駒澤大学・福山優希 断った大学生活最後のマウンド、胸に刻まれている大倉監督の言葉
東都大学野球リーグ歴代2位となる27度の優勝、11度の日本一を誇る名門・駒澤大学。だが、ここ数年は思うように勝ち星が伸びず、下位の順位に低迷する苦しいシーズンも多くなっている。最下位争い、入れ替え戦の修羅場に何度も立たされながら、そのたびに危機を乗り切ってきたのは、チームを支えた大黒柱・福山優希(4年、八戸学院光星)の存在があったからに他ならない。「鉄人エース」と呼ばれた男は、大学野球での4年間をどう総括しているのだろう?
コロナ禍が可能にした「全試合登板」
福山優希の名前が一躍クローズアップされたのは、1年春(2019年)の入れ替え戦だった。2部優勝の専修大学を相手に初戦を落とし、崖っぷちで迎えた第2戦。先発マウンドを託された福山は、カットボールを有効に使い、7回3分の2を3失点の好投でゲームを作った。九回サヨナラ勝ちで1勝1敗のタイに戻すと、翌日の第3戦も先発。133球の完投勝利でチームの一部残留に貢献した。
以来、福山は駒大のエースとして、リーグ戦でひたすら投げ続けてきた。中でも3年生の春秋はほとんどの試合に先発し、先発しない日はリリーフでマウンドへ。2シーズン連続の全試合登板で、投手陣の台所事情が苦しかった駒大を「鉄人」のようなフル回転で支えてきた。
そうした起用法を「酷使」と批判する声もあった。だが福山自身は「言いたい人は言えばいい。僕は実戦を経験することで成長できると思っているので、投げさせてもらえることがうれしい」と一蹴する。もちろん疲労や故障のリスクは本人もチームも常に意識し、日頃から節制した生活を送り、コンディショニングと体のケアを重視してきた。そして当時はコロナ禍のため、リーグ戦が全カード2戦まで。また球場の都合で試合間隔が空くことが多く、入れ替え戦の時のような連投があまりなかったことも、驚異的な登板数を可能にしていた。
向上心の高さから、ぶつかった壁
目標としていたプロ入りへのステップにすべく、臨んだ4年春のシーズン。大事な開幕戦の先発で制球が安定せず、わずか3回で降板。その後は先発の座を後輩たちに譲り、ブルペン待機となった。秋も開幕戦に先発したが大量失点を喫し、その後は再びリリーフに。登板試合数、投球イニング数は激減し、1イニングを投げ切ることなく降板するようなこともあった。
「故障ではなく、技術的な面で整いませんでした。とても試合で投げるレベルではなかった」と福山は当時を振り返る。投球フォームがしっくりこず、思うようなボールが投げられない状態が続いていた。夏場のオープン戦で復調の気配があったが、秋のリーグ戦に入ったら調子が上がってこなかった。
「変化球の組み立てで抑えられていたから、ストレートの質を上げればプロに行けると考えたのですが、そんな簡単なものではなかったですね」と苦笑する。ボールに強さを出すために、体重を増やしたり、投球フォームを見直したりしたが、結果が出なかった。「でもそれも、やってみて初めてわかったことですから」と無駄だったとは考えていない。もっと良くなりたいという向上心の高さが招いたつまずきという見方もできる。
「自分の実力が足りなかったのが一番です。それに加え、下級生が伸びてきていました。東田(健臣、2年、西脇工)松村(青、2年、向上)、高井(駿丞、2年、広島商)……。追い抜かれたということです。監督からは何も言われていませんけど、起用法を見ればわかります。僕よりも、彼らを使った方が勝つ確率が高いという判断だったということです。大学野球というのはそういうところ。とくに東都は入れ替え戦もある厳しいリーグで、『4年生だから』というのは通用しない」
「実力で覆したいと思いながらも、内心はすごく悔しい気持ちでした。自分に腹が立った。精神的にもしんどかったけど、その中で学ぶことはたくさんありました。『投げられない時間があってよかった』と言ってしまうのはまだ早いけど、それでも何か自分にプラスになるものを見つけようとして、探し続けた時間でしたから」
