してほしい」
結果的にBTCでのトレーニングは、当時の吉居には高いレベルの内容で対応できなかった。「本人が話したようにジョグの量が大きく減りましたが、ポイント練習(週に2~3回行う負荷の大きい練習)も置いて行かれていました」
だが1年前の箱根駅伝との違いは、BTCの練習に対応できないことも想定内だったことだ。
海外武者修行と箱根駅伝の両立
繰り返しになるが、藤原監督は吉居にはBTCで「“壁”に当たってほしい」と考えていた。「練習面でも生活面でも、“世界の壁”に跳ね返されて初めてわかるものがあります。人から聞いて理解するのでなく、肌で感じてこそ行動を変えられる」
東京五輪を狙うには標準記録を破るか、世界ランキングを上げる必要がある。標準記録は簡単に届くレベルではないので、世界ランキングを上げるために米国の大会でポイントを取りに行った。結果は出せなかったが、米国滞在を1カ月近く延ばして現地で2試合に出場した。
「帰国した吉居の表情を見て、すごく疲れているな、と思いました。思うようにいかないことばかりで、ストレスが多かったのだと思います。練習レベルの高さ、コロナ禍で外出できないことや食生活の不自由さ、思うように走れない自分への不満。本気でオリンピックを狙うのがどういうことか、実感できたはずです」
帰国後に国内で、ポイントが高く設定されているREADY STEADY TOKYO(5月)と日本選手権(6月)に出場したが、14分20秒53の13位と13分53秒31の16位。どん底といえる状態だった。標準記録の13分13秒50とは隔たりがあったし、ポイントも獲得できなかった。
しかし1年時との違いは、箱根駅伝まで時間があったことだ。「5月以降は練習が途切れるケガや体調不良はありませんでしたし、夏の走り込みが2年目はしっかりできました。1年目は12月の日本選手権5000mに向けて夏も秋もやっていましたが、21年は予選会、全日本大学駅伝、箱根駅伝の3つにいい状態を作っていくことを考えて、夏に思い切って走り込みができたんです。1年時に優勝した9月の日本インカレでは走れませんでしたが(5000m11位・14分12秒80)、自信を失う必要はないことを本人も理解してくれました」
10月の箱根駅伝予選会は13位(1時間02分51秒)とエンジンがまだかかっていなかったが、11月の全日本大学駅伝1区(9.5km)では、区間賞の佐藤条二(駒澤大1年、市船橋)と同タイムの区間2位。復調の兆しを見せた。11月27日の八王子ロングディスタンスと12月4日の日体大長距離競技会で10000mを連戦。八王子では29分23秒76と失敗したが、日体大では28分03秒90の自己新を出した(この2大会については吉居のインタビュー記事参照)。
そして箱根駅伝1区の区間新につなげている。世界を見据えたBTC武者修行と、結果が求められる箱根駅伝を両立させた1年間だった。
就任3年目は「チームとしてスキがあった」
藤原監督が就任した16年シーズン以降の、中大の箱根駅伝成績は以下の通りである。
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17年予選会11位
18年=15位(往路10位・復路18位)、予選会3位
19年=11位(往路12位・復路8位)、予選会8位
20年=12位(往路13位・復路12位)、予選会10位
21年=12位(往路19位・復路3位)、予選会2位
22年=6位(往路6位・復路8位)、予選会2位
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19年大会の中山顕(4年、現Honda)と堀尾謙介(4年、現トヨタ自動車)、今大会の吉居と、エースの存在が“藤原・中大”の成績に大きく影響した。それは藤原監督も否定しないが、エースの育成はチーム強化とも関連する。箱根駅伝の成績には、チーム全体の強化方針やピーキングの巧拙も現れていた。初シードを獲得するまでの6年間を藤原監督に振り返ってもらった。
