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連載:4years.のつづき

早稲田大で一番印象に残っている試合は? 「2個あるんですけど……」斎藤佑樹・3

4年の秋季リーグ優勝決定戦で慶應義塾大を破り、胴上げされた(撮影・朝日新聞社)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。今回は、早稲田大学野球部で最後は主将を務め、北海道日本ハムファイターズで11年間プレーし、2021年シーズン限りで現役を引退した斎藤佑樹さん(34)です。3回目は早稲田大3年のとき、順調に白星を重ねていたのが一転、悩まされるようになった股関節痛を中心とした話です。

早稲田大で1年春から登板、六大学記録「48勝」が無謀と気づいた瞬間 斎藤佑樹・2

先輩や同世代のプロでの活躍に焦り

身長176cmの斎藤さんは、プロ野球選手として決して大柄なタイプではない。早稲田大に入学したときも、周りにいる野球部の選手たちは、自分より体が大きな先輩や同級生が多かった。加えて、第88回全国高校野球選手権大会の決勝で戦い、駒大苫小牧(北海道)から直接プロの道に進んだ田中将大(東北楽天ゴールデンイーグルス)は、2007年のプロ1年目から2桁勝利(11勝)を挙げていた。翌08年には、PL学園(大阪)から広島東洋カープに進んだ同級生の前田健太(現・ツインズ)が9勝。八重山商工(沖縄)から千葉ロッテマリーンズに入団した大嶺祐太も、1軍のマウンドで登板していた。

「先輩たちを見ていて、体が大きい先輩もいるし、球が速い先輩もいる。同時にプロ野球選手になった同世代で、すでに活躍している選手もたくさんいたので。僕にも焦りがあって、プロで活躍するためには、もっともっと体を大きくしないといけないし、筋力をつけないといけないと思ったんです」

プロ2年目のオールスター戦でセ・リーグを抑えた楽天の田中(撮影・朝日新聞社)

導き出した一つの答えが、2年の秋から3年の春にかけて、ウェートトレーニングをそれまで以上に強化することだった。ただ3年になると、投球時に左の股関節に痛みを感じるようになった。「原因ははっきりとは分からないんですけど、自分の投げたい形とは違うフォームになってしまった感じです」

一塁側に踏み出すことで、球筋も変化

右投手にとって左股関節は、左足を踏み出したときに多くの体重がかかる重要な部位だ。「感覚としては、踏み出した左足の真上で自分の体を回転させたいんですけど、左股関節の外側に、ちょっとがに股になるような感じで、体重が乗ってしまって。そこで軸が回ってしまったので、変な股関節の使い方をしていると」

左足を本来の踏み出したい位置で着地すると痛みを感じ、やや一塁側に左足がつくと痛みを感じなかった。無意識のうちに一塁側に着地するようになり、少しずつ投げる感覚がずれていった。

それでも球速は、140キロ台の後半をマークしていた。望ましくないバランスでの140キロ後半は、上半身にも余計な負担がかかっていただろう。球筋も変化していたと斎藤さんは振り返る。「ちょっと一塁側にステップするので、体が開いた状態になります。するとボールはシュート回転するし、バッターからもたぶん見やすいだろうし。本来は指にかかっているはずが、ちょっと抜けているということもありました」

チームを引っ張る、ファンを喜ばせる思いでマウンドに上がり続けた(撮影・朝日新聞社)

当時から抱いていたファンを喜ばせたい心

思わしくない投球フォームで投げているのは自覚していた。とはいえ140キロ後半の速球を投げ込めていたから、ある程度は抑えられた。そのジレンマというか、心身のバランスは、どのようにして保っていたのだろうか。

「やっぱり1年生のときから投げさせてもらっていましたし、(3年になると)自分がチームを引っ張らないといけない自覚もありました。山中(正竹)さんの記録(通算48勝)は、もう全然無理だったけど、勝ち星を重ねたいという目標もありました。そう考えると、『休むに休めないなぁ』というのはありました」

応援してくれるファンに、マウンドでの元気な姿を見せたいという思いもあったという。学生野球といえど、当時からファンを喜ばせたい思いが強かったのは、早稲田実業高校時代から、ファンの存在を身近に感じていたからに他ならない。

大学1年の頃から国際舞台も経験してきた(撮影・朝日新聞社)

みんなが「勝ちたい」と思える方向を示す

3年春は4勝2敗で防御率2.25、同年秋は3勝2敗の防御率3.08で、シーズンを終えた。直後、斎藤さんは主将に選ばれた。

早稲田大野球部の主将は当時、その年限りで野球部を離れる4年生と、最上級生となる3年生による投票があり、監督が決める。斎藤さんは、自分には1票を投じなかったそうだが、選出された。應武篤良監督からは理由について、こう告げられた。「1年からこれまでずっと投げ続けているのは、斎藤しかいない。だから、このチームを全部知っているのは斎藤だ。斎藤が投げて勝たないと、チームの優勝もない。だからこのチームを引っ張っていけ」

小中学校のときは主将を務め、高校では副将。選手たちの先頭に立つことは、嫌いではなかった。ただ歴史ある早稲田大の主将は、選手たちの思いも人それぞれだ。「100人以上もいるので、中には自分の就活のために頑張っている部員もいるかもしれない。でもそんな中でも、みんなが『勝ちたい』と思えるようなチーム作りというか、何となくの方向性だけは作っていけたらと思っていました」

最後の年は、春こそライバルの慶應義塾大学に優勝をさらわれたが、秋は雪辱を果たした。慶應義塾大に連敗を喫して勝ち点を落とし、50年ぶりとなる早慶による優勝決定戦までもつれ込んだ。斎藤さんが先発し、八回途中まで2失点で粘って勝ち星。4季ぶりとなる優勝を決めた。

最も印象に残る試合を尋ねると、早慶戦の2試合を挙げた(撮影・浅野有美)

大学4年間で最も印象に残った試合を尋ねると、斎藤さんが「2個あるんですけど、いいですか?」と聞き返し、続けた。「1個目は、1年秋の早慶戦で15奪三振をしたことがあって、そのときの感覚がすごくよくて、覚えています。2個目は4年の秋の早慶戦。八回までノーヒットノーランをしていて、すごくうれしかったですね」

同じ相手とはいえ、挙げた2試合での自身の立場は大きく異なる。1年秋は先輩たちに乗せられ、「お祭りの中」で投げている感覚だった。ただ主将で迎えた最後のシーズンともなると「何が何でも抑えてやるっていう闘争心みたいなものが全面的に出ていた」。特に後者の試合は、その2日前にあった早慶戦第1戦で敗れていただけに、思いも強かった。

引退時に言われた、應武篤良さんの教え「活躍は、これからだぞ」 斎藤佑樹・4

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