アメフト

東京大学と王者・関西学院大学の知られざる深き縁 いつか甲子園ボウルで対決を

東大の初試合となった日体大戦後のチーム写真。前列左から3人目が米田満さん(提供・東大アメリカンフットボール部)

6月12日、快晴の神戸・王子スタジアム。甲子園ボウル4連覇中の関西学院大学と、関東大学1部TOP8に所属する東京大学の交流戦があった。両校が対戦するのは1964年の新人戦、66年の交流戦に続いて56年ぶり3度目のことだった。試合は総合力で勝る関学が31-7と快勝した。今回の対戦が実現したのは、2021年の東大ウォリアーズのイヤーブックに掲載された一本の記事がきっかけだった。あまり知られてはいないが、王者関学と東大の間には深い縁があった。

駒場キャンパス内の掲示板に「創部宣言」

東大アメフト部の50年誌を開くと、3代目までの監督がすべて関学アメフト部のOBだ。1957年の初代が丹生(に・ぶ)恭治さん。東京新聞社と共同通信社に勤務し、アメフト記者の草分けとなった人。58年が米田満(みつる)さん。関学で教壇に立ちながらファイターズの監督を11年間務めた。59年が鈴木智之さん。米田さんの愛弟子でクオーターバック(QB)として活躍した。3人ともすでに亡くなっている。

昨年の東大のイヤーブックに載った記事のタイトルは、「ターニングポイント【ウォリアーズの転換点】」だ。1957年に部を立ち上げた市川新(あらた)さんへのインタビューを元に、東大アメフト部の草創期を描いている。50年誌からの情報も交えながら、まとめてみる。

都立戸山(とやま)高校でタッチフットをプレーしていた市川さんは、入学した東大でもフットボールを続けたいと考え、1957年11月下旬に駒場キャンパス内の掲示板にアメフト部の創設宣言と入部案内を貼り付けた。ビラに記載した教室で入部希望者を待っていると、一人の学生が訪ねてきた。

「関西学院高等部のフットボール部でマネージャーをしていた者ですが、よかったらマネージャーをさせてください」。関学高等部から東大工学部へ入っていた小宮太郎さん(86)だった。この出会いが東大アメフト部の歴史をグッと前に動かすことになる。小宮さんは帰り際に言った。「関学の大学の監督をしている米田満さんという方が、来年1年間、東大に国内留学されることになってます。コーチをお願いしてはどうですか?」。名門関学の監督に教えてもらえるかもしれない。市川さんは関西へ赴いて米田さんに会い、コーチ就任を依頼した。

草創期のユニフォーム姿で。前列33番が市川新さん(提供・東大アメリカンフットボール部)

米田さんが紹介した四つの理念

翌58年4月、30歳の米田さんが教養学部の研究生として東大へやってきた。部には新入生が5人入り、試合ができる最低限の人数は確保できた。6月20日に日本体育大学と最初の試合をすることになった。直前に市川さんの後輩である戸山高校のタッチフット部員たちが練習に参加してくれた。試合当日のミーティングで、監督となった米田さんはフットボールをするにあたっての四つの理念を紹介した。

「Burning Desire」(燃えるがごとき闘志を持て)

「Faithful to the Assignments」(任務に忠実に)

「Reliance on the teammates」(チームメイトを信頼せよ)

「Never Give up until the whistle」(審判の笛が鳴るまであきらめるな)

これらはその後のチームの基本理念になった。そして全員が集まるギャングタックルを貫こうと声をかけた。米田さん自身も選手として出場し、東大は12人で戦った。大半のプレーで米田さんがまずタックルに入り、教えの通りほかの選手たちがギャングタックル。米田さんは選手が重なった一番下から立ち上がり、チームメイトたちを「ナイスタックル」と励ました。後半に二つのタッチダウン(TD)を許し、0-14で負けた。

6月の交流戦のハーフタイムに、関学側から東大側へ米田満さんが持っていた初代ユニフォームの寄贈式があった(これ以降は撮影・篠原大輔)

