高槻高校を3度のアメフト関西王者に導いた依藤容直さん退任 商社マンから物理の先生に
今年3月、高校アメフト界の個性派監督が静かにフィールドを去った。大阪府高槻市にある私立中高一貫の進学校、高槻中学校・高校で1998年から24年間にわたって物理を教え、中高のアメフト部を指導した依藤容直(よりふじ・ひろなお)さん(55)。2004年春に高槻高を初めて関西大会に出場させ、その後3度、春の関西王者へと導いた。「ヨリさん」と慕う教え子たちは北海道から九州まで、さまざまな大学や社会人のチームでプレーを続けている。依藤さんが大学時代には考えもしなかったという人生について、語ってもらった。
京大では裏方、卒業して「もっとできたんちゃうか」
依藤さんは退職後も学校の近くで暮らしている。独身で、とりあえずは新たな職には就かず、週末は兵庫県西宮市内の実家に戻って両親の世話をしている。なぜやめたのか聞いてみた。「中高生と一緒にやっていくのは楽しかったです。10年ぐらい前までは生徒にも教師にも比較的自由があったけど、それがどんどんなくなってね。少子化の中で生徒を集めないかんから、学校としては親の言うことを全部受け入れて、面倒見のいい学校にしたい。その上でいかに難関校に合格者をたくさん出して受験生を集めるかしか考えてない。それが学校をやめた最大の原因ですね」
ラ・サール高校(鹿児島)から1986年春に京大工学部の航空工学科(当時)に進学。アメフト部ギャングスターズに入った。2学年上が「怪物QB」と呼ばれた東海辰弥さんたちの代で、依藤さんが1、2回生のときに続けて甲子園ボウルに勝ち、社会人とのライスボウルにも勝って日本一となった。京大の2度目の黄金時代だ。依藤さんはディフェンスの選手だったが、試合に出るメンバーにはなれず、もっぱら京大オフェンスの仮想敵として日々を過ごした。3回生の夏合宿で大けがをして、秋のシーズンはアウト。このシーズンは関西学院大学に負けて甲子園ボウルに出られなかった。4回生になるとひざを痛め、学生最後の秋のシーズンもアウト。そこからは練習のビデオを撮ったり、仲間にテーピングを巻いたりと裏方に回った。
「当時はいろんな仕事をすることでチームに貢献できるなら『まあええわ』と思ってました。でも卒業してから『もっとできたんちゃうか』っていうのがあった。何が何でも必死こいてリハビリして、たとえ1プレーだけでも出られるようにすべきちゃうかったんかと。4回生のときは、もう諦めてたんやと思うんです」。1、2回生で日本一になった一方、最上級生になった4回生の秋は関西学生リーグ1部で3勝3敗1分けで終わった。
「会社やめて1年で教員免許取ります」
1年留年して、大手総合商社の丸紅に入社。「バブルやったんでね。親父も商社で、商社ならいろいろあるし、まあええかなって。夏のクソ暑いときに何回もスーツ着て就活行くのも嫌やし、あんまり深く考えずに決めたら失敗でした」。入社してすぐ、自分は金もうけに興味がないことに気づいた。「これは向いてないぞ」と思いながらも、次にあてがある訳でもない。油圧ショベルを韓国や中国へ輸出する仕事に関わっていた。一方で前述のようにアメフトには「やり残した」感があり、週末はちょくちょく京大の農学部グラウンドへ顔を出していた。
社会人6年目となり、「あと1年で会社をやめる」と決めた。ちょうどそのころ、京大アメフト部の後輩から「高槻高校がアメフトを教えられる先生を探しているらしい」と聞いた。「いやもう、渡りに船でしたわ。高槻に面接を受けに行って、『会社やめて1年で教員免許取りますから』って。それで転職が決まりました」。1997年春に退社し、教職課程の講義を受けるために京大へ。ほぼ毎日、農学部グラウンドへも行き、後輩に指導するとともに、同期の藤田智コーチ(当時、現・富士通シニアアドバイザー)から最新の戦術や技術を教わった。教育実習は高槻高校でやった。
