陸上・駅伝

早稲田大・鈴木創士新主将、学生駅伝二冠へ 松葉慶太のような魅力的な人になる

鈴木(右)は1年生の時から箱根駅伝を走り、最終学年では主将を任された(撮影・北川直樹)

早稲田大学は今年の箱根駅伝で総合13位、3年ぶりにシード権を落とした。新主将に決まっていた鈴木創士(4年、浜松日体)の胸には悔しさ、怒り、情けなさ……。様々な感情が入り交じる中でも、決して涙は見せなかった。「自分としては落ち込みたかったけど、キャプテンになるんだから、キャプテンとして自分を律してチームを作り直さないといけないなと思いました」。掲げた目標は全日本大学駅伝と箱根駅伝で「学生駅伝二冠」。批判があることも覚悟した上で、鈴木はあえて高い目標を掲げた。

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松葉慶太に背中を押されて陸上の道へ

静岡県磐田市出身。小さい頃からサッカーや水泳、ゴルフなど様々なスポーツに触れてきたが、小学校の持久走大会でどうしても勝てない子がいたため、かつて陸上部だった父親と一緒に走り始めた。「結局、4位か5位で微妙だったんですけど」と苦笑い。中学は隣町・浜松市の浜松日体中学校に進み、当初はゴルフ部に入部するつもりだったという。だが2つ上で後に青山学院大学の副将を務めた松葉慶太から熱心に勧誘され、陸上部に入部を決めた。

「なんか魅力があったんですよ。最初は『入れよ』と強引だったんですけど、体験入部の時に面白い先輩だな、この人と走っていると面白いな、と思って陸上部に入部しました。松葉さんに呼ばれて自転車で磐田から浜松まで行くこともあって、その時の自分すごいな、と今は思うんですけどね」

次第に結果が出始め、中3の時にはジュニアオリンピック3000mに出場し、8位入賞。長距離の同期は8人というチームではあったが、中3の時に静岡県駅伝で優勝し、創部初の全中駅伝に出場した。初の舞台は「舞い上がってしまったのと、直前に修学旅行でオーストラリアにホームステイをしていたこともあって、みんなで全中駅伝を走れることに満足していました」と鈴木は振り返る。だが鈴木はアンカーの6区で区間タイ記録、順位を40位から24位にまで引き上げる快走を見せた。

そのまま浜松日体高校へ。寮生活ではなかったものの規律が厳しく、鈴木は最後までなじめなかったという。その中で同期の西澤侑真(現・順天堂大4年)は「負けられない相手」となり、日々の練習の刺激になった。2年生での全国高校駅伝(都大路)は太田直希(現・ヤクルト)たち3年生のために走り、浜松日体は6位に入った。3年生では最後のインターハイに1500mで出場したが、本命の5000mでは出られず、静岡県駅伝は韮山高校に敗れての2位で都大路を逃した。「韮山がいい方に傾いて、浜松日体は悪い方に傾いたようなレースだった」と鈴木は言う。当時はできることはやり切ったと鈴木自身思っていたが、今振り返るともっとできることがあったのではと感じている。

1年目の箱根駅伝で区間2位の快走

大学は寮の環境や指導方針を踏まえ、自分に合っていると感じた早稲田大に進んだ。5月の関東インカレ男子1部10000mは、鈴木にとって「エンジに白のW」のユニホームで走る最初の舞台となったが、留学生と走るレースで人生初の周回遅れを経験。その悔しさを翌6月の全日本大学駅伝関東地区選考会(10000m)にぶつけ、第2組のトップでゴールした。

初めての学生駅伝となった全日本大学駅伝で6区区間5位。箱根駅伝予選会の疲労から後半失速したことに課題を感じた(右が鈴木、撮影・安本夏望)

1年目から全日本大学駅伝を走り、6区区間6位。初の箱根駅伝では7区区間2位と快走し、順位を12位からシード圏内の9位に押し上げた。それでも「自分のこの結果は素直にうれしいんですけど、チームの目標と照らし合わせたら、1秒でも2秒でも、もっと速く走らないといけなかった」と振り返る。

だが2年目の2020年は新型コロナウイルスの影響で様々な大会が延期・中止となり、出雲駅伝も中止となった。学生駅伝の開幕となった全日本大学駅伝で7区区間9位。3位から5位に順位を下げてしまい、その悔しさを胸に箱根駅伝に向けて距離を踏んだ。2度目の箱根駅伝では往路の4区を任され、区間3位の快走。順位を8位から3位に押し上げたが、5区の諸冨湧(現3年、洛南)が区間19位と苦しみ、往路11位。復路4位と盛り返し、総合6位だった。

2度目の箱根駅伝では往路の4区を走り、順位を3位に引き上げる快走を見せた(左が鈴木、代表撮影)

選手生命を脅かすけがに苦しみ

10000m27分台の中谷雄飛(現・SGホールディングス)や太田直希など力のある選手がそろった代が4年生になるにあたり、千明龍之佑主将(現・GMOインターネットグループ)のもと、チームは大迫傑が1年生だった10年度以来となる「駅伝三冠」を目標に掲げた。先輩たちへの恩に報いるためにも、自分の走りで優勝をたぐり寄せたい。鈴木はそう考えていたが、昨年3月に股関節唇(しん)を損傷し、手術を余儀なくされた。リハビリが長引き、練習に参加できるようになったのは7月下旬だった。夏合宿は部分的に参加したが、体と心のバランスがうまくとれない日々が続いた。

