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特集:あの夏があったから2022~甲子園の記憶

甲子園期間中に初めて知った「スタバ」のメニュー 「あの夏があったから~」番外編

有終の美を飾り、選手たちに胴上げされる木内監督(すべて撮影・朝日新聞社)

阪神甲子園球場で行われた第104回全国高校野球選手権大会は、仙台育英(宮城)が東北勢初となる優勝を果たし、幕を閉じました。4years.では2年ぶりに開催された昨年の舞台に立ち、大学野球の道に進んだ1年生の選手たちに、高校時代や今の野球生活につながっていることを聞き、特集「あの夏があったから2022~甲子園の記憶」を展開してきました。今回はその番外編として、特集の担当編集者で常総学院(茨城)時代に夏の甲子園優勝を経験した井上翔太が高校時代を振り返りながら、編集後記を書きました。

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第85回大会に似ていた昨夏の甲子園

悪天候の影響で順延が度重なった昨夏の甲子園は、あそこまで極端ではないにしろ、私が出場した第85回大会(2003年)に似ている。倉敷工(岡山)と駒大苫小牧(南北海道)の一戦は、四回途中まで0-8と倉敷工がリードを許しながら、雨でノーゲームになった。翌日、5-2で倉敷工が勝利を収めた瞬間は、各チームに2時間割り当てられる練習後のバスの中で見届けたことを今でも覚えている。

準々決勝の鳥栖商(佐賀)戦は、前の試合中に大雨が降り、1時間以上の中断があった。三塁側の室内ブルペンにいた私たちは、あの夏限りで勇退を表明していた木内幸男監督(当時)から、こんなことを言われた。「目標だったベスト8まで来たから、ノーサインでやるか」。この言葉には、2年前の伏線がある。

雨でノーゲームとなった倉敷工―駒大苫小牧

私たちが1年のときの夏。チームは選抜高校野球大会を制し、「春夏連覇」を目標にしていた。当時の主将は、今回の特集に登場してくれた神奈川大学の吉岡道泰(1年、専大松戸)を高校時代に指導していた小林一也さんだった。夏の甲子園は開幕戦を制し、2回戦の相手は秀岳館(熊本)。試合前、木内監督が選手たちに向けて、唐突に口にした。「茨城に帰りたいのか?」

ダイブの写真切り抜き、誓った「数センチの借りを返す」 神奈川大・吉岡道泰(上)
劇的サヨナラ本塁打の直前、持丸監督と交わしたやり取り 神奈川大・吉岡道泰(下)

突然すぎて、選手は返答できなかった。「どうしてそんなことを言うんだろう」という雰囲気だったと思う。ノーサインで試合が進み、足元をすくわれるように0-3で敗れた。

当時の苦い記憶は、後輩たちに継承されていた。だから鳥栖商の直前、木内監督が「ノーサインでやるか」と言ったときは、選手たちの反応を試しているようにも聞こえた。主将の松林康徳(現・常総学院野球部長)が「サインを出してください」と即答した。誰も反応しなければ、私も言おうと思っていたが、立ち合い負けした。

門限に遅れ「セーフ!」と駆け込んだが……

今回の特集を作るための取材で、中央大学の皆川岳飛(1年、前橋育英)は「練習時間が2時間と限られてしまうので、空いてる時間を見つけて走ったり、バットを振ったり、自分でコントロールするしかなかった」と言い、とても共感した。わずか2時間で、今持っている技術を向上させようとしても限界がある。だから関西に来てからは、「コンディション維持」に努めた。そこで木内監督が編み出したのは「自由」という時間帯だった。

中央大学・皆川岳飛 「1点の重み」を痛感した甲子園の経験、今につなげる

各自の部屋のテレビで高校野球を見てもいいし(すみません、今だから言えますが、私は高校野球ではなく「キッズ・ウォー」を見てました)、体を軽く動かしてもいいし、選手間でミーティングをしてもいい。数時間、外出してもいいということもあった。宿舎の1階にスターバックスがあり、「キャラメルフラペチーノ」という単語をこのときに初めて知った。関西に住んでいた友人に会い、旧交を温めていると、外出の門限に遅れた。急いで宿舎に戻り、一塁ベースを駆け抜けるときのように「セーフ!」と叫びながら本部席に入ってみたが、余裕でアウト。判定は覆らなかった。

高3で初めて「フラペチーノ」を知った(写真は岐阜限定の一品)