物理の教諭にはなったものの、もちろん大学を卒業してから一切勉強などしていない。「初年度に高2に入れられました。これが高槻史上、京大に最多の合格者を出した代でね。むっちゃんこ勉強するヤツらの中に放り込まれて、そらもうこっちも必死で勉強しました。教科書読みまくって。でも最初のころに教えたヤツらには『下手な授業しやがって』って思われてるでしょうね。5年ぐらい経ったらそれなりになって、後半の10年は高2と高3しか持ってないから、毎年同じことやからね。意外と授業やるのは好きでした。クラブの練習と授業は好きで、それ以外の仕事は大嫌いでしたね」
2004年、初めて春の関西大会に進出
高槻高校のアメフト部は当時、選手だけでやっているような状態だった。依藤さんは監督になるにあたり、春の関西大会出場を目標にすることにした。高校アメフトには春と秋のシーズンがあるが、進学校の高槻は高3の春で部活動を終える。その集大成の時期にある関西大会には、約15校が参加する大阪大会で3位に入れば出場できる。春は関西大会の先はなく、愛知から広島までの地域でプレーする高校生フットボーラーにとって、春シーズンの最高の舞台だ。
とはいえ、自分の知っているフットボールを高校生向けに変えていくのには時間がかかった。まともに勝負できるチームになったと思ったのが、6年目。初めて中1からアメフトを教えてきた生徒が高3になったときだ。しかし関西大会出場はならず。その翌年、2004年春の関西大会に大阪3位として初出場を果たした。2回戦で関西学院(兵庫1位)に21-56で負けた。「6、7年目は『高校生向けには、こんな感じでいける』という形ができたころです。やんちゃなヤツも多くて、こっちも10年前ぐらいまでは正直言って、手も足も出てました。『ついていかれへん』ってやめた子もいました」
8年目の2005年は初めて大阪1位で関西大会に出て、決勝進出。3-27で関西大倉(大阪2位)に負けたが、新たな一歩を踏み出した年だった。RB兼LB兼Kで活躍した又賀代輔が敢闘賞を受けた。
当初は技術や戦術を教え込むのが大事だろうと思っていた依藤さんだが、すぐに、もっと大事なことがあると気づいたそうだ。「高槻みたいな学校でも、まじめにやる子と適当にしかやらん子に分かれる。絶対に。僕が来る前までは、その二つのグループがケンカして空中分解してたんやと思います。それで、『関西大会に出る』という現実的な目標を決めて、そのために何をしないといけないか、彼らに考えさせた。そうすると、まじめにやってる連中がそうでないヤツらをちゃんと練習するようにさせて、一つの方向へ向くようになったんです。生徒の考えたものが甘ければ、『いやいや、ここまでやらなあかんで』と手をさしのべる。その過程がおもしろかったし、ある程度方向性を示してうまくいったときは『やっててよかった』と思いました。最後の10年は結局、組織マネジメントをやってたようなもんでしたね」
3度目の関西大会出場は2009年。初戦で北大津(滋賀1位)に7-14で負けた。翌年は関西大会が第40回の記念大会。大阪の5位で出場したが、また初戦で同志社国際(京都2位)に18-21と敗退。2012年は準々決勝で立命館宇治(京都1位)を24-21で下したが、準決勝でエースRB西村七斗(現・オービックシーガルズ)を擁する大産大附(大阪1位)に21-26で負けた。
「負けていった卒業生のため」の関学戦
大阪1位で勝ち上がった翌2013年は、依藤さんが初めて「優勝できる」と思って臨んだ関西大会だった。のちに関西学院大へ進んだ長身QBの百田海渡らが3年で、2年にもRB兼LBの植木宏太郎や、OL兼DLの草野裕哉ら身体能力の高い選手がいた。しかし初戦の立命館宇治(京都1位)戦で20-21と競り負け。「このへんからはメンツがよくなってきて、関西大会は出て当たり前、どうやって関学に勝つかを考えてました。関西大会で当たるまでは関学に見せるプレーだけして、その裏プレーを関学にぶつけるつもりでした」
