野球

慶應義塾大・栗林泰三 浪人中に実を結んだ「インソール」研究、自作はスパイクの中に

桐蔭学園高校から一浪を経て慶應義塾大に進んだ栗林(試合の写真はすべて撮影・井上翔太)

バットのグリップを余らせて握り、どっしりとした構えからしぶとくヒットを重ねる。今春、慶應義塾大学の打線を引っ張っているのが、栗林泰三(4年、桐蔭学園)だ。3カード終了時点で打率はチームトップ。そんな栗林の基盤が作られたのが、ひたすら自分を高め続けていた浪人時代だった。

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目指す決め手となった中3秋の早慶戦

「あの半年間がとても大きかったです」。慶應義塾大の栗林は一浪をしていた時期をそう振り返る。現役で慶應と早稲田大学を受験したが不合格。浪人生活を余儀なくされた。

栗林が「早慶」を目指す決め手になったのは、中学3年の秋に観戦した早慶戦だった。「祖父が早大の出身で、それで(家族で)見に行こうという話になったのです」。4人兄弟の三男。長兄も早稲田大に進学し、弟は現在、早稲田の付属校に在籍。もともと身近な存在で「どちらかというと、早大志望でしたね」。

学業の成績も良かった。千葉市リトルシニアでプレーをしていた中学時代、毎週末に1時間かけて、実家のある木更津市から千葉市のグラウンドまで通っていたが、勉強もおろそかにしていなかった。主要5教科の評定は24だったという。

「早慶」に入るため、桐蔭学園高校に進んだ。「他の強豪校の選択肢もいくつかあったんですが、そこだと日本代表クラスにならないと早慶に行くのは難しいと聞きまして。文武両道の桐蔭学園の方が可能性は高いと思ったんです」。観戦した早慶戦で、桐蔭学園出身の茂木栄五郎(当時4年、現・東北楽天ゴールデンイーグルス)が出場していたことも背中を押した。

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高校最後の夏、慶應と対戦

高校時代はケガが重なり、レギュラーになったのは2年秋になってから。4番打者を任されていたが、甲子園は遠かった。2年秋は神奈川県で3回戦敗退。ノーシードで挑んだ最後の夏はベスト8止まりだった。

「自分自身も結果を出せませんでした。勝負どころで弱かったのはバッティングに迷いがあったからで、それを打ち消すための練習をしていたかというと、やり切れていなかった気がします」

ちなみに3年夏の準々決勝で対戦したのは慶應高校。同学年には慶應義塾大で「先輩」となる下山悠介(現・東芝)らがいた。「思えば、高校最後の試合で慶應と対戦したのは、何かの巡り合わせだったのかもしれません」

最後の夏が終わると「野球漬けの日々」に終止符を打ち、勉強中心の生活に切り替えた。だが、指定校推薦で受けた早稲田大も、慶應義塾大のAO入試も、いずれも不合格になってしまった。

高校最後の夏は慶應に敗れ「何かの巡り合わせだったのかもしれません」

インソールについてとことん勉強

慶大への思いが強くなったのは、浪人生になってからだという。

「身内に早稲田が多かったので、自然に早大が既定路線になっていたんですが、現役合格を果たせなかったのを機に気持ちが変わりまして。自分は慶應に行ってやろうと。反骨精神? そうかもしれませんね」

早稲田大のスポーツ科学部も受験するつもりだったが、比重を置いたのは、浪人生も受けられる慶應義塾大の総合政策学部・環境情報科学部(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス、略称SFC)のAO入試だった。ここでは「志望理由書」が合否の大きなカギとなる。

「SFCは学部の範疇(はんちゅう)にとどまることなく、何でも学べます。その分、何を学びたいか、具体的かつ明確に志望理由書に書かなければなりません。自分が体験した社会的な問題の解決策を考えた上で、それを世に打ち出していくための、こういう勉強をSFCでしたい、と」

栗林がテーマにしたのが、シューズの中敷き、インソールだった。高校時代は度重なるケガに悩まされたことから、「予防につながるツールを作りたい」「思い切りスポーツができる環境を作りたい」という思いがあった。SFCでは足に関することはもちろん、AIやスポーツ工学なども学べる。

自分の思いを論理的に落とし込むため、足やインソール、さらにはケガに関する本をたくさん読んだ。インソールの専門店や、インソールの研究をしている大学の教授のもとへ足を運び、現在の課題についての話も聞いたという。

