九州大学WR/SF野原朝陽 10年間のフットボール生活を締めくくった連続タックル
2023年シーズン。九州大学アメリカンフットボール部パルーカスは、3年ぶりに九州リーグで優勝を果たして西日本代表決定戦に出場した。対戦したのは、全日本大学選手権の甲子園ボウルを5連覇中で、史上初の6連覇を目指す関西学院大学。両チームの地力の差は大きく、メンバーを入れ替えながら戦った関学が49-0で大勝を果たしたが、九大も王者にくらいついた。中でも輝きを放ったのが、WRとSFで奮闘した野原朝陽(4年、海陽学園)だ。野原は、23年シーズンの九州リーグMVPに輝いた。
攻守リャンメンで、王者関学に立ち向かった
試合前に九大のメンバー表を見て、高校アメフト経験者が何人かいることを事前に把握していた。関東や関西の強豪校ではないチームに進んだ選手がどんなプレーぶりを見せるのか。はたまた、未経験のアスリートが活躍するのか。そんなことを期待しながら試合前の練習から観察していた。
身のこなし、体形。突出した選手を見つけた。野原だ。立派な脚に分厚い上半身で、洗練された動き。アスリートとしてレベルが高く、学生界トップクラスの関学の選手と対峙(たいじ)しても、互角の勝負を見せた。実際に九大は攻守の要で野原を起用した。攻撃ではWRとしてメインターゲットを務め、幾度の捕球とそこからのランで好走し、守備ではSFから素早い上がりでナイスタックルを連発した。
攻守リャンメン(兼任)で出場したため、後半は痛んでベンチに下がることもあったが、試合終了間際には関学のパワー派RB大槻直人(4年、京都共栄学園)を真正面から連続してタックル。真っ向勝負に勝ち切り、ゴール前でタッチダウンを許さずに雄たけびを上げた。
九州リーグにもこんなに素晴らしい選手がいるのか。普段地方リーグの試合を取材する機会が少ない私にとっては、とても刺激的なものだった。
“やり残した感”が大学でも競技を続けるきっかけに
野原は沖縄県那覇市出身。小学生の頃、トヨタ自動車の販売会社に勤めていた父親の朝昌(ともまさ)さんに、海陽学園中等教育学校への進学を勧められた。海陽学園は2006年、トヨタ自動車をはじめとした複数の企業からの寄付金をもとに創立されていて、その縁があったからだ。
海陽学園では全員がなんらかの部活に所属することが義務化されている。それまでは水泳をしていたが、心機一転新しいスポーツに取り組むなら何が良いかを考えた時に、スタートラインが皆同じアメフトが候補に挙がり、入部を決めた。
チームメートには、のちに法政大学に進むOL岡野崇志、慶應義塾大学に進むQB水嶋魁ら大学でもアメフトを続けている仲間がいた。アメフト部の顧問を務める西村英明先生(現・校長)は、京都大学ギャングスターズの出身。指導はとても厳しく、部活を辞めたくなったことは1度や2度ではなかったという。「しんどいときも『頑張ろうや』と仲間同士で支え合って乗り切りました」。苦楽に満ちた6年間は、振り返れば良い思い出だ。
ポジションはWRとSF、LBをプレーした。高校の3年間では、東海地区の南山高に阻まれて全国大会に進むことはできなかった。このときの、“やり残した感”が、大学に入ってからもアメフトを続けた理由だと野原は言う。
「もともと西村先生の影響もあって、京大を目指していたんです。でも学力が足りなくて、高3の春に東北大に志望変更しました。前期入試で東北大に落ちてしまい、後期で九大に受かったんです」
京大ギャングスターズを夢見ていたが、志望先を変更する過程で1度はアメフト人生に区切りをつけるつもりだった。しかし、九大に入ったときはコロナ禍で友達も満足にできず「九大で頑張れば、関西の大学と対戦できるところまで行けるかも」と、再びショルダーパッドとヘルメットを手に取った。
学生主体で練習メニューやトレーニングを考案
九州にはアメフト部がある高校はなく、九州リーグの大学は経験者はもとより部員の数も少ない。九大は国立大学なので資金面でも恵まれているとは言えず、私立大学に比べると厳しい環境で日々鍛錬する必要があった。
「九大にはトレーニングジムがなく、みんなでお金を払って外部のジムに通っていました。そういう環境の中で、各自がしっかりモチベーションを高く持って強くならなければいけないのには、難しさがありました」
