中央大学・中澤雄大 駅伝で外さない「仕事人」、4年間で得た「自分本位でいい」思考
第99回箱根駅伝で、22年ぶりのトップ3となる総合2位に輝いた中央大学。往路でチームを勢いづけたのはエースの吉居大和(3年、仙台育英)ら、3年生以下の世代だったが、復路で堅実な襷(たすき)リレーを展開したのは4人が出走した4年生だった。なかでも中澤雄大(4年、学法石川)はロードに絶対的な自信を持ち、2年時から箱根に3度出場してきた。藤原正和監督からの信頼も厚い「仕事人」が、かけがえのない同期の仲間とともに過ごした4年間を振り返った。
学法石川の先輩・田母神一喜の後を追って
高校時代は3年生のとき、全国高校駅伝でチームは3位と躍進したが、中澤自身は一度も都大路を走るチャンスがなかった。5000mの自己記録14分21秒51も2年時にマークしたもので、3年目に伸ばすことはできていない。ただ中澤自身は「自分の中では、できることはできているという手応えはありました。けがや貧血に関してはもう少しできた部分があったかもしれませんが、3年間やってきたことには納得しています」と高校生活に悔いは残さなかった。
中央大に進んだのは、同じ学法石川高校の出身で3学年上の田母神一喜(現・IIIF)の存在が大きい。中澤が通った石川中には学法石川の選手も練習するトラックがあり、田母神が「毎回のポイント練習で、ぶっ倒れるまで練習する姿がかっこよかった」という。その田母神がやがて中央大に進学したと知り、後を追うように2019年、進学した。
もともと箱根駅伝や学生駅伝に特別な思い入れがあったわけではない。
「箱根駅伝は中大に行くことが決まって、高校3年の冬に初めて通しで見たくらいです。自分が走りたいというより、周りの人たちから走ってほしいという期待を感じていました」
それでも「まずは駅伝を1本走って、通用するかどうか試したい」と思っていたし、「自分の力を出せれば1年目でも箱根は走れる」という自信があった。主力の先輩たちであっても、全く手の届かないレベルではない。当時の中央大はルーキーの中澤がそう感じられるようなチーム力だったのである。
ただ1年の頃の中澤は、好調だった夏合宿の終盤に右足の中足骨を疲労骨折してしまい、復帰してから駅伝シーズンに同じ箇所を再び疲労骨折。同期の千守倫央(4年、松山商)や若林陽大(4年、倉敷)らが1年目に箱根デビューを飾った一方、そこに名を連ねることはかなわなかった。
チームとともに成長した2、3年目
気持ちを新たにスタートした2020年は、春先からコロナ禍が始まり、試合の中止や延期が相次いだ。チームは自由解散となり、中澤は福島の実家に帰省。自分でメニューを考えて走っていたが「それが身になっている気がしませんでした」とモチベーションを保てなかった。約2カ月後、チームに合流したときは全く走れず、「まずいなと思いました。スタッフからは『中澤が使い物にならなくなった』と言われていたそうです」と笑って明かす。
一から練習を積み、徐々に調子を取り戻した中澤は、夏合宿をパーフェクトに消化した。9月末に箱根予選会の選考レースとして行われた学内タイムトライアルの西湖ハーフが、大きなターニングポイントとなった。同期のメンバーが後方で苦戦する中、チームトップでフィニッシュしたのだ。
「会心のレースでした。自分の力を100%出せたという意味では、今まで10年の現役生活の中で一番だったと思います」
その勢いで予選会は1時間2分58秒と好走し、チームの2位通過に貢献。本戦でも7区を区間5位で走り、「自分は意外と戦えるんだな」と確かな自信をつかんだ。
中央大が名門復活を大いに印象づけたのは、中澤が3年目の2021年度だ。当時の4年生が積極的にチーム改革を行い、吉居ら強力な後輩たちからの突き上げもあった。中澤は「上と下に挟まれて運んでもらった印象です。チームは上昇気流に乗っていった感じで、流れに身を任せたらやらざるを得ませんでした」と話すが、けがだけは十分に注意しつつ、2年目の良い流れを継続することに集中した結果、試合でも安定感は抜群だった。
9年ぶりに出場した全日本大学駅伝と箱根駅伝で、中央大はいずれも10年ぶりにシード権を獲得した。中澤も両駅伝でしっかりと役割を果たした。とくに8区を担った箱根は「4人を抜いて3位に上がれましたし、周りがすごく盛り上がっていたので、とても気持ち良かった」と語り、「取り組んできたことが実を結んだ」と大きな充実感を得た3年目となった。
「応援してくれるから自分は走れる」
3年生の箱根が終わってしばらくすると、中澤は競技を大学限りで引退することを決めた。
「理由は二つあります。一つは、自分が行きたいと思える企業からは声がかからなかったこと。社業も含めて、中途半端な気持ちではやりたくありませんでした。もう一つは、実業団の世界は本当に力がないと戦えないからです。僕のレベルではすぐに通用しなくなると思っていて、だからこそ未練もありません。むしろここから抜け出せてホッとしている感じです」
中澤は「走ることが好きというわけではない」と、さらりと言う。陸上競技を中学の頃から10年間続けられた原動力は、自分が走ることによって周囲の人たちが喜んでくれることだった。「いろいろな人が応援してくれるから自分は走れるし、頑張ろうと思えます」
競技生活の集大成と位置づけた2022年は、スタッフ陣の了承を得た上で、トラックレースは最小限にとどめ、ロードを中心に強化を進めた。3月には「1回はマラソンを走ってみたい思いがありましたし、走ったらこれまでとは違う経験や成長ができるかもしれない」と、東京マラソンでフルマラソンに初挑戦。7月にはオーストラリアで初の海外レースも経験している。
チームも夏合宿を経て、さらにレベルアップを遂げ、駅伝シーズンで存在感を示した。中澤は全日本で4区、箱根で8区に出場。箱根は「あまり良い走りができなかった」と悔しさをのぞかせたものの、区間7位でまとめ、2位というポジションをがっちりと死守した。大学4年間で出場した駅伝では結局、一度も外すことはなかった。
卒業後は地元・須賀川市役所で勤務
陸上競技に向き合う4年間を過ごしてきて、得たものは何でも語り合える同期のメンバーであり、学んだのは「自分本位でいい」ということだ。
「自分のやりたいことや自分の色をどんどん出していかないといけないなと。チームに合わせていく部分も必要ですが、そればかりだと埋没してしまいます。それを貫いたことで、トラックが苦手で、今の時代に14分台や29分台しかタイムがないにもかかわらず、箱根を3回も走れましたし、引退することを惜しんでもらえるぐらいの結果を残せたと思います」
卒業後は地元・福島の須賀川市役所で働く。全力で駆け抜けた4年間は、「やり切った」という満足げな表情がすべてを物語る。笑顔で「また走りたくなったら、走るかもしれません」とも話し、中澤は濃密な大学生活に終止符を打った。