そして迎えた翌2014年の春、プレーを隠しながらも大阪1位で関西大会へ進んだ。初戦は南山(東海1位)を45-0、準決勝は関西大倉(大阪3位)を34-0で下し、関学(兵庫1位)との決勝だ。依藤さんはこの試合を「これまで負けていった卒業生のための試合」と位置づけていた。ディフェンスのサインを書いた紙の裏に、これまで自分が関わって卒業した全アメフト部員の名前を書いて臨んだ。選手たちには試合前に「いままで負けて悔しい思いをしたOB全員の気持ちも背負ってプレーしてくれ」と伝えた。23-14で初優勝した瞬間に大泣きした。
2015年も大阪1位で春の関西大会に臨み、関学(兵庫1位)との決勝を迎えた。「あの年は、これで引退していく3年生を勝たせたいという気持ちでした」と依藤さん。13-7とリードして試合時間が残り2分を切ったところで、自陣20yd付近まで攻め込まれた。タッチダウンとキックで逆転される。依藤さんはオフェンスに時間を残すために3回とも残っていたタイムアウトを使うかどうか悩んだ。しかし「時間が残ってパントを蹴ったら絶対に負ける」と、タイムアウトを取らずに関学に時間を使わせ、ディフェンス陣を信じた。その結果、DL兼RBの仲瀬正基(現・アサヒビールシルバースター)がQBサックを決めた上にファンブルさせ、自らリカバー。ワンプレーですべてをひっくり返し、時間をつぶして春の関西大会2連覇を達成した。
登校したらまず、旧帝大の入試問題を解く
2017年は大阪2位で出て、準決勝で啓明学院(兵庫1位)と対戦。最終盤に逆転され、1点差で負けた。このときの高3は身体能力に優れた選手は少なかったが、必死でアメフトに取り組んでいるのが依藤さんにも伝わっていた。だからこそ、関西大会決勝の舞台に立たせてやりたかったという。「あの負けがほんまに悔しくて、ここから1年はもっと頑張りました」と依藤さん。
このころ、依藤さんの1日はこんな感じだった。朝6時に登校し、がらんとした職員室で旧帝大の物理の入試問題を解く。どんなに難しい質問をされても答えられないことのないように、この朝の時間を活用して勉強した。「生徒の中で先生のランク付けがありますから。『あの先生に質問してもムダやから、塾に持っていこう』とならないように、よう勉強しました」。授業が終わるとアメフトの練習。ここ数年は午後6時に下校させないといけなかったため、5時半には練習を終えた。ここからが忙しい。練習の内容を撮影したものを見返し、いいプレー、悪いプレーについての指摘や改善ポイントについてのコメントを映像分析ツールに入れていく。これを遅くとも7時までに終え、生徒たちが帰りの電車内でチェックできるようにしていた。
そして迎えた2018年の春。高槻の主将は、いま立命館大学4回生の水谷蓮。当時から身長184cm、体重102kgと大きく、TE兼DLとして大学生のような力強いプレーをしていた。RBには当たりが強く、一線を抜けると独走してしまうスピードも持つ斎藤大嗣(ともに3年)がいた。大阪3位で関西大会に進むと、42-0、55-10と圧勝して準決勝進出。ここで箕面自由学園(大阪1位)に28-6と快勝し、また決勝で関学(兵庫1位)と戦うことになった。
13-3と高槻リードで迎えた、前半残り1分と少しからのオフェンス。依藤さんは「時間を流そうかとも思ったけど、人数の少ないウチは最後にバテて追いつかれるから、取れるときに取っとこう」と、点を取りにいった。高槻のオフェンスコーディネーターは、依藤さんが高槻をやめるまでの10年間をともに歩んだ杉原五典(いつのり)さん。広島出身で、大学時代は関学ファイターズのRBとして活躍した人だ。「前半残り1分から、これまでほとんど投げてなかったパスを決めて敵陣に入って、斎藤へのスクリーンパスで一発タッチダウン。あれは杉原先生のベストコールでした。ウチのレシーバーは『ワイドブロッカー』って呼ばれてましたけど、斎藤のためにほんまにようブロックしてくれたと思います」と依藤さん。予想通り後半に23失点したが、32-26で逃げ切った。試合後、依藤さんの両目から涙があふれた。