中高に続いて、攻守リャンメンが基本。加えて野原は、キッキングゲームでもキックカバーやパントリターンに出場している。野原のようなアスリートは貴重で、当然彼を中心としたゲーム展開になり、大きな負担が掛かる。試合の終盤になると、ダメージの蓄積からサイドラインに下がることも度々だ。ただ、その分だけやりがいも感じているという。
「僕は、高校のときに選手としてあまり良い思い出がないんです。覚えているのは高1のときに試合に出られるかもっていうタイミングでミスを連発してしまって、結局使ってもらえなかったこと。だから、大学に入ってからは真逆のフットボール生活という感じでしたね」
苦しいチーム事情だからこその喜びは、他にもあった。「未経験者が多いので、みんな本当に毎日成長しているんです。例えば今春のビデオとかを見ると、メキメキとうまくなってるヤツがたくさんいる。こういうのは、周りから受けるやりがいだなって感じていました」
学生が主体となって、練習メニューからトレーニングまでを自分たちで考えた。そこから得た学びは大きかったという。
最終学年で実現した「関西の大学と対戦」
「僕、実は関学の試合を(生で)見たことがなかったんです。見るよりも先に試合をしちゃったんで、最初は迫力に圧倒されました」
1年生のときは九州地区で優勝したが、コロナ禍だったために関西と対戦することはできず。その後の2年間は西南学院大学に負けて地区優勝はできなかった。そして最終学年。3年ぶりに優勝を果たし、関西との西日本代表決定戦に進むことができた。大学に入った時に立てた目標の一つ、「関西の大学と対戦する」という夢を実現した。
チームでは「九州制覇」を掲げてやってきた。しかし、いざ勝って関西とやるとなったときに、関学用のプレーやサインを導入するのに苦労したという。「平日はコーチも来られないので、全部自分たちでやる必要がありました。結果的に、この部分の詰めの甘さは出てしまいましたね。もう少ししっかりと準備ができれば、もっと納得感のあるプレーができたかもしれないです」。攻撃はタッチダウンを取れず。オフェンスリーダーとしては、悔しさが大きかった。
「レベルの違いを感じたというのが正直なところです。1stプレー、2ndプレーとボールを持って、5ydくらい出せると思っていたんですが……。それを上回る速さのパシュートで止められてしまった。びっくりしたっていう感じですね」
一方、試合の終盤には、ゴール前で関学のパワーバック大槻を、連続でタックルした。
「今振り返ると、あのシリーズが一番印象的だったのかなと思います。それまでは僕がオーバーフローしてしまって、内側を走られるって言うのが続いてて。スカウティングでも彼をどう止めるかっていうのはずっと話し合っていましたが、ずっと走られてしまっていました。でもあのシリーズで、そこを修正してバチッっと止めることができた。そんなに立派なことじゃないかもしれないですが、この小さな成功体験が僕にとっては4年間の集大成だったと思います」
こうして、野原の4years.は締めくくられた。
表彰選手として立った甲子園の舞台
海陽学園の同級生は関東と関西の1部、2部に散らばり、それぞれの舞台で活躍していた。彼らの姿をビデオ配信で見ることが、この4年間、大きな励みになっていたという。「自分は九州っていうちょっと離れた場所でプレーしていて、彼らと比べれば強いとは言えない地方ですけど、それでも仲間の活躍を見ることで頑張れました」
甲子園ボウルには、法政に進んだかつての仲間、岡野が出場。野原も各地区の表彰選手としてゲーム前に甲子園の土を踏んだ。このときの気持ちをこう振り返る。「アメフト人生のゴールとしては、これ以上ないものを得られたと思いました。プレーをすることはかなわなかったですが、違う形で甲子園のフィールドを踏ませてもらって、素直にうれしい気持ちと、これまで支えてくださった方々への感謝の気持ちでいっぱいでした」
同時にこんなことも考えた。「これまで一緒にフットボールをした高校、大学の同期、チームメート、監督やコーディネーターの方々の支えがなければ、あの場に立つことはできなかったはず」。自分だけが経験できたことについて、申し訳なさも感じたという。
卒業後は名古屋へ。父が販売で働いているトヨタ自動車の本体に勤めることが決まっている。「やっぱり、父の影響はありますね。もし決まっていなければ、留年するつもりでいましたから(笑)」
野原は今のところ、社会人でフットボールを続けるつもりはないという。しかし、この日見た彼の躍動する姿、悲喜こもごもの情景を思い返すと、次のステージでの活躍を見たいと思う。