ラグビー

早稲田大学FB小泉怜史 雌伏の3年間を経て、最後尾から勝利を引き寄せる

今季は春から早稲田の「15」を守り続けている小泉(すべて撮影・斉藤健仁)

関東大学ラグビー対抗戦は帝京大学、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学が開幕から4戦全勝でしのぎを削り、11月に入ると上位同士の激突が始まる。そんな中、2019年度以来の大学王座奪還を狙う早稲田大において、今季、春から「15」番を背負い続けているのが4年生のFB(フルバック)小泉怜史(さとし、早稲田実業)である。

今季から「本職」に復帰

「もともと才能があることはわかっていた」。早稲田実業時代、主将と副将の間柄だったキャプテン・NO8(ナンバーエイト)の相良昌彦は、小泉についてこう評した。小泉は、昨季までは河瀬諒介(現・東京サンゴリアス)という大きな存在の前に、あまり15番でプレーすることはかなわず、出場しても11番としてプレーしていた。

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しかし、昨季から大田尾竜彦監督に「一貫性を持ってプレーしてほしい」と期待されている通り、今季の春季大会から、切れ味鋭いラン、安定感あるフィールディング、そして左足のキックを武器に、15番での出場を続けている。

今季の開幕戦で躍動したFB小泉

「大舞台でのプレーがあまりなかったですが、最近は試合に出られるように慣れてきた」と話すように、どの試合でも高いパフォーマンスを発揮。特に顕著だったのは9月18日、雨の中での筑波大学戦だった。

「前半は完璧でしたね!」と小泉が話した通り、ハイボールキャッチでミスすることなく、左足からのキックでもゲームをコントロール。最後尾からチームに安定感をもたらして、23-18の勝利に大きく貢献した。

小泉は「自分のキックキャッチがチームを左右するなとわかっていましたし、夏合宿から手応えがありました。また得意としている左足のキックも、どんなタイミングでいつ蹴るかなどもわかってきました。いろんな形でチームにコミットできるようになってきた」と自信をのぞかせた。

花園よりも「早稲田大でプレーしたい!」

高校時代、U17日本代表に選ばれてキャプテンも務め、「花園」こと全国高校ラグビー大会にも出場。大学での活躍も大いに期待された小泉だが、早稲田大に入った後は決して順風満帆とはいかなかった。

1988年度に早稲田大のSOとして活躍した父の剛さんの影響もあり、3歳から神奈川の相模原ラグビースクールで楕円(だえん)球を追った。ラグビーと同時に、小学校までサッカースクール(鹿島キッカーズ)で左サイドバックとしてプレーしていたため、今でも左右どちらでも蹴ることができる。

当時から練習場を貸してくれていた三菱重工相模原ダイナボアーズを応援。国立競技場などへ試合に連れていってくれた父の影響で、花園出場より、「早稲田大でプレーしたい! 将来、日本代表になりたい」という気持ちが強かった。特に2009年度の早稲田大が好きで、7人制日本代表として活躍したCTB(センター)坂井克行(現・三重パールズアシスタントコーチ)の背番号「12」のキーホルダーを買ったほどだった。

高校から早実へ 花園にも出場

中学はスクールメインで活動していたが、ラグビー部のある桐光学園中に進学した。神奈川県スクール選抜で出場した全国ジュニア大会は、惜しくも準優勝に終わった。当時のチームメートには、早稲田大WTB(ウィング)槇瑛人(國學院久我山)、明治大HO(フッカー)紀伊遼平(桐蔭学園)らがおり、特に紀伊とは5歳からいっしょにラグビーをしている幼なじみである。

高校はそのままエスカレーターで桐光学園に進学し、大学受験で早稲田大に入ってラグビー部の門をたたこうと思っていた。しかし、ちょうど高大連携でラグビー部の強化を始めた早稲田実業の関係者に声をかけられ、「高校から早稲田実業に行った方が確実に早稲田大に行きやすいかも」と思い、早稲田実業へ推薦で進学を決めた。

小泉は高校時代もFBとして活躍した。写真は花園予選決勝

高校時代は、3年時に國學院久我山を下して79大会ぶりに花園に出場、2回戦進出を果たした。「あまり強くないチームに入って強豪チームを倒した方が面白いかもと思っていました。今から思えば早実に進学してよかったですね!」

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大学入学後、Bチーム・ケガ…

しかし、念願の早稲田大に入学早々、ヘルニアとなってしまい、復帰しても、BチームのSOとして、Aチームが対戦する相手のSOをまねる日々が続いた。結局、1年時は1試合もAチームで出場することはかなわなかった。