「とにかく慶大に受かりたい一心で、とことん勉強しました。通っていた塾の先生からは『日本の19歳のなかで一番、足について詳しくなりなさい』と言われてましたが、そのくらい知識を積み上げたつもりです。足の骨格の模型も手に入れ、よくそれを動かしてました」

もちろん教科の勉強もしていたが、積み上げてきた知識には手応えがあった。「1対3の面接まで行けば(志望理由に関して)どこから質問されても答えられる自信がありました」

栗林は約半年間の猛勉強が実り、9月入学のSFCのAO入試に合格。晴れて慶大生になった。ただし年度途中では野球部に入れないことから、翌春までほぼ1人でランニングやトレーニングを続けた。「平日の昼間にキャッチボールの相手をしてくれる人はまずいないので(笑)孤独感もありましたが、むしろワクワク感のほうが大きかったですね」

半年遅れでSFCのAO入試に合格。翌春から野球部に入部した(撮影・上原伸一)

悔し涙を流し「目が覚めた」

大学で頭角を現すのは早かった。1年秋の開幕前に行われた社会人との対戦。栗林はスタメンに名を連ね、ヒットも放った。「これで秋からレギュラーだと、内心思っていたんです」。ところが現実は厳しかった。レギュラー定着はおろかメンバー入りもできず、初のベンチ入りは3年春だった。

「1年時、2年時と、目先の結果だけを気にしてました。自分に足りないものに目をつぶってもいましたね。今のままでもいけるんじゃないかと……」

ターニングポイントになったのは3年秋の早慶戦だった。勝ち点を奪えば優勝に手が届く中で、連敗を喫した。栗林は2回戦の途中から出場したが、2打数ノーヒット。チームに貢献できず、悔し涙がこぼれ落ちた。

「ようやく目が覚めたのはこの時です。自分はこれまで何をしていたのかと。浪人していた時は、志望理由書を通すために、合格するために、そのために何が必要か、いろいろな角度から必死に探していたのに、その経験が全く生かされていなかった。甘かったんです」

栗林は浪人時代と同じ意識で、自分のバッティングには何が足りないのか、とことん考え始めた。真っ先に行ったのが「言語化」だった。「どこかダメなのか、感覚で理解するのではなく、言葉にするようにしたんです。日頃から言語化しておけば、困った時にも何が原因か、たどり着きやすいので」

困ったときに原因までたどり着きやすくするため「言語化」にこだわる

そうすることで、今まで漠然としていたことがクリアになっていった。

「慶大には様々な打撃練習のドリルがあるんですが、その目的や意味もわかるようになり、堀井哲也監督から指摘されていたことの真意も理解できるようになりました。堀井監督には『俺は1年の時からずっと同じことを伝え続けているぞ』と言われましたが(苦笑)」

苦しいとき、山本晃大が励ましてくれた

技術の向上につながる情報を得るために、1カ月に1冊はジャンルを問わずに本を読む。「最近では、堀井監督が発する言葉の裏側にあるものを知ろうと、監督が書かれた『エンジョイベースボールの真実』(ベースボール・マガジン社)を読みました」。SNSもこまめにチェックする。主将の廣瀬隆太(4年、慶應)をはじめ、仲間にもよく打撃の話を聞くという。

ベンチ入りできなかった1、2年時。「練習に身が入らないこともあった」と明かす栗林に「腐るなよ」と声を掛けてくれたのが、1学年先輩の山本晃大(現・JR東海)だった。山本も埼玉・浦和学院高校から一浪して入学。栗林と境遇が似ていた。

3年時、大学で野球を終えようと思っていた栗林に「まだまだいける。頑張れよ」と励ましてくれたのも山本だった。3年までリーグ戦ノーヒットだった山本は、4年目にブレーク。春、秋連続でベストナインを獲得した。その姿は栗林が最上級生となった今、心の支えになっている。栗林も大学卒業後、社会人チームで野球を続ける予定だ。

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インソールの研究は、大学入学後も続けている。プレーにも生かし、自作のインソールをスパイクの中敷きにしている。「シューズは直接地面に触れるもので、ケガ予防とも密接な関係があります」

あの浪人の時期があったから、いまがある――。心からそう言えるよう、栗林は前を向いて戦い続ける。

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