記事を読んだ関学側が、東大に試合を打診

10月には駒場の同窓会館で1週間の合宿。米田さんは50年誌に「渾然(こん・ぜん)としたチームワークが見えてきた」と記している。12月13日に成城大学と戦い、21-0と快勝。この試合は初めて揃いのユニフォームで臨み、米田さんは50番をつけてQBをした。

翌59年春、米田さんが関学へ戻るのに合わせ、関学で合同合宿。厳しい練習で地力をつけた。5月の連休にも関西に遠征し、前年度関西2位になった甲南大学に14-13と大番狂わせの勝利を挙げた。その翌日には西宮球技場で京都大学との第1回定期戦に臨み、21-0と完勝した。この活躍が認められたのだろう。この年、関東学生連盟への加盟が認められ、まずは2部からのスタートとなった。

こういった内容の記事を東大のイヤーブックで読み、関学ファイターズの小野宏(ひろむ)ディレクターは大村和輝監督に「来年の春に東大とやれないか?」という話をした。対戦が決まり、小野さんは真っ先に伝えたかった人に連絡を取ろうとした。小野さんが都立戸山高時代、アメフト部の監督だったのが、東大アメフト部を立ち上げた市川新さんだったのだ。しかし市川さんは今年2月に急逝。喜ぶ声は聞けなかった。

その代わり、6月12日の王子スタジアムに小宮さん、市川さんの長女の金谷理子さん、米田さんの長女の堀田悦子さん、そして2016年まで12年にわたって東大のヘッドコーチを務めた関学の名セーフティー(SF)細田泰三さん(故人)の妻である松枝さんらを招いた。試合後、神戸市内で東大、関学の関係者を加えて懇親会を開いた。そこでのみなさんの言葉には、数々の貴重なエピソードが含まれていた。

関学ファイターズの小野宏ディレクター

小野宏さん
「僕が都立戸山高校に入ったときには、市川さんが監督だったんですけど、監督がおられるという意識もあんまりなくて。コーチもいないから好き勝手にやれる環境にあったんです。入って1週間か2週間ぐらいのときに、市川さんが土曜日に来られて、僕がキャッチボールをしてたんです。僕は中1のときの親友がアメリカに引っ越して中3で帰って来て、みんな春に部活を引退して時間があるからタッチフットみたいなものをやって遊んでた。僕は卓球部だったんですけどね。それでQBが1人、あとはレシーバーみたいなので右往左往して何とか投げると。多少は投げたことがあったんで、それを見て市川さんが『君、QBやりなさい』とおっしゃって。それから45年間フットボールに携わってます」

「戸山を卒業後に僕が関学に行って、朝日新聞の記者になったころは、市川さんは関東学生連盟の理事をやったり監事をやったりされていました。東大アメフト部では事故死もあったんで、安全対策のことをされていて、ずっとつながってました。僕が朝日新聞をやめて関学に戻ったんですけど、市川さんの娘さんの金谷さんが関学の近くにお住まいで、そこに来られたときには大学に顔を出していただいて、昼ごはんを一緒に食べたりしてました。最後は2018年の5月に来られることになったんで、食事をすることにしました。そしたら日大の問題が起きて、その当日が一回目の記者会見の日になった。僕も慌てて準備をしてたんですけど、市川さんが来られたんで、いったん準備を切って、「いまから記者会見なんですよ」と言ってランチを食べました。『あれはいかんね』なんて話をして。それ以外でも戸山のOB会とか試合会場で会ってはいろんな話をしていただいてました」

「東大のイヤーブックを読んで、初めて小宮さんのことを知りました。みんな米田先生のことは知ってても小宮さんのことは知らなくて。だから僕は市川さんや小宮さんに試合に来ていただいて、夜はいろんな思い出話を語ってもらおうと思ってたんです。だから『東大とやることを考えてほしい』と監督に言って、監督が東大の森(清之)ヘッドコーチに連絡して、試合ができるようになった。それで僕が喜んで市川さんに報告しようと思った矢先にお亡くなりになられて。それで僕もつらくて、でも会は開きたいということで。奥井常夫OB、梅田一夫OBにいろいろ連絡してもらってこういう会ができたというのは、感激でした。ありがとうございます」

