野球

法政大・村上喬一朗と大柿廉太郎 雑草魂とエリート、対照的な2捕手の4years.

正捕手争いを続けてきた法政大の大柿(左)と村上(右、撮影・井上翔太)

村上喬一朗(きょういちろう、4年、東福岡)と大柿廉太郎(4年、健大高崎)。2人は名門・法政大学の正捕手の座をかけて、4年間しのぎを削ってきた。良きライバルであり、良き仲間でもある。最後のリーグ戦も終わったある日、2人の捕手に駆け抜けてきた日々を振り返ってもらった。

2年時から頭角を現したエリート・大柿

村上と大柿は、入部当時のお互いの印象をこう語る。

「見るからに野球エリート。そういう感じでしたね」(村上)

「ものすごくひたむきで妥協をしない。こういう選手がいるのかと驚きました」(大柿)

大柿は村上のイメージ通り、エリート街道を歩んできた。栃木・小山ボーイズに所属していた中学時代は、ジャイアンツカップでベスト4。ジュニアオールジャパンに選ばれた実績もある。10校以上から声がかかった中、高校は強豪の健大高崎へ。1年夏から正捕手となり、3年生エースをリードした。2年春は第89回選抜高等学校野球大会に出場し、ベスト8に進んでいる。

この秋は大柿がスタメン起用で1試合上回った(撮影・井上翔太)

一方、村上は祖父母が三味線の師匠で、母親がピアノの先生という音楽一家で育った。幼少期から親しんできた音楽の道も考えたが、選んだのは野球だった。愛媛大附属中では松山シニアでプレーし、全国大会には計3回出場している。高校は誘いがあった東福岡高へ。2年秋からレギュラーとなり、3年夏は1番・捕手で活躍したが準々決勝で敗退。甲子園には届かなかった。

高校時代の実績は、進路に大きく影響する。大柿が法政大から勧誘されたのは、2年春のセンバツ直後。当時の青木久典監督が大柿のプレーを高く評価していた。一方で村上は県ベスト8が最高。小学時代からの「東京六大学」でプレーする夢をかなえるには、自ら売り込むしかなかった。だが法政大の練習会に参加すると、都道府県ベスト4以上という入部条件があった。1度は断られた末に、入部に至った。

求められて入った大柿は、2年生になると頭角を現した。春のリーグ戦(新型コロナウイルスの影響で8月に延期され、1試合総当たりで実施)では、全5試合中4試合でスタメンマスクを被り、優勝に貢献した。

「めちゃくちゃうれしかったです。コロナ禍での初のリーグ戦だったので、格別なものもありました」

常にひたむきだった雑草魂の村上

大柿は秋も全10試合中、7試合に先発。その年のドラフトで、バッテリーを組んだ2学年先輩の鈴木昭汰(千葉ロッテマリーンズ)と高田孝一(東北楽天ゴールデンイーグルス)が上位で指名(鈴木は1位、高田は2位)を受け、目標である「プロ」も身近に。ここまでは順風満帆だった。

この時、村上は大柿をどう見ていたのか? 村上はまだリーグ戦出場がなかった。

「大柿を超えないと、とは思っていましたが、インサイドワーク、送球の安定性、フットワーク…全てでかなわないなと。それは今も変わりませんが」

卒業後は別々の道に進み、2年後、プロでの再会をめざす(撮影・上原伸一)

中でも大柿が強みとしているのが、高校時代にたたき込まれたインサイドワークだ。

「試合が終わると必ず、葛原美峰コーチ(当時)から『あの場面の、あの打者に対する3球目の意図は?』と細かく配球のことを聞かれるんです。それで要所を覚えるのが習慣になりました」

配球の際はデータも参考にしているが、それに頼ると頭でっかちになることから、打者の立ち位置、高めのボールを打てるかどうか、そして、低めのボールを拾えるか、この三つをポイントにしているという。

ただ当時から大柿は、村上の存在が怖かったという。

「とにかく練習量がものすごいですから。はじめは『変わっているな』と思ったほどです(笑)全体練習では常に意識が高いし、どんな時も必ず自主練習をしてました」

大柿の前には常に『ぶれない村上』がいたが、実はぶれていた時期もあったという。村上は「2年生になった頃ですね。自信がなくなりまして……。野球を辞めると母に伝えたこともあったんです」と明かす。

