「週末ラガー」と3度の大学日本一、早大理工学部での5年間 GR東葛・瀧澤直(上)
1月に新たに始まったラグビーの新リーグ「NTTリーグワン」。DIVISION1(1部)の12チームの一つで、千葉県の東葛を本拠に新たな体制の下、スタートを切ったのがNECグリーンロケッツ(GR)東葛だ。その旗頭としてキャプテンに復帰したのが、アフロヘアーが特徴的な35歳のベテランPR(プロップ)の瀧澤直(すなお)だ。学生時代を振り返ってもらいつつ、新リーグへの思いを聞いた。前編は在学中に3度の日本一になった早稲田大学での学びなど。
新生グリーンロケッツの主将に復帰
新生GRは残念ながらロケットスタートといかず、戦った試合で勝利できない苦しい時期が続いている。だが、瀧澤主将は「すべてを改革していますし、ゼロからブレイクダウンして積み重ねていこうと考えています。(チームの)改革は始まったばかりなので、負けすら良い経験にしていきたい」と前を向いている。
瀧澤は愛知県小牧市で育った。小中学校時代、漫画「スラムダンク」の影響でバスケットボールに打ち込んでいた。高蔵寺高校でラグビーをしていた兄に「負けたくない」という思いや、身長170cm、体重92kgほどでの体格で「バスケに限界を感じて」いて、勧誘を受けたこともあり千種高校から競技を始めた。
花園はエナメルバッグ見守り
経験者はほとんどいないチームだったため、体重が2番目に重かった瀧澤は自然と左PRのポジションとなった。高校1年時、千種高校は3年ぶり2回目の「花園」こと全国高校ラグビー大会に出場したものの、ベンチ外だった瀧澤は先輩のエナメルバッグを持ってスタンドで見ていたという。
高校2年時、3年時は試合に出られるようになったが強豪の西陵商業(現・西陵)に予選準決勝や決勝で敗れて自身は花園でプレーすることはかなわなかった。その悔しい思いもあり、大学でもラグビーを続ける気持ちはあった。
国公立大学志望だったが、2つ上のキャプテンだった後藤彰友(現・トヨタヴェルブリッツGM)など3人の先輩がプレーしていたこともあり、早稲田大学ラグビー部が高校生を対象に開催する「サマースクール」に足を運んだ。早大に特に憧れはなく、高校でキャプテンをやっていた瀧澤は「強いチームから何か学べるかな?」くらいの軽い気持ちで参加したという。
成績優秀で推薦入学
そこで清宮克幸監督(現・日本ラグビー協会副会長)らと面談する中で、「理工学部の機械工学科しか進学するつもりはないです」「もし進学したらラグビー部の寮にいれてほしい」など話したという。結果、評定平均が4.5くらいあったという瀧澤は同学年内でも成績上位者で、早稲田大学理工学部に指定校推薦で合格した。
当時、常に優勝を争っていた早稲田大学ラグビー部の3学年上には佐々木隆道主将(現・横浜イーグルスコーチ)、先輩に矢富勇毅(静岡ブルーレヴズ)、五郎丸歩(静岡CRO)らがおり、同期には豊田将万主将(九州産業大学女子ラグビー部監督)らがいた。
ただ瀧澤は理工学部だったため、大学1~2年生の時、平日はほとんど全体練習に参加することができず、周りの選手からは「週末ラガー」と呼ばれていたほどだった。忙しい毎日を送る中で早大ラグビー部に入部して驚いたことがあるという。一つ上の有田幸平、同期の上田一貴両FL(フランカー)らの存在だった。2人は啓光学園(現・常翔啓光学園)が花園で3連覇、4連覇を達成した時の主将でもあった。
「僕は体重的には重い方だったのですが、有田さんや上田など自分より小さい選手にタックルで仰向けにされることが多かった。異常にタックル力のある選手が多かったのは早稲田らしいことでしたし、びっくりしたことの一つです。やっぱり強いチームのなんだなと思いましたね」(瀧澤)
「怖かったですが、清宮監督に気に入ってもらっていたのかな」という瀧澤は、週末しか全体練習に参加できない中でも1年時からAチームでメンバー入り。アカクロジャージーに袖を通して関東大学対抗戦や全国大学選手権にも出場した。ただ選手権決勝や日本選手権で大金星と言われたトヨタ自動車に勝利した試合には出場することはかなわなかった。
2年生になると中竹竜二監督が新たに就任。瀧澤は「中竹さんはもっと清宮さんよりも選手にこう自由にやらせてくれる人でした。特に3年生、4年生の頃は、選手たちがすごく自分たちでリーダーシップとってやれていたと思います」と懐古した。
格別な「4年生」でのV
後にNECで一緒にプレーする権丈太郎がキャプテンだった3年時、副将に就任した4年時は選手として中軸として大学選手権で連覇を達成した。「3年時の優勝は権丈さんがどんな苦労しているか近くで見ていたので嬉(うれ)しさはありました。ただ早稲田大学のラグビー部に入った限り、4年時に優勝するというのは目標、目的なのでやはり4年時優勝の方が嬉しかったですね」と正直に話した。
もちろん大学日本一に輝いた2試合も印象に残っているが、一番覚えている試合は4年時の大学選手権1回戦、当時、ライバルとしてしのぎを削っていた関東学院大に21-5で勝利した試合だった。関東対抗戦で帝京大に敗れて対抗戦の連勝が「53」で止まり、そこから巻き返すシーズンだった。
「関東学院大学が強いのはわかっていましたし、優勝を目標にしていましたが、4年生だったので、この試合に負けたら終わりという状況でした。スタンドを見たらメンバー外の選手が応援してくれていて、『あいつらの代表として試合に出ている』という言葉で、本当にタックルで一歩、前に踏み出せた。心が揺れた試合でしたし、誰かのために本当に頑張れた試合になりました!」(瀧澤)
3番になった5年目、一般就職へ
ただ、やはり理工学部の勉強とラグビー部の両立は難しいものがあり、3年生までに必修の単位を3つ落とし、4年生に上がることができず留年してしまった。「自分の中で、ラグビーと勉強とどっちとも中途半端になるのはよくないし、遅刻ばかりで迷惑かけてばかりいたので、親には迷惑をかけてしまいますが、4年生では副将にもなりましたし、学校のことを気にしないでラグビーをしようと思っていました」と振り返った。
5年生となり授業に専念しようと思っていたが、中竹監督に「プレーしたらいいんじゃない?」といわれてもう1年、プレーを続けた。左プロップから主に右プロップを任された。最終学年は対抗戦で優勝したものの大学選手権2回戦で初優勝した帝京大に敗れてしまい、瀧澤は一般就職も決まっていたことからトップレベルでのラグビーに終止符を打った、はずだった。