小宮太郎さん

小宮太郎さん
「僕の記憶では最初の1ページ目はこうです。東大の駒場に学生の集まる噴水広場がありました。そこに掲示板があって、市川君が便箋か何かに『フットボール部をつくりたいから、興味ある者は○○教室に集まれと。そこを訪ねて行くと、市川君だけがいた。それまでに何人か来たらしいんですけどね。7人ぐらいしか来なかったです。11人でやるゲームを7人でどうやるんだという話になったんですけど、新入生が入るまで待とうやということで、みんなで練習して。そのときかな。丹生さんが東京のマスコミに務めておられて、ボランティアで面倒を見てくださった。冬場の寒い駒場のグラウンドをみんな走ってるときに、丹生さんが確か、立って見ておられた」

「米田先生に指導をお願いに行ったのは、市川君ですね。僕は『米田先生が国内留学で東大に来る』という話をつないだんですよ。市川君は『それはすごい』ということで。学生時代に名を挙げた米田先生が東大に勉強に来られる、これはまたとないことだと。僕のたまたまのおしゃべりでね。あとはもう市川君の個人的な努力で関西まで行って先生にお願いしたと。それは彼から聞きました」

「当初は部としては認められないと。予算をつけて部室を与えるなんてできないということで、春までの間は部屋もないしロッカーもないから着替えられないわけですよ。僕のメインは写真分科会、写真部ですね。そこで活動してたもんですから、暗室なんかのある広い部屋がある。まあ7人ぐらいですから、そこでロッカーはなくても、フックにシャツを引っかけてジャージに着替えて、運動をしてる間置かせてもらうと。そういう関係が冬の間は続いたと思います」

6月の交流戦のコイントスに登場した小宮太郎さん(中央)

「米田先生が体育学の国内留学で駒場の加藤(橘夫)先生のところへ留学されて、確か日本のアメリカンフットボールの歴史というものを研究された。4月になると新入生が駒場の安田講堂というところにドッと来るわけです。2千人ぐらい。入り口から地下通路を通って講堂に入ってくる。その地下通路の階段のところで各運動部が獲得合戦をするんです。ボート部とアメフト部で引っ張り合いになってね。そうやってるうちに7人だったのが10何人になってね。ちゃんと試合はできるぐらいになった。第1試合は日体大とやりました。その創部メンバーはもうだいぶ亡くなった人もいるんですけど、市川君が今年亡くなったというのは突然のことでびっくりしました。タイミング的には米田先生が国内留学に来られて、それが非常に大きなドライブになったというのは、非常にありがたいことだと思います」

「たしか1959年に関西遠征をしたときの戦績がよくて、それが実績と認められた。すぐに(東大の体育会にあたる)運動会に入れてやる、と。そうしてスタートが非常によくなったのも、米田先生やなんかのご指導と部員の切磋琢磨(せっさたくま)が、割合早くに実ったからです。僕はそのころはもう、ほかの活動が忙しくて、両方に不義理になるから一つ(写真部)に整理したんですけど、最初はかなり深い縁ができたようです」

「そういう縁があるから、しばらくは(マネージャーとして)応援したというか。昔は貧しかったし、防具が手に入らなかったんですよ。そしたら立教大学に使い古しの防具がいっぱいあると聞いたんです。交渉して、行きました。僕と2、3人の人でリヤカーを引いて、渋谷区の駒場から豊島区の上板橋まで行って。板塀の大きな倉庫の中に、崩れてきそうなぐらい山積みになった防具があって、『どれでも持っていけ』と。何十、何百ですよ。リヤカーに山積みにして持って帰ったけど、今度はそれを置く場所がない。スチールロッカーだけは運動会から割り当てられていたので、その上に山積みにして。高いところにそれをのせるんですけど、僕は背が小さいから届かない。市川君は背が高いから、ひょい、ひょいとのせていました」

