野球

退任表明の日大三・小倉監督 38年の采配で最も印象に残るあの敗戦

野球部の教え子にホームランボールを渡す日大三高の小倉全由(撮影・福留庸友)

 選手から「監督さん」と呼ばれ、慕われ続けてきた名将が指導の第一線から退く。夏の甲子園大会で母校の日大三(東京)を2度の全国制覇に導いた小倉全由(まさよし)監督(65)が9日、今年3月限りで退任することを明らかにした。後任は野球部の部長で同校教諭の三木有造氏(48)が務める。

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 この日の放課後。小倉監督は東京都町田市内にある野球部の寮に選手たちを集め、この1年間に公式戦で放ったホームランボールを手渡した後、語り始めた。

 「この3月で(監督を)あがる」

 昨夏の西東京大会はエースがけがで起用できず、4番打者も大会中に負傷。それでも、控えだった選手が台頭し、4年ぶりの甲子園出場を勝ち取った。小倉監督は「最後の夏に甲子園に連れて行ってくれてうれしかった」と感謝を述べた。

 甲子園では、1回戦で聖光学院(福島)に2―4で敗れた。「監督にもっと力があったら甲子園で勝つことができたかもだけど、俺に力がなくて1回戦で負けてしまい、申し訳なかった」と話した。

 選手とのミーティングの後、報道陣の取材に応じた。退任の理由について「ひざやひじを手術し、ノックで思うように打てなくなった。ベンチに座っているだけでもいいという人もいたが、自分の中ではできないと思った」と語った。

 千葉県出身で日大三に進んだ小倉監督は、高校時代は控えの内野手だった。日大卒業後、1981年に関東第一(東京)の監督に就任。97年から母校を率い、攻撃野球で強豪校に育てた。

 叱るべき時は叱ったが、褒めるべき時は褒めた。

 失敗した選手は監督室に呼び、一緒にケーキを食べ、時には彼女の話をすることも。甲子園大会の期間中は、試合翌日は練習を休みにして選手をユニバーサルスタジオジャパン(USJ)などに連れて行った。

 甲子園での監督としての勝利数は37勝(20敗)で、徳島・池田を率いた蔦文也氏(故人)と並ぶ歴代9位だ。2001年と11年には夏の選手権大会で2度の全国制覇を果たした。

 ただ、38年の監督生活で最も印象に残る試合は西東京大会の試合を挙げた。

 06年の決勝。斎藤佑樹さん(元日本ハム)擁する早稲田実に延長の末、敗れた。「采配ミスが多く、悔いが残る試合。負けた中でも勉強させてもらった試合だった」

■卒業生の広島・坂倉「感謝しかない」

 選手や卒業生からは感謝の声が相次いだ。

 昨夏の主将だった寒川忠選手(3年)は、日大三に進学を決めた際、自身が3年生の時に小倉監督が65歳の定年を迎えると知っていた。勇退する話を聞き「やっぱりなと思っていました」。

 「監督さん最後の年に甲子園に連れて行くことができてよかった。3年間、学んだことを次のステージでも実践していきたい」と誓った。

 卒業生で広島東洋カープの坂倉将吾選手は「中学のときに初めてお会いした。日大三に行っていなかったらここまでにはなっていなかったかなという思いはある。卒業後も連絡を下さってくれて感謝しかない」と話した。

(滝口信之、辻健治)

=朝日新聞デジタル2023年02月09日掲載

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