立場が逆転した3年の秋

野球では大柿にかなわない……。村上が活路を見出したのは野球以外の部分だった。「野球にもつながる人間力を高めようと思ったんです。本もたくさん読むようにして、語彙力(ごいりょく)も身に付けました」。村上はコミュニケーション能力にも定評がある。リーグ戦後の会見では、言葉で記者を引き付けていた。これは人間力を磨いて手に入れたものだ。

グラウンドでもやれることは全てやった。3年生になる年、新しく加藤重雄監督が就任すると、チャンス到来とばかりに猛アピールを始めた。

2人の立場が変わるきっかけとなったのが3年春だ。このシーズン、大柿は主に山下輝(東京ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組んだが、本来のプレーができず、攻守で精彩を欠いた。リーグ戦後は「Bチーム」に降格。小学校時代から常にチームの中心だった大柿にとって、レギュラー組を外されるのは初めてのことだった。

「奮起すれば良かったんですが……。正直なところ、くすぶってしまいましたね」

右ひじの痛みもあり、3年秋は1試合も出場できなかった。

ここで台頭したのが村上だ。全10試合に先発出場し、打ってもリーグ9位タイの打率を残した。「打撃投手をしてくれた加藤監督のおかげです。(法大時代は左腕エースとして活躍し、4年時は春・秋で9勝の)加藤監督は66歳の今も球筋がいいんです。ずっとその伸びのあるボールを打ってきたので、リーグ戦ではよくボールが見えました」

村上は3年秋から台頭してきた(撮影・井上翔太)

大柿にはこの時期、社会人チームからオファーが来た。都市対抗野球大会では2度の優勝があるNTT東日本だ。数多くのプロ野球選手を輩出した「名門」は、大柿の能力を高く買っていた。3年秋のリーグ戦後は練習会にも参加し、大学より上のレベルを知ることで、再びモチベーションが高まった。

ドラフトで育成指名された「第3の捕手」

4年の春も、レギュラー捕手は村上だった。打撃の調子も良く、2季連続で3割をマークした。大柿は代打での出場のみ。捕手としての出場はなかったが、社会人で活躍することも心の支えに、レベルアップに励んだ。すると夏のオープン戦で成果を発揮する機会が訪れた。内定先のNTT東日本との試合、久々に先発で出場する機会を得た。大柿は結果を残し、加藤監督に認められ、最後のシーズンは村上を1試合上回る6試合でスタメン出場した。

初めて両雄が並び立った今秋だったが、チームは5位に。最終カードの東京大学戦が「最下位決定戦」となり、リーグ最多タイ46度の優勝を誇る「名門」の捕手2人は忸怩(じくじ)たる思いをした。大柿は「とことん、うまくいかなかったですね。こんな経験は初めてです」と唇をかみ、村上は「夏のオープン戦では負けなしだったんですが、リーグ戦では違うチームになってしまった」と悔しさをにじませた。

ドラフトでは予想外の展開が待っていた。「第3の捕手」である是澤涼輔(4年、健大高崎)が村上より早く、埼玉西武ライオンズから育成4位で名前を呼ばれたのだ。4年間でのリーグ戦出場は、わずか3試合だけ(うち先発は1試合)。是澤の指名は話題を集めたが、ずっと一緒にやってきた2人は「プロになって然(しか)るべき選手」と口をそろえる。特に高校も同じ大柿は、是澤の実力を当時から知っていた。

村上は育成5位で、オリックス・バファローズから指名された。「名前が呼ばれたときは、ほんとにホッとしました。大学もそうでしたが、僕はいつもぎりぎりで決まるんですよ」

形状が異なる大柿のミット(右)と村上のミット(撮影・上原伸一)

切磋琢磨(せっさたくま)してきた2人は、卒業後は別々の道へ進む。村上は野球を始めた頃から夢に描いていたプロへ。「次の夢はオリックスの正捕手になること。雑草魂でかなえるつもりです」。そして大柿は社会人に進み、2年後のプロ入りを目指す。「日本最高峰のチームですが、1年目から出たいと思っています。村上と是澤には先に行かれてしまったので(苦笑)、追いかけます」

法大でのライバル関係は幕が下ろされた。村上はしみじみとこう言う。

「ずっと『大柿に勝つためには』と、その思いでやってきました。いろいろなことを聞ける仲でもありましたが、最後のリーグ戦が終わった瞬間、一気に距離が近くなった気がしました」

大柿も「大学では思うようにいかないこともありましたが、村上がいてくれて良かったです」と返す。

是澤も含めた法大の3人の捕手の物語は続く。2年後、プロでの第2章が始まるはずだ。

in Additionあわせて読みたい