ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2023

早稲田大・鏡鈴之介 大けがで出られなかった4年目のシーズン、副将に与えられた役割

名門・早稲田の副将を務めた鏡(中央、すべて撮影・斉藤健仁)

2022年度、ラグビーの大学選手権で惜しくも準優勝に終わった早稲田大学ラグビー部。ほとんど試合に出られなかったものの、チームを支え続けたのが副将のLO(ロック)鏡鈴之介(4年、早大学院)だった。主将のFL(フランカー)相良昌彦(4年、早稲田実)に「下から上のチームまで経験しているので」とリーダーの一人に任命された「努力の人」。鏡の大学ラグビー生活はけがとの戦いでもあった。

Dチームからのスタート

3人兄弟の三男だった鏡は、5歳から中学までは野球をしていた。長男が大学でアメリカンフットボール、次男が中学はラグビーで高校以降はアメリカンフットボールをしていたため、高校入学時はアメリカンフットボール部に入部しようとした。だが佐々木奎介ら一つ上の先輩たちに惹(ひ)かれて、同じ楕円(だえん)球でもアメフトではなくラグビーを選んだ。

高校入学時、すでに身長が180cmほどだったため、FWの特にFL、LOなど「バックファイブ」でプレーした。ただ「花園」などの全国大会とは無縁で、最高でも東京都予選でベスト8だった。

高校の同期で大学でもラグビーを続けたのは、20人中5人。それでも多い代だった。「当初は大学ではやらないと思っていたのですが、ラグビーに誘ってくれた佐々木さん、大学でも試合に出ていた田中智幸さん、宮武海人さん、高校の渡邉千明監督も大学のラグビー部OBで、尊敬や信頼している人たちから『大学行ったら何やるんだ?』と言われ、続けることを決めました」

Dチームからのスタートだった鏡は、偶然にも1年目の10月くらいにラグビー部の寮に入ることができた。だが11月からはボールをまったく持たず、体を大きくするEチームへ。そこでウェートトレーニングに明け暮れた。82kgで入部した鏡は、4年生になる頃に105kgまで体重を増やすことに成功した。

SH齋藤直人主将(現・日本代表、東京サンゴリアス)が率い、大学選手権で優勝したチームを目の当たりにした。鏡は「モチベーションになりましたし、もちろん上のチームを目指していましたが、天と地くらい実力差があり、4年間通しても、上のチームにいけるわけないと思っていました。でも足らないところを探して、頑張ろうと思ってやっていました」と振り返る。

トレーニングの結果、体重を105kgまで増やして体を強くした

3年でチャンスをつかんだが、全治6カ月の大けが

2年時はBチームでスタートした。10月にあった対抗戦の筑波大学戦、同じポジションを務めていた先輩のけがもあり控えメンバーに入った。数分だったが初めてアカクロジャージーを着て公式戦に出場。「緊張しましたし、場違い感がありました。たまたま試合に出られたという感じで、うれしかったですが、全くなじめていなかった」という。

3年時に現在の大田尾竜彦監督が就任した。「選手を見る目がフラットになる」という話を聞いていたこともあり、アピールが功を奏し、Aチームでスタートした。春季大会は東海大戦で初めて「5番」を背負った。「4年間で、一番覚えているのはこの試合でした。Aチームで(先発で)出るのはすごい責任ですし、みんなの代表になったと思いました」

しかし直後の6月、レイトタックルを受けて右足首を脱臼骨折、全治6カ月の重傷を負った。2カ月間は地面を足についてはいけない、という状況からいろんな人のサポートを受けつつ、どうにか10月中旬に復帰した。再び一番下のチームから始まり、Bチームの一員としてジュニア選手権には出場したが、そのままシーズンを終えた。

3年春の東海大戦、鏡(右)は初めて5番を背負った

副将として理想だった先輩の姿

3年からリーダーグループである「委員」に入っていた鏡は、新チームになると「寮長など何かしらの役職に就くのでは?」と思っていた。ふたを開けたら、相良主将から副将に任命された。「150人いる組織で、副将の器ではないと思っていましたが、副将にもう一人SO吉村(紘)がいたし、僕はAチームで頑張りつつ、下のチームを支えるようにすれば、うまくチームがまとまると思い受けることにしました」