良い時というのは過去を振り返らないものだが、悪かった分、なぜダメだったのかを常に探して、毎日書いていた野球ノートの昔のページを読み返しては、良かった時の思考や練習方法を見直した。何よりも心掛けたのは、自分の結果が出ていないからといってふて腐れたり、練習が雑になったりすることだけはしないように心掛けた。「副主将で、18番を背負う立場で、それは許されない。立ち振る舞いには気を付けました」
「27個目のアウトを取るまで気を抜いてはいけない」
大学野球生活最後の試合は、またしても一部残留を懸けた専大との入れ替え戦。1勝1敗で迎えた第3戦、8-1で大量リードして迎えた九回裏の守備だった。ブルペンで待機していた福山のもとに、ベンチ前で林裕也コーチから耳打ちされた学生コーチが走り、「(登板できるよう)作っておくように」との指示が伝えられた。林コーチは、チームのために4年間頑張ってきた福山に最後のマウンドを託すことを大倉孝一監督に進言しようとしていた。
福山は「そういうのはいいから」と断ったという。3年の秋、國學院大學戦で九回裏までリードしていた試合をひっくり返され、サヨナラ負けを喫していた。結果的にその試合に勝っていれば、駒大が國學院大を上回り、リーグ優勝していた。試合後に大倉監督から言われた「27個目のアウトを取るまで絶対に気を抜いてはいけない」という言葉が胸に刻まれている。だからこそ「あそこは自分が投げる場面ではなく、(マウンドにいる)東田が最後まで気を抜かずに投げ切ることの方が大事」と心から思えた。
最初に勝負の怖さを教えられたのは、2年生の秋のことだった。亜細亜大学戦でリリーフとして登板したが、1死しか取れず、失点を重ねて降板した。投球フォームを修正しようと模索していた時期で、チームの結果をあまり気にしていなかった。だから打たれても悔しさがなく、自分の投げたボールの手応えばかり気にしていた。試合後、林コーチに呼ばれ、「チームのためにやれないのならメンバーを外す」と厳しく言われた。全て見抜かれていた。後から振り返ると、林コーチに怒られたのは、4年間でこの1度だけだ。
それでも当時は、まだピンとこなかった。「いずれ結果を出せばいいんだ」ぐらいに考えていたという。だが、青森の両親と電話で話をしたり、最後のシーズンに懸けている4年生たちの姿を見たりするうちに、生まれてきた感情があった。
「両親や高校時代の恩師、一緒にプレーする先輩たち。いろんな人に支えられて野球ができている。自分がどんな状態であっても、目の前の試合に勝つために最善の準備をすることが、野球人としての自分の務めなのだと考えるようになりました」
だから今、成長著しい後輩投手たちにも、日頃の練習の姿勢や試合に臨む準備に物足りなさを感じることがあれば、「チームを背負う自覚が足りない」とミーティングで厳しい言葉を投げかけてきた。
提出するつもりだったプロ志望届
卒業後は、JFE東日本で野球を続ける。複数の社会人チームから誘われた中、自分の意思で決めた。チームの雰囲気に惹(ひ)かれたからだ。「超アグレッシブ野球」を掲げ、選手たちがのびのびとプレーしている。もともと縛られた環境が好きではなく、自主性を尊重してくれるチームを望んでいた。
昨年はプロ志望届を提出するつもりだった。だが4年生になってからの成績では、指名の可能性は低い。それでも自分の志を貫きたい気持ちがあった。そんな時に大倉監督から「プロ野球だけが全てじゃない。志望届を出さない道もあるんだぞ」と諭された。初めは反発したが、冷静になると理解できた。
「社会人に進んで、もちろん2年後のプロ入りを目指して頑張りたいですが、もしその時が来たら、いろんな状況を整理して、自分の野球人生をよく考えて決めたい。会社の皆さんに応援されながら都市対抗で優勝を目指すというのも、すごくやりがいのあることですから」
「思い描いていた4年秋の姿とは違うけど、それを受け止めて、自分に枝葉を付けていけばいい。よく『4年間やりきった』と言う人がいるけど、僕には『やりきってしまったら、その次はどうするのだろう?』と疑問でした。少なくとも僕は、やりきったとも、やり残したとも思っていない。4年間で見つかった課題を、次の場所に行って修正する。それは野球をやっている限り続くことだと思っています」
福山はもう新たなステージに思いをはせている。