堀田悦子さん

堀田悦子さん(米田満さんの長女)
「よくウチに学生さんが訪ねてこられて、ファイターズのみなさんも来られるんですけど、父はいかに東大の50周年の式典がすばらしかったかをとうとうとしゃべって、『やっぱりすごいわ。立派な式典だったし、スピーチもすばらしかった。東大はやっぱり賢いわ』と言ったあとに慌てて『みんなも賢いけどな』って。それを何回かやってたのを私も見た覚えがあります。東大の1年間については私も詳しく聞いていないんですけど、とにかく父にとっては『充実して、ようやった1年やった』と。論文を仕上げることと、東大のフットボールの指導と、東京でアジア大会があって、神戸新聞の記者として取材をして、それもよかったと。東京には寄席がたくさんあるから、落語もすごく聴いたそうです。どれだけ時間があったんだ、って感じですけどね。たった1年の付き合いだったんですけど、のちに市川さんと毛利さんが一緒に来られて甲子園ボウルを一緒に見たりとか、晩年になっても伊豆の旅行に行ったりとか、つながりがずっと続いて、本当にありがたいと思っています」

金谷理子さん

金谷理子さん(市川新さんの長女)
「私たち家族は試合を見に行ったこともほとんどありませんし、私自身は大学時代に父からチケットをもらって、確か49ersとどこかがやった試合は見たことがあるんですね。ただ日本の大学の試合は『たぶんつまんないだろう』と思って、見てなかったんです。父は1957年に東大で創部して、ずっとアメフトをやってきたみたいな感じなんですけど、とくにそんなに父が私たちのそばにいない記憶もないんですね。戸山にもずっと行ってたと思うんですけど、夏休みは長野県の菅平へ一緒に行ってましたし。ほんとに家族はフットボールのことを知らないまま過ごしてしまいました」

「今回お話をいただいて、本来は父が来られたらよかったんですけども。それで私が来させていただいて、母にもいろいろ聞いてみました。父は2年浪人して東大に入りました。母はお茶の水(女子大)に通ってまして、1年生同士で、入学した秋ぐらいに知り合ったそうなんですね。だから創部のことも知ってるんじゃないかと思ったんですけど、母は『ほとんど知らない』と」

「唯一関わりがあったのは、当時は戦後12年ぐらいでモノもない時代ですよね。練習で着るTシャツもなかったそうなんです。それでアメリカ軍の払い下げのところに行って、もらってきたらしいんです。アメリカ人の体格ですから大きすぎて、父方の祖母が、みんなの分をせっせと縫い縮めてたらしいんです。祖母は社交的な人だったので喜んでやってたらしいんですけど、余りにも数が多いので手に負えないということで、父は『縫ってくれる人を探しなさい』と言われたらしいです。その当時は安保なんかがあったけど、父はアメフトで忙しかったんでしょうね。ほとんど活動はしてなかったみたいです。当時は渋谷の喫茶店なんかに行って、15、6人で安保の話なんかをしてるのがコンパだったそうです。そのうちの何人かは市川の家にも行ったそうなんですけど、縫うのを手伝ったのはウチの母だけで。ほかはみんな逃げちゃった。だから練習着を縫ったことはあると言ってました。当時は女子学生がスポーツの応援に行くなんてのもなかったみたいで、ウチの母は一回もフットボールを見たことがないそうです」

細田松枝さん

細田松枝さん(細田泰三さんの妻)
「思い出というと私は泣いちゃうんですけども、海外旅行にも行ったことがありません。ゴールデンウィークは「頑張るウィーク」と申しまして、だいたい春の練習。夏休みもなくて、どこにも連れて行ってもらったことがなく、合宿所です。それこそ東大の長野県飯山市の斑尾高原が私のすごく思い出の場所で、涼しい斑尾高原のさわやかな道を、もうボロボロに疲れた選手のみなさんがゾンビのように歩いてる。それで戻ってきて元気よくごはんを食べるという感じで、それを見るのがまた楽しくて。いつも違うコテージに泊まらせていただいて、練習を見ながら、すごく楽しい時間を過ごさせてもらいました。主人はたまに息抜きに「大丈夫か」とか言いながらやってきて。もう真っ黒に焼けてました」

