河川敷を歩き、たこ焼きを買う 甲子園期間に心がけた「リラックス」 斎藤佑樹・1
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。今回は、早稲田大学野球部で最後は主将を務め、北海道日本ハムファイターズで11年間プレーし、2021年シーズンで現役を引退した斎藤佑樹さん(34)です。1回目は早稲田実での激闘から、早稲田大に入るまでの話です。
松坂大輔さんのガッツポーズに憧れ
2006年、第88回全国高校野球選手権大会での激闘は、何年経っても、色あせることはない。8月21日。西東京代表の早稲田実と、南北海道代表・駒大苫小牧による決勝での延長再試合。4-3で早実が1点リードで迎えた九回2死。マウンド上の斎藤さんは、最後の打者になった田中将大(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)を空振り三振に仕留めると、後ろを守っていた野手の方を振り返り、両腕でガッツポーズを作った。
「小学校4年生のときに、(当時横浜の)松坂大輔さんが甲子園で優勝している姿を見て憧れました。『僕もいつか甲子園で優勝したい』って。あの松坂さんの姿が、脳裏に焼き付いていました。だから自然と、ああいうポーズが出ましたね」
群馬県太田市出身の斎藤さん。野球を始めたときは、将来プロ野球選手をめざすことは、意識していなかった。一番の目標は甲子園で優勝することであり、その先の目標となると、神宮球場で早稲田大学のユニホームを着て、早慶戦のマウンドに上がることだった。プロの世界は、それらをクリアした先にある「いつかの目標」という位置づけだった。
自分をよく見せようと思うことが緊張に
甲子園出場を決め、関西にやってくると、各チームは近辺の野球場で2時間の練習が割り当てられる。斎藤さんにとって、この練習は「ご褒美の時間」だったと振り返る。「2時間の練習、すごく良くないですか? いい感じの短さでリラックスして練習できたという印象です。大会期間中だから良かったんでしょうね」
滞在していた宿舎でも、リラックスを心がけた。「仲間とちょっと出かけたり、近くの河川敷で散歩したり、部屋で話したり、昼寝したり。近くにたこ焼き屋さんがあって、そこに買いに行くのが、ちょっとした楽しみでもあったんです」。ただ、勝ち上がるにつれて、周囲からの注目度も高まり、チームも連戦が続いた。次第に外に出る機会も減っていった。
準々決勝の日大山形戦から決勝再試合までは、4連投となった。中でも一番いい感覚で投げられたのは、準決勝の鹿児島工戦だったという。「ととのってましたね。勝ちたいという焦りもなかったし、体がいい具合で疲れていたので。『無理をして力を入れよう』とかがなかった。それが僕にとっては、いい方向に働いてくれたと思います」。決勝ともなると、「勝つということに対してだけ。目の前の試合に、すごく集中しているなという感じでした」。ロースコアで緊迫した展開が続き、気持ちが張り詰める場面もあったが、「自分をよく見せようと思うことが、緊張につながる」。自分をよく見せようとは、まったく思わなかった。それだけ相手打者との対決、狙った1球1球に集中していた。
地元に帰ってきたとき、優勝を実感
優勝決定の瞬間は、夢見心地な気分になる。「自分たちはすごいことをしたんだ」という感覚を覚えるのは、地元に帰ってきたときだ。斎藤さんは「母校に帰ってきたときに、地元の方たちが『わー!』って声援を送ってくれて、そのとき初めて感じましたね」。早実のような伝統校の初優勝だと、なおさらだろう。学校に戻ると、報道陣も多く駆けつけ、一人ひとり取材を受ける時間が設けられたという。「いつまでもこの時間が続いてくれたらいいな、と思ってました」
ただ、その翌日から気苦労も多い日々が始まった。甲子園で勝ち上がるにつれて、投球内容や結果だけでなく、ポケットからハンカチを出してマウンド上で汗をふく姿なども注目された斎藤さん。自分で電車に乗ることが困難になり、佐々木慎一部長が車で送り迎えをすることもあった。「当時の先生たちに、すごく迷惑をかけていたなと思いました。もちろん優勝できてうれしいですけど、周りとの温度感は、ギャップを感じていました」
帰京の翌日から、チームは国体に向けて、斎藤さんら高校日本代表に選ばれたメンバーはアメリカとの親善野球に向けて、もっと細かく言えば学力テストに向けて、気持ちを切り替えなければならなかった。
アメリカ遠征から帰国直後、進学を表明
斎藤さんは、その進路も注目された。決断は早く、日米親善野球のアメリカ遠征から帰国して3日後、和泉実監督らと一緒に記者会見に臨んだ。大きな結果を残しても、かつての思いは揺るがず、早稲田大学への進学希望を表明した。「校長の渡邉重範先生が、教育学部で授業を持っていたということもあって、教育学部を希望しました」
体育会系の部員が多いスポーツ科学部などではなかった。大学4年間で授業と練習の両立は大変だったが、先輩たちに助けられた。1年春の初戦から開幕投手を任された斎藤さん。東京六大学リーグでは、法政大学の山中正竹さんが打ち立てた金字塔「48勝」を、本気でめざしていた。