「自分の可能性を狭めていた」学生時代の経験があるから 静岡BR・日野剛志(下)
ラグビーの新リーグ「NTTリーグワン(LEAGUE ONE)」に体制を一新して挑む静岡ブルーレヴズ(旧ヤマハ発動機)の中心選手、HO(フッカー)日野剛志(32)。後編は、同志社大学など学生時代の学びから今に生きていることなどを聞いた。静岡は1月30日、ヤマハスタジアムで大阪との「開幕戦」に臨む。
力あるのに遠かった花園
日野は4歳上の兄・純一さんの影響もあり4歳の頃、福岡の浮羽ヤングラガーズで競技を始めた。主にSO(スタンドオフ)としてプレーし「エースだった」。地元の中学にラグビー部がなかったため、中学受験をして、全国的強豪の東福岡高校と一貫の東福岡自彊館中学校に進学した。当時から「将来はラグビー選手になりたい」と思っていた。ただ、強豪チームを目の当たりにして「高校ではレギュラーになれないな」と考えた。そこで中学3年生の時に公立中学校に転校、「兄でも試合に出ていたので僕も大丈夫だろう」と筑紫高校に進学した。
中学3年からHOに転向していた日野は、筑紫高でHOとしてレギュラーとなり、「知り合いだらけだった」東福岡高と3年連続、全国高校大会の福岡県予選決勝で対戦、3試合とも惜敗した。3年生の時は7-19で敗れ、全国大会に出場した東福岡高が初めて日本一になった。筑紫高も全国レベルの力がありながら、花園の地を踏むことはできなかった。
指定校推薦で同志社大に
当時は身長170cm、78kg(現在172cm、100kg)とFWとしてはガリガリだったHOに大学から声がかかることはなかった。一般受験で関東の大学などを受けようと思っていたが、学業成績が優秀だったラグビー部の先輩がいたこともり、同志社大学の指定校推薦があった。指定校推薦で入学したため、ラグビー部には入らず、フットサルサークルやラグビーサークルに入って大学生活をエンジョイすることも頭をよぎった。しかし、筑紫高の3つ上の先輩だったWTB(ウィング)菊武直也さんから「ラグビー部に入らないか」と背中を押されて大学でもラグビー部に入部することを決めた。
1年生のときは部の寮に入れず、Aチームで出場することもなかった。ただ、HOながらスペースに走り込むようなアタックをしても先輩にはほめられることが多く、「自主性を受け入れてくれる」という伝統を感じた。まだ成長期だったという日野は2年生になるオフに体重が10kg増えて、90kgほどになり試合に出場できるようになった。
まさかの入れ替え戦と大善戦
そして3年生を迎える。実は2010年度は同志社大が創部100周年の節目の年で、1999年度に慶應義塾大が創部100年で大学日本一になっていたこともあり、全国大学選手権での優勝を目標に掲げた。春は調子が良かったものの関西大学Aリーグでは惜敗が続き、なんと7位となって同志社大初の入れ替え戦に回る。入れ替え戦では関西大に45-10で勝利し、なんとか残留することができた。
翌シーズンは、パナソニック(現・埼玉)を指揮して日本一を経験していたOB宮本勝文氏が監督に就任、OBの鬼束竜太コーチ(現・立命館大ヘッドコーチ=HC)も寮に泊まり込みで指導してくれたという。その成果もあり、関西で2位となり大学選手権に出場し、大学選手権準々決勝では3連覇を目指す帝京大と対戦した。
宮本監督は「帝京大の3連覇を止めるのは同志社大しかいない」と公言。日野ら選手たちは半信半疑だったが、実際にやってみると接戦を繰り広げて、後半34分には一時、12-11とリードした。試合終了間際に逆転されて12-18と惜敗したが、日野にとっては3年生のどん底のシーズンから、優勝候補と対等に戦えたラストゲームは特に印象深かったという。
宮本監督から「帝京大に善戦できたのは、3回生までの中尾晃監督が指導してきたベースがあったから1年で、その上にシステム、戦術を乗せることができた」と言われたことは今でもはっきり覚えている。「やっぱり個性や戦術だけでは勝てないですし、ベースやハードワークが大事ということは勉強になりましたね」(日野)
壊れた機械、「快足」をさらにアピール
高校時代同様、3年生で入れ替え戦に回ったチームのHOだった日野にトップリーグ(TL)のチームから誘いは皆無だった。一般企業への就職活動をしつつ、できればTL下部のチームで「ラグビーが続けられたららいいな」と漠然と考えていた日野は、当時、同志社大HCだった中村直人氏に相談する。
日本代表やサントリー(現・東京SG)で活躍した中村HCは「どうせやるならトップリーグのチームを目指せ!」と日野の目標を上方修正。中村HC経由で、自分のプレーを3分間に修正したDVDをTLのチームに送った。中村HCはさらに「足の速いHOがいる」という言葉をヤマハ発動機の指揮官になったばかりの清宮克幸監督に伝えると、「面白いプレーをする。トライアウトに来てみないか」と誘いを受けた。
いざ4年生になったばかりの日野がグラウンドに行くと10人くらいの選手がいた。「無理かもしれない……」と内心思ったが、体力測定の50m走で、その日、機械が故障して手動のストップウォッチで計測されたという運も味方して、6.2秒代の記録をたたき出した。現在はチームメートである快足WTB伊東力(龍谷大)の選手に次ぐ好記録だった。
結果、他の強豪大学の同じポジションの選手もいたが、アピールに成功し日野はヤマハ発動機入りを決めた。ただ当時、ヤマハのFWの第1列はスクラムの強い選手が出場するという明確なポシリーがあった。現在は日本代表も指導する長谷川慎スクラムコーチに「身長が伸びないなら横に伸ばせ。背中を鍛えて日本一の背筋を持て」と言われて、トレーニングを重ねて2年目からは試合に出場する。
挑戦続けたからチャンスをつかめる
セットプレーも強く、スキルの高いHOとして頭角を現すと2016年11月、日野はウェールズ代表戦で日本代表として初キャップを獲得した。「めちゃくちゃ嬉しかったですよ。学生時代から選抜というチームに一つも選ばれず、初めて選ばれたのが日本代表で、相手はウェールズ代表です。人生って何があるかわからないですね」(日野)
その後、ケガなどの影響もあり19年ワールドカップ日本大会の出場はかなわなかったが、日野はサンウルブズ、フランスの強豪トゥールーズでもプレー、国際経験を積んで日本のトップ選手の一人として成長を遂げた。
学生時代は決して目立つ選手ではなかった。高校日本代表、U20日本代表どころか福岡県選抜にも選ばれなかった。ただ常に笑顔でポジティブに、チャレンジを続けて来たからこそチャンスをつかみ、チャンスをつかんだら人以上に努力を惜しまなかった。
日野は「学生時代、自信がなくて、自らの可能性を自分で狭めていたかなって反省しています。ただ僕の場合は人との巡り合わせもあり、あきらめなかった。だからそれは今の大学生にも言えることで、いくら狭き門だろうが、自分の気持ちに素直になってチャレンジして、アピールし続けてほしい。そしてチャンスさえつかむことができれば、あと自分次第だと思います」と大学生のスポーツ選手たちにエールを送った。