「チームのことを考えないといけないのに、自分の選手生命の心配もありました。正直言って、先輩とかチームメートの顔を見るのもつらかった。申し訳ないじゃないですか。みんな頑張っているのに、主力だった自分が走れていない。はたから見たら何やってるんだと思うだろうなと思って、誰にも相談できませんでした。でも手術のこともあったので親には相談して、『この時期にできることをやりない』と言われました。焦らず一つひとつやろう。そこから少しずつ前を向くことができたと思います」

10月の出雲駅伝は寮のテレビで仲間を応援し、早稲田大は6位だった。11月の全日本大学駅伝には万全ではなかったものの出走し、7区区間5位。チームは出雲駅伝に続いての6位。チーム内からも箱根駅伝の目標を下方修正した方がいいのではという声が出ていたが、ミーティングで千明は涙ながらに思いを語り、チームは「箱根駅伝こそは総合優勝を」と気持ちも引き締めた。

鈴木(右)は万全な状態ではなかったが、チームのために全日本大学駅伝に出走した(撮影・佐伯航平)

だが箱根駅伝に向けてけが人が相次ぎ、鈴木も体調不良に悩まされた。「4年生のためにも2区や4区を走ってチームを勢いづけたいと思っていたんですが、けがの後遺症で走ると体調が悪くなってしまい、これはもう無理なんじゃないかと思ってしまうこともありました」。それでもレース3日前には調子が上がってきたのを感じ、相楽豊監督の打診に「いけます」と応えた。

早稲田大は往路を11位で終えた。優勝争いをするはずがシード権争いになっている現状を、鈴木は悔しさをもって受け止めた。当日変更で7区へ。チームメートから「珍しく創士が緊張している」と言われた。6区の柳本匡哉(現3年、豊川)から14位で襷(たすき)を受け取り、ほどなくして国士舘大学を抜く。神奈川大学も捉え、足がつりそうになりながらも、ただひたすら前を追った。12位で襷をつなぎ、区間5位だった。「前半つっこんで入った分、後半に苦しくなったけど、あの瞬間にできる最高のパフォーマンス。空っぽになるくらい走った」と鈴木は振り返る。それでも総合13位でチームがゴールした瞬間は、自分の力のなさを悔やんだ。

優勝を目指して取り組むことが大切

新主将は昨秋に学年での話し合いで決まった。その時は鈴木自身、満足のいく走りができておらずモチベーションが難しい時ではあったが、「それと自分がキャプテンをやることとはリンクしてなくて、来年のチームは自分が引っ張っていかないとなという素直な気持ちでした」

目指すべきキャプテン像は、自分を陸上の世界に引っ張ってくれた松葉の姿と重なった。部の雰囲気を盛り上げてくれ、ただ一緒に走っているだけでも楽しかった。「松葉さんがいたから、自分も陸上にしっかり取り組んでいきたいと思ったんだろうな。そんな“この先輩には価値がある”と思ってもらえるような先輩になりたいです」。走りで引っ張ることも大切だが、自分の知識や時間を後輩たちに還元しながら、後輩たちとコミュニケーションをとっていくことも自分の役割だと感じている。「それが正しいことなのか分かりません。成果は終わった時に見えることだろうし。だから『そんな先輩がいたから優勝できたんじゃない?』と言ってもらいながら卒業できたらいいですね」

ラストイヤーも箱根駅伝で特に希望する区間はなく、「どの区間を任されても結果を出す」と言い切る(撮影・藤井みさ)

主将になってから、鈴木は一つひとつを見直した。例えば、全員がそろって朝練をし、故障した時はその原因と対策を考え、その知識を部内に共有する。また、主将と副将がチームのトップにいる組織を、各学年のリーダーの上に主将と副将がいる体制に変更した。「このままではいけないと皆が肌で感じたはずです。だから身近な“あたり前”を見つめ直し、一人ひとりが主体性をもって考え、行動できるチームになることが必要だと思いました」

目標をあえて高く定めたのも一人ひとりの意識を高めるためだ。「3位を狙っていたら3位すらとれないし、シードを狙ったらシードもとれない。優勝は優勝を目指してきたチームにしかできない。箱根で優勝すると決めて早稲田に入ったから、そこは曲げたくないんです。例えば目標が3位だからといって妥協していいというわけではない。優勝を目指して取り組むことが大切だと思っています」。鈴木が「学生駅伝二冠」を公表してから、個人のSNSに批判的な意見も届いたという。そういう反応があることも想定していた鈴木は、これからもひるむことなく突き進む。

鈴木自身、大学に入るまで箱根駅伝をあまり意識していなかったという。1年生の時に初の箱根駅伝を前にしてメディアからの取材が殺到し、いざのその舞台に立ってみると沿道を埋め尽くす観客、耳鳴りがするほどの歓声に圧倒された。「これが箱根駅伝なんだなと思いました」。3度箱根路を走ってきた鈴木が箱根路を走れるのはあと1度だけ。これまで味わってきた悔しさや苦しさも力に変え、伝統校の意地を見せる。

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