「とにかく夢が『いつか、いつか東大が関学と』で、『絶対に勝てるはずだ』と常々言ってまして。学生のコーチをするのが夢だったみたいで、家族会議もなく勝手に話を進め、でもご縁があって東大のみなさまとやらせていただいて、12年も。三井住友銀行の支店長をやりながら、西への転勤は全部断りまして。ひたすらずっと東京にいて、大好きなフットボールで最後まで終えたので、幸せ者だなと」

「東大のみなさんには、最後ご迷惑をおかけしたかもしれないんですけど、『ほんとにもう東大の選手は素直だから、1回入ったらスッといくから絶対に勝てる』と言いながらやってました。12年やらせてもらって、私たちには子どもがいないんですけど、ほんとに1年生から4年生、社会人へとみなさん立派になられて、あんなに細い体がこんなに大きくなるんだと、子どもを見るような目で『けがをしないように』と思いながら観戦に行かせていただいて。また本郷の練習も楽しく見させてもらいました」

東大は甲子園ボウルに出たことがない。いつか関学と戦えるか

東大・三沢英生監督
「今日の試合について、OBの反応はまず『なんで関学とできるんだ』ってことでした。そして経緯をOBや現役の選手たちにも話して、その重みを分かった上で試合に臨ませていただきました。本当にありがとうございます。正直、今回の件がなければ、ここまで創部当時の話は知りませんでした。当然、市川さんの名前は存じ上げていましたし、私が監督をやるとなったときは『お前がやんのかよ』と市川さんに言われたのが、一番記憶に残ってます」

「先ほどからのみなさんのお話を聞いて、涙が止まらないというかですね、言葉にならないです。そんな感動をたくさんいただきました。自分自身が大学に入るとき、フットボールをやる気はなく入ってきました。私は中高テニス部なんですね。それで大学に入って部に入ったのも5月ぐらいで。ふわふわっとした感じで入ったので、いま、あのときだましてくれた先輩に感謝するというかですね。ぜひ、また(試合を)やらせてください。ライバルなんて言うのは100億年早いんじゃねえかと思われるかもしれないんですけど、いつかお互いにいいライバル関係になるという状況をつくりたいと思っておりますので、長い目で温かく見守ってください」

関西学院大・大村和輝監督
「今日またいろんな話をしていますと、縁があったんだなという風に思ってます。関学と東大が頑張るのはもちろんなんですけど、フットボール界を盛り上げるためには京大と関学で関西が盛り上がって、いまこのご時世で盛り上がるには東大が頑張るしかないと正直思いますので、東大がもし、もしじゃないな、間違いなく関東で勝って甲子園ボウルに出てくると、これまた一大ブームが起きるんじゃないかと思いますので、そこでまたいいゲームができたらいいなと思います」

関学に息づく「奉仕のための練達」

関学の大村監督は最後にぽつりと言った。「それと改めて、関学の先輩方はMastery for Serviceを実践されてきたんだなと思いました」

関西学院のホームページによると、「Mastery for Service」は学院のスクールモットーで「奉仕のための練達」と訳され、隣人・社会・世界に仕えるため、自らを鍛えるという関学人のあり方を示しているという。東大アメフト部草創期における関学関係者の行動に貫かれていたのは、まさに「Mastery for Service」の精神だった。

米田満さんは東大アメフト部の50年誌に「思い出」と題した文章を寄せている。その文章は、こう締めくくられる。

東大のOB会の中には数多くの日本のリーダーがおられる。どうぞ、いつまでも“初心忘るべからず”。東大グラウンドの土の上に君たちの原点がある。

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