序盤に雨で順延が続くと、終盤が窮屈に

大会の序盤に雨で順延が続くと、終盤は窮屈な日程となる。立教大学の小畠一心(1年、智弁学園)は「2連戦して、1日空いて、2連戦がしんどかった」と振り返っていた。気持ちは、とても理解できる。私たちの年からは4連戦を避けるために、準々決勝を2試合ずつ2日間に分ける予定だったが、日程が押した影響で、従来通りに1日4試合で行われた。日没後の時間帯が多い第4試合が多かったとはいえ、決勝まで4連戦となった。

それまでは、綿密なミーティングを重ねて相手の特徴を把握していたが、準々決勝から準決勝にかけては、全くできなかった。雨の影響で開始が午後6時ごろとなった準々決勝は、試合を終え、取材を終え、体操(甲子園では取材が終わり、帰りのバスに乗る前、コンディションを整えるための体操時間がある)を終え、宿舎に戻ったのは午後9時過ぎ。大会の終盤になると、疲れで食欲も落ち、白米と納豆と焼きニンニクばかり食べていた。関西入りの直後は「せっかく来たのだから」と、ビュッフェで様々なおかずを取っていたが、ホテル暮らしが20日間ほど続くと、食生活も原点に戻るらしい。

3回戦の静岡戦では変化球に食らいついてスクイズを決めた井上

勝ち上がるほど、重圧は小さくなる

私たちのチームは、大きな重圧を背負っていた。2003年の年明けに、木内監督があの夏限りでの勇退を表明していたからだ。「負けた瞬間に私たちだけでなく、約半世紀の間、監督を務めた名将の夏も終わる」という重圧は、高校生にとっては重かった。ただそれも、勝ち上がるにつれて小さくなっていった。「ここまで来れば、負けたとしても、誰からも何も言われないだろう」という後ろ向きな感情が先にきていたからだった。その点、明治大学の吉田匠吾(1年、浦和学院)のように、優勝した埼玉大会直後の監督退任発表だったら、また心境は違っていたかもしれない。

明治大・吉田匠吾 寝耳に水だった浦和学院前監督の退任、「あんなに愛情を持って…」

2年生エース・ダルビッシュ有(現・パドレス)を擁する東北(宮城)との決勝戦は、重圧とは全く無縁だった。チームの合言葉は「打てば孫の代まで自慢できる」。中盤までにリードできれば、あとは必死に追加点をもぎ取り、守り切る想定だった。

守備が終わってベンチに戻ると、責任教師の先生が毎回飲み物を渡してくれた。涼しい冷気が通る席に座り、自分でも水分と栄養補給には心を砕いた。後々聞いた話だが、ベンチ裏には大勢の理学療法士さんが待機し、「誰が水分補給したか、していないか」を細かくチェック。責任教師に助言していたそうだ。試合に集中しながらも、頭の片隅で「試合にのめり込みすぎて倒れるのは避けたい」とも思っていた。

ウィニングボールを松林主将(右)から受け取る木内監督(中央)

甲子園だから出会えた人たち、起こりえない出来事

振り返ると、第85回全国高校野球選手権大会は、自分自身を含めて多くの人たちの思いが凝縮された場所だった。甲子園だから出会えた人たち、起こりえない出来事も多かった。

決勝の前、甲子園のグラウンドで練習した後、室内練習場に戻ろうとしたら「翔太! 頑張れ!」と三塁側アルプス席から声をかけられた。兵庫県西宮市で幼稚園を卒園するまで一緒に生まれ育ち、同じ体操教室に通い、野球でも遊んだ幼なじみだった。テレビ番組「熱闘甲子園」では名前を2度間違えられ、試合前取材の場で関係者に何の気なしに指摘したら、本気で謝られ、逆にこちらが恐縮し、固有名詞を間違える怖さを知った(今の仕事につながっているかも)。

入社した朝日新聞社では8年半ほどスポーツの現場で、特にプロ野球を長く取材させてもらってきた。今は取材も、テキストの編集も、動画の編集も、写真の撮影も、サイトの運営も、SNSの運用もする「何でも屋」。4years.だけでなく、人工知能(AI)を搭載したカメラを使い、アマチュアスポーツの撮影と配信を担う「LiveA!」(ライブエー)という新規事業も担当している。ライブエーでは今年7月、国内で初めて野球の公式戦をAIカメラで撮らせてもらった。スポーツ記者のとき以上に「見たい人たちのもとへ情報を届ける」ことで、何かしらお役に立てればうれしい。

優勝を果たし三塁アルプスに向かって駆け出す井上(右手前)

そして今回、「あの夏があったから2022~甲子園の記憶」にご登場いただいた選手、取材を調整してくださったスタッフの皆さん、企画に賛同してくださったライターの皆さん、本当にありがとうございました。今後ともご活躍を期待しています。来年も是非やりましょう!

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