ラグビー

連載:4years.のつづき

いぶし銀が強くなる桐蔭学園高と伝統の慶應で学んだこと 東京SG・小澤直輝(上)

東京サントリーサンゴリアスのFL小澤直輝。いぶし銀のプレーは初代王者を狙うチームに欠かせない(撮影・斉藤健仁)

ラグビーの新リーグ「NTTリーグワン(LEAGUE ONE)」が1月に開幕した。これまでのトップリーグ(TL)を発展的に再編し、DIVISION1(1部)は12チームを2つのカンファレンス(組)に分けて初代王者を決める。注目選手に大学時代などを振り返ってもらい、新リーグへの抱負を聞く3人目は、東京サントリーサンゴリアス(SG)のFL(フランカー)小澤直輝(33)。11年目を迎えたベテランは今季も開幕から連勝中のチームを支える。前編は全国的強豪になった神奈川の桐蔭学園高から伝統の慶應義塾大学で学んだことに迫る。

桐蔭学園高で花園初の決勝へ

豊富な運動量と得意のジャッカルが武器の小澤は、昨季、最後となったTLで先発8試合を含む10試合すべてに出場した。決勝ではパナソニック(現・埼玉)に敗れたが、準優勝に大きく貢献した。その活躍が評価され、日本代表にも4年ぶりに招集された。

そんな小澤は神奈川県大和市出身。小学生の頃はサッカーや水泳に親しみ、中学受験を経て桐蔭学園中に入学した。周りの友達の影響で、なんとなくラグビーを始めた。中学時代はCTB(センター)だったが、高校に進学するとFWに転向。現在は全国的な強豪として知られる桐蔭学園だが、「僕らの頃は神奈川県大会の決勝で勝ったり負けたりでした」と県予選でも負ける試合もあった。それでも、2年生の時と3年生の時に花園(全国高校大会)に出場した。第85回大会(2005年度)は準決勝で大阪工大(現・常翔学園)をロスタイムに逆転、初めて進んだ決勝では伏見工(現・京都工学院)に12-36で敗れた。86回でもベスト4という好成績を残し、その後3度の高校日本一になるチームの道筋を作った。

第85回全国高校ラグビー大会で桐蔭学園は初めて決勝へ進んだが伏見工に敗れた(撮影・諫山卓弥)

大学は練習グラウンドが地元の神奈川にある慶大を選んだ。動物好きで獣医になりたいと考えていた時期もあり、もともと高校入学当初は、大学でラグビーを続けることは考えていなかったという。

だが、1学年上のLO(ロック)松本大輝(元慶應義塾大主将)、FL藤本啓太郎、PR(プロップ)廣畑光太朗(元九州電力)と3人が入部していたこともあり、「慶應大のラグビー部ってかっこいいな。ちょっと頑張ろうかな」と憧れを持ち、声をかけられたこともあって、AO入試で総合政策学部に合格した。

車の照明、慶大伝統の山中湖合宿

慶大のラグビー部は、他より厳しくはなかったと感じていたが、1年生は試合観戦時は基本的にまっすぐ立っていなければならず、「片方の足に重心がかかるような立ち方をしていたら、すぐに指導が入りました」と懐かしそうに振り返る。また、ラグビー部は試合のみブレザーだが、ラグビー部以外の体育会部員は授業でも学ラン着用が義務だったことに驚いたという。

小澤は入学当初、右腓骨(ひこつ)を手術してリハビリをしていたこともあり、ラグビー部の練習には1年の夏合宿から参加した。その夏合宿は、うわさには聞いていたが、やはり山中湖の合宿が「一番厳しかった」と懐古した。

「僕らの時は(合宿期間が)長くて、1年目の時は40日近くあった。その中で、シニアグレードは途中試合のために2週間ぐらい菅平に行きますが、他の選手たちはずっと山中湖で走っていました。さらに、 スクラムを本当に午後3時ぐらいから夜の8時ぐらいまで組み続けるんですよ! 施設も古くて照明もなかったので、練習の最後の方はバンのライトを照らしてやっていましたね」(小澤)

1年生の時、慶大は8大会ぶりに大学選手権決勝へ。五郎丸さんらがいた早大に敗れた。背番号18が小澤(撮影・林敏行)

大学入学時はLOとしてプレーしており、やはり慶大の伝統はタックルだということを体感した。「普段のタックル練習は、結構狭い幅で体を当てますが、慶大には、試合に出られる、出られないという基準とは別でタックルがやばい! という選手って何人もいましたね。 修猷館(高)出身で2つ上の「あちゃさん」(伊藤隆大)は本当に刺さっていましたね。フランカーの選手は基本的に本当に相手のすねぐらいにまっすぐにタックルしていました」(小澤)

ケガの影響もあり1年生の関東大学対抗戦は成蹊大戦で途中出場したのみだったが、全国大学選手権からメンバー入りするようになり、早稲田大学に敗れた決勝もリザーブから出場した。1年時は自宅から通っていたが、「神奈川県内と言っても(家、キャンパス、グラウンドの)三角形のように位置するので行き来が大変だった」ため、2年生から寮で生活を始めた。

早慶戦10年ぶりの勝利

2年時からレギュラーとしてコンスタントに出場するようになり、初めて早慶戦にも出場したが、特別なものではなく、勝たなければいけない一つの試合という認識だったという。その違いや重みを感じたのは、副将も務めた4年生になって。一番、記憶に残っている試合だという。

慶大4年生の時の早慶戦(2010年)で10年ぶりに勝利を挙げ歓喜に浸る(撮影・斉藤健仁)

「試合に出ていない4年の思いが積み重なっていました。僕たちの代は、すごい同期に恵まれていて、どのグレードでも4年生が頑張ってリードしてくれていた。だから4年生になって初めて強く早慶戦を意識しましたし、本当に特別な思いがありました」と話す。

その最後の早慶戦では、慶大はSO山中亮平(神戸)らがいた早大の攻撃をタックルで止め続けて10-8で10年ぶりに下し、全員で、スタンドで応援していた同期のもとへ向かって喜んだという。「慶應は一貫校なので、内部生も多いですが、同期は本当にまとまりがあったし、いい意味で慶應の強み、“らしさ”が出ていた試合でした」(小澤)

「理不尽」と「生涯の友」

小澤が慶大での4年間通して学んだのは「理不尽さ」と「生涯の友」だという。「自分の思い通りにならないような理不尽な経験をしたことが社会人にも活(い)きていますし、大学時代の同期は今でも試合に出ればメッセージをくれますし、どんな時でも応援してくれます。それぞれの世界で活躍する同期の姿は大きな刺激になっています」と語気を強めた。

国内最古1899年創部の慶大で多くを学んだ(撮影・斉藤健仁)

大学に入学した時、小澤の目には伝統の黒黄ジャージーが輝いて見えた。「やはり慶應大ラグビー部には長い歴史があって伝統があります。今、後輩たちがあのジャージーを着て試合しているのをみても、特別な思いを感じます」。小澤は今でも慶大OBのプライドを持ちながら戦っている。

【続きはこちら】社員選手の矜持、さらにインパクトあるプレーを求めて

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