1年目は下位校に甘んじる雰囲気が満ちていたチームの目を覚まさせる意味合いもあり、1年生の舟津彰馬(現・九電工)をキャプテンに指名した。3年生キャプテンは多くなっているが、1年生キャプテンは“劇薬”だった。
それでも予選会には間に合わず11位。連続出場記録を87回で途切れさせてしまった。
「どうしたらよかったか、今でも考えます。勝負にタラレバはありませんが、今思えばトラックシーズンは捨てて、春から箱根の20kmに特化したトレーニングをしていればよかったかな、と思います。しかし当時は、10000mのタイムを持っている選手があまりに少なかったんです。8人の平均が29分53秒くらいでは、戦う自信を持てません。冬場に練習ができていなくて、本当に難しかった」
2年目は予選会こそ3位で通過したが、本戦は15位とシード権獲得には遠かった。「伝統を途切れさせてしまった翌年です。4年生にハーフマラソンを走れる選手が2~3人しかいなくて、戦力的にも一番苦しい年でした。予選会を通らないと中大は終わってしまう。そのくらいの危機感を持って、予選会にピークを持っていきました。その結果予選会がゴールになってしまって、本戦に10人揃えることは無理でした。走れる状態だったのは往路の5人だけでしたね」
3年目は11位とシード権獲得まで1分16秒と迫った。今も実業団で活躍する中山が1区区間2位、堀尾が2区区間5位と好走。上位の流れに乗り、4区まで7位をキープした。山上りの5区で12位に後退したが、8~10区の3人が区間8位、6位、6位と踏ん張って、7区で14位まで落ちた順位を11位まで上昇させた。
「中山と堀尾のチームでしたが、前年に箱根に出場したことで満足しているような雰囲気も漂っていました。弱かったチームの遺産といえる部分です。三浦(拓朗)が入学して、練習で飛び出すなど積極的な走りをして、チームに刺激も入って戦える陣容が少しずつ整ってきたのは確かです。しかし12月に入って前年5区区間10位だった畝拓夢(当時2年)がケガをしてしまい、12月31日には三浦も発熱して、主要区間を予定していた2人が起用できなくなってしまいました。シードを取れたとしたらあの年でしたね。流れを呼び込めなかったのは、チームとしてスキが多かったからです」
その年に4年生だった堀尾は、2月の東京マラソンで日本人トップを取り、一般入試で入ってきた中山は10000mで28分22秒59まで記録を伸ばしていた。個々の育成はでき始めていたが、チーム力としてはまだまだだった。
夏合宿から良い練習を積め、シード権獲得に
藤原監督就任4年目は4年生になった舟津と田母神一喜(現・阿見AC)がチームを引っ張ったが、2人が得意とするのは中距離種目。距離走などを引っ張る役割はできなかったという。
「箱根駅伝は一番苦しい夏場に、4年生が引っ張ることでチーム力が上がるのですが、そこが難しかったですね。しかしトラックでは走れる選手が多く、予選会3週間前の10000mも結果が良くて、そこから守りに入ってしまいました。ハーフマラソンの最後を押し切るように持っていく練習ができませんでした」
箱根駅伝は中山と堀尾が抜けた1、2区で18位と出遅れた。5区の畝が区間9位、6区の若林陽大(当時1年)が区間10位と「山が安定していた」ので踏みとどまることはできた。「3区から挽回する駅伝」で最後になんとか12位に上がった。
5年目は3月に、入学前の吉居も含め10000mで好記録が続出したが、その直後からコロナ禍の影響を受けて、帰省しないといけない状況が続いた。4年生を中心とする一体感を作ることができなかった。予選会は2位で通過したが「4年生が予選会で燃え尽きて、その後ケガをしてしまった。4年生のモチベーションをうまく持っていってあげられなかった」と藤原監督は言う。