副将としての理想は、二つ上の代で副将を務めたLO下川甲嗣(東京サンゴリアス)だったという。「低学年のとき、幸重(天)さん、下川さんらの副将にすごくよくしていただいた。ただプレーがすごいとかではなく、憧れられている、影響力ある人が、いろんな人とコミュニケーションとることで、他人事ではなくなり、一体感が出るので、全員と満遍なく話すことを心がけてしました」

「調子が良かった」という鏡は、5月春季大会の明治大と東海大の試合に出場したものの、練習で左足のアキレス腱(けん)を断裂する大けがを負ってしまった。再び全治6カ月だった。秋の対抗戦の終わりの復帰を目指して、手術を受けた。すぐにリハビリを始めたものの、なかなか思うようによくならなかった……。

秋になってようやくアキレス腱の名医に診てもらうことができ、10月に再手術が決定。その瞬間、公式戦に間に合う可能性はゼロとなり、選手としての終わりが決まってしまった。「結局、気持ち的には(試合に)出られるか、出られないかだったので、また手術か……と。退院して11月くらいから、『自分にできることは何か?』という話を大田尾監督やコーチ陣と話して、役割をもらいました」

けがの影響で最後の対抗戦と大学選手権は間に合わず、その分チームを鼓舞した

「反面教師にして、春から最後を見据えてほしい」

試合に出られない鏡は、大田尾監督から言われた「その瞬間瞬間に、最大限できることをして、後悔することをしないように」という言葉を胸に、最後まで戦い続けた。コーチのような立場となり、全体練習で感じたことを話したり、選手に常に話しかけてモチベーションを上げたり、相手のラインアウトを分析したりと、チームを支えることに徹した。

「正直、ずっと歯がゆい感じはありました。僕はめちゃくちゃ負けず嫌い。たぶん吉村の次くらい(笑)。大学1年のときの『荒ぶる(優勝したときだけに歌うことができる第二部歌)』が格好良すぎました。自分も(決勝の)試合に出て勝ちたいと思った。そのために他の選手に負けたくないと思って頑張っていましたから……」

今季の早稲田大は対抗戦の「早明戦」には敗れたが、大学選手権で東洋大、明治大、京都産業大を破り、決勝の舞台まで進んだ。大田尾監督の狙い通り、大学選手権で成長を遂げたチームとなった。

大きな転機となったのは昨年12月11日の東洋大戦と、その1週間後にノンメンバーの4年生同士で対戦した明治大戦だった。「対抗戦の明治大に負けてから、チームの雰囲気が良くなった。僕らの代はあまり発信力のない学年でしたが、12月18日に4年生の早明戦があって、試合に負けはしました。100-0で負けてもおかしくないくらいのメンバーでしたが、本当に体を張ってくれて一生懸命やってくれた。チームに一体感が生まれたというか、グッとまとまりました」

しかし大学選手権決勝は3年前の再現はならず、帝京大に20-73で大敗した。鏡は「(試合に)出たかったというだけですね。ただ、すがすがしいくらいに負けたので、僕が出ていたとしても全然足らなかったな、と思いました」と淡々と話した。

大学1年時の「荒ぶる」を追い求め、苦しい時を乗り越えてきた

その帝京大の壁を越えるためには、どうしたらいいのか。鏡は後輩たちに「チーム力、組織力を考えると、春、夏の大事な時期の土台作りが一番大事。僕らの代はすごく要求されることがあって、個々にはやっていたが、春、夏はチームがあまりまとまっていなかった。反面教師にして、春から最後を見据えてほしい」とアドバイスを送った。

支えられていることを実感

入部当初はD、Eチームから始まり、Aチームになってもけがが多かった4年間。鏡は「Aチームになるまでは自分の努力で頑張ってきました。けがをした後は本当に親、コーチ、先輩、後輩、同期の全員が助けてくれて、いろんな人に支えられているなと実感しましたし、4年間経って、本音でそう言えるようになった。そこが一番の学びでした。だからこそ恩返しがしたい人が優勝を目指していた。引退が決まっていたので、うれしい悲しいという感情もあまりなかったですが、そういった人たちの手助けをできるかぎり一生懸命やっていました」としみじみと語った。

対抗戦での出場時間は、わずか数分間だった。しかし4年生として、副将として、最後まで仲間のため、チームのために鼓舞、行動し続けた姿は後輩たちの心に残ったはずだ。

今年2月に最後のアキレス腱の手術をした鏡は、大学でラグビー生活を終え、お世話になった一人だという同期のFB平田楓太(東筑)と同じ会社で、世界を舞台に商社マンとして働く。

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