SH齋藤直人(現・東京サンゴリアス、日本代表)キャプテンが率いたチームは、対抗戦こそ優勝できなかったが、大学選手権では明治大を下して11年ぶりに優勝。高校時代のチームメートだったNO8の相良は、FLとしてスタメンで出場し、トライを挙げる出色の出来だった。スタンドから同級生の活躍を見つめた小泉は「正直、悔しかったです」と振り返る。

2年からはやっとAチームでプレーするようになり、秋の対抗戦の開幕戦で控えメンバー入りし、2試合目の立教大学戦でFBとして先発を果たしたが、その試合でけがをしてしまい、2年時は2試合の出場にとどまってしまった。

念願の大舞台でミス、悔やむ日々

3年になり、指揮官が新たに元日本代表の大田尾竜彦監督となると、FBでのプレーに集中したが、なかなか出場時間を得られず、一時はBチームの控えに甘んじていた。そんな中、昨年11月7日の関東大学ジュニア選手権の帝京大B戦で、先発のチャンスを得た。小泉は「何か変えないといけない」と試行錯誤した結果、「あまり考えずに思い切ってやろう」と臨んだ。

するとその試合では、トライを挙げるだけでなく七つのゴールキックもすべて成功させて、49-45で勝利。そこから再びAチームに昇格し、ブラインドWTBとして試合に絡むことができるようになった。「(ジュニアの)帝京大戦での自信が大きかった。それが今季につながっている」と胸を張った。

昨季の大学選手権は準々決勝で敗退した

しかし昨季は、大学選手権準々決勝の明治大との再戦で敗戦(15-20)し、シーズンを年内に終えた。後半14分、SH宮尾昌典(京都成章、当時1年)へのラストパスが通っていれば「トライが取れて勝っていたかも」と後悔の念を感じる日々が長く続いた。「負けた後の喪失感が半端なくて、なかなか立ち直ることができなかった」。コーチ陣から「負けたことは終わったこと。あのプレーから得られることはなにか、ミスから何かを得るかが大事」と言われ、やっと次に進むことができたという。

最終学年はFB専念「楽しくやれています」

今季迎えた最終学年、小泉は「1年間、練習でも試合でもグラウンドに立ち続けて、チームに欠かせない存在になる」という目標を立てた。その言葉を有言実行し、春から15番として躍動している小泉は、一番成長した部分は「ボールキャリー」と強調する。

体重こそ86kgほどと高校時代から変わっていないが、体脂肪は3%ほど落ちて筋力はアップ。ベンチプレスは25kg増の135kgを上げることができるようになった。同時にスピードトレーニングも重ねたことで、「ボールを持って前に出られるようになった」と話す。

また、大学1~2年時は主にSO、昨季はWTBでもプレーしていたが、今季は春からFBとしてプレーを続けている。「15番で固定してプレーすることで、何をすべきか明確になっていい状態です。FBで楽しくやれています」と声を弾ませた。

対抗戦優勝へ勝負の3連戦

11月から12月にかけて帝京大、慶應義塾大、明治大と勝負の3連戦が続く。関東対抗戦からは上位5チームが大学選手権に出場できるが、当然、1位になった方が大学選手権の組み合わせは優位となる。

大田尾監督は練習やミーティングで「『荒ぶる(早稲田大が日本一になったときに歌う第二部歌)』を取るチームに近づくために、今パーツを集めてつなげている。今はまだ完成ではない。ここから自分たちがやることをしっかりやることで強いチームになろう」と話しているという。

昨季の終盤はWTBとしてプレーした。写真は対抗戦の早明戦

今後、まず対抗戦で優勝するために必要なことを聞くと、小泉は「Aチームだけでなくどのカテゴリーでも、(相良)昌彦が決めたことに対して100%コミットできるか。リアクションスピードやこぼれ球への反応、抜かれた後の(ディフェンスの)バッキングアップ、抜いた後の追い上げが、大きな試合では大事になってくる」と語気を強めた。

好きな言葉は父から教えてもらったという「努力は運を支配する」。趣味の自転車での散策や、中学時代からの友人WTB槇との海釣りでリラックスしている。大学卒業後はリーグワンのチームでプレーする予定だ。

「荒ぶる」を歌って終わりたい

紆余(うよ)曲折あった大学ラグビー生活は、あと2カ月あまりとなった。「早稲田大のBKとして、展開ラグビーを見てほしい!」という小泉は「最後は優勝して終わりたい。15番を着て決勝の舞台に立って、『荒ぶる』を取る」とまっすぐ前を向いた。

FB小泉が、数々の名選手が着てきたアカクロの「15」番を背負い、最後尾から左足のキックとランで、チームに勢いをもたらす。

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