本戦も2区終了時に前年と同じ18位で、3区の吉居も不発で挽回できなかった。復路で12位に上がったことも前年と同じだったが、明るい兆しも見え始めた。6区の若林が区間5位、7区の中澤雄大(当時2年)も区間5位、8区の三浦(当時3年)が区間7位、9区の手島駿(当時3年)も区間7位、そして10区の川崎新太郎(当時4年)が区間5位と、復路全員が区間5~7位で走り、復路3位の好成績を残した。そのうち4人が2~3年生で、今年につながるチームの底上げが進んでいた。
そして6年目の今回、6位で10年ぶりシード校復帰を果たした。予選会は前年と同じ2位だったが、そこで燃え尽きることはなかった。「全日本大学駅伝に出られたことが大きかった」と藤原監督。「予選会、全日本、箱根駅伝と3つとも合わせないといけない緊張感を、夏から持つことができました。夏の強化期間を1週間から10日間長くしたのですが、選手たちはやりきってくれた。キャプテンの井上(大輝)は線の細い選手でしたが初めて夏合宿ができて、4年目で安定感が出てきました。副キャプテンの手島はCチームからスタートした選手ですが、この2人が頑張ることでチームの気持ちが高まりました。箱根駅伝では初めて、攻めのオーダーが組めたんです」
前述のように、吉居もその流れに乗って11月以降の好成績に結びつけた。インタビュー記事にもあるように、1区を「4年生のために」という気持ちも持って走っていた。1区の区間新は吉居個人の強化に加え、チームの成長も背景にあって実現したのだった。
チームとして6年間の成長と箱根駅伝100回大会優勝への挑戦
1年毎に選手が入れ替わるのが学生スポーツである。“藤原・中大”も6年間、1年毎にテーマがあり課題が残った。右肩上がりの成長ではなかったが、下位校のマインドは徐々に薄れ、挑戦する気概がチームに浸透してきた。その結果選手層が厚くなって前回の復路に現れ、今回のシード権獲得につながった。
藤原監督は「6年前から考えると、基本的なことがしっかりできるようになった」と感じている。藤原監督の言う“基本的なこと"とは主に、生活の仕方を指す。
「しっかり挨拶をすること、寮の内外の清掃を丁寧に行うこと、靴やスリッパを揃えること、靴ひもを結ぶこと。当たり前のことが当たり前にできないと、上では戦えません」
藤原監督は全国高校駅伝で常勝チームだった兵庫県の西脇工高出身。生活をしっかりすることが競技力向上になる。これは当時の監督で、西脇工高をナンバーワンチームに成長させた渡辺公二監督に徹底的に教えられたことだ。「そうすることで競技でも、当たり前のレベルが上げられます。それが意識しなくてもできるようになる」
もちろん、トレーニングの細部に関してもノウハウが蓄積され、精度が上がっている。
「1年目は私の引き出しが少なくて、自分がやってきたことのアレンジしかできませんでしたが、2年目は年間を通して走る量のベースを上げましたし、その後も毎年、色々なことを変えています。その年、その年で指導者としての学びもあり、選手のレベルや努力も上がってきて、練習はバージョンアップしています。型にはめるというより、その年の選手に合った練習を考えるようになりましたね。4年間で力を出すことを考えるべき選手もいれば、その先の実業団で伸びることを考えてあげないといけない選手もいます」
堀尾は4年時の東京マラソンで日本人1位となり、今年のニューイヤー駅伝では1区の舟津と6区の中山が区間賞を取った。藤原監督は「チームとしていい方向に進んでいる」と手応えを感じている。
これまではABCチームに分けて練習のタイム設定を変えていたが、22年シーズンは「チームのレベルも上がって来たので、吉居グループを作って、スピードのレベルを上げていく」ことも考えている。
最多優勝校の中大が本当に狙うのは2年後の箱根駅伝100回大会の優勝だが、今シーズンも本気で優勝を目指していく。「跳ね返されたとしても、何が足りないかが実感できます。本気で優勝を目指して初めて経験できることがある。この1年がキーになります」
10年ぶりのシード権獲得は、箱根駅伝一番の伝統校である中大が、優勝へのチャレンジを開始する号砲となった。