「親の面倒を見なアカン」拍車をかけた自身の大病
翌2019年の春も大阪大会3位で関西大会に進んだが、1回戦敗退。これが依藤さんにとって高槻高校監督としての最後の関西大会になった。「水谷たちの代で優勝したときに、やりきった感があった。学校がだいぶ変わってしもたし。ある先生から『クラブなんかより勉強が大事や』という言葉を聞いたときに、『もう無理や』と思いました。それに、自分自身が死にかけたし」
2020年4月、新型コロナウイルスの1回目の緊急事態宣言が出た日、依藤さんは病院の集中治療室にいた。その日は入学式で学校に行ったら呼吸がしにくく、階段を上り下りするだけで1500mを走ったあとのように苦しかった。病院に電話しても、どこも受け入れてくれない。ようやく「それはコロナじゃないと思うんで、来てください」と言われ、行ってみると「ウチでは手に負えない」。救急車で大阪医科大病院(当時)へ運び込まれた。「脳に血栓が詰まっていてヤバいです」「血栓を溶かす薬を入れますけど、最悪のことも考えられます」と言われた。妹に来てもらってICUで2泊、一般の病棟に10日ぐらいいた。いまも原因は分かっていない。
「コロナの前から、ぼちぼち親の面倒を見なアカンと思ってました。自分が死にかけたから、余計にね。西宮の実家に80代の両親がおるから、週の半分は家に戻って病院に連れて行ったりしてます」。大学時代は考えもしなかった教師という職業で、24年間も過ごした。「よう持ったと思います。アメフト部と関係ない親にも『先生、よう持ってますねえ』って言われてましたから」。チノパンにポロシャツ、パーカーで登校していると、スーツを着てネクタイをするようにとのお達しが出た。依藤さんは襟のあるシャツは着るようにしたが、最後までネクタイはしなかった。半年ごとに2人の教頭に挟まれて「ネクタイをしてください」「しません」の平行線。学校で浮いていたのは生徒も知っていて、授業でもそういう話がウケた。ネクタイをしたのは入学式と卒業式と学年集会のときだけだった。
歴代教え子たちからのサプライズ
教員生活の最後に、歴代の教え子からサプライズがあった。依藤さんが在籍した間の高槻アメフト部の歩みを振り返る冊子を作ってくれたのだ。オールカラーで約100ページ。昨年の夏ごろに退職を聞きつけた初期のOBが中心になり、依藤さんのアメフトを通じた教え子約200人からコメントや写真を集めて作った。今年2月、最後の登校日にアメフト部OBが50人ほどやってきて、この立派な「イヤーブック」をプレゼントされたという。依藤さんは私に取材を受ける場にこれを持ってきてくれた。「宝物です」。ヨリさんは、そう言って笑った。
関西大会に初めて出た2004年の3年生で、QBだった幸田謙二郎さん(36)は卒業後に関西学院大学ファイターズでプレーした。幸田さんは言う。「当時はしんどいことしかなかったんですけど、OBになると『あれも依藤先生の愛情やったんやな』としみじみ思うことが多いです。最初に関西大会で優勝した試合では初期メンバーの方々が作られたそろいのポロシャツを着て、『負けて悔しい思いをしてきたOBの気持ちを全部背負って戦った』ってボロ泣きでした。僕ももらい泣きして、『依藤先生の下でアメフトができてよかった』と実感しました。3回目の優勝のときは、週末だけコーチで関わらせてもらいました。優勝したあと、『(高槻に)戻ってきてくれてありがとう。助かったわ』と言ってもらえたのが、本当にうれしかったです」
依藤さんは柔和な表情で言った。「会社員ではできない経験をさせてもらって、ほんまに楽しかったです。高校と大学は違うけど、大学時代にやられた関学に関西大会決勝で3回勝てたのも、僕にとっては大きい」。いま、教え子たちは世界中に散らばっている。みな、依藤さんとの思い出を心のどこかに置き、日々を生きているのだろう。