陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2024

立命館大・桶谷南実 結果を求めて離れた親元、けがを繰り返し、気付かされた「視点」

けがに悩まされながらも競技を続けた立命館大の桶谷(撮影・井上翔太)

立命館大学の桶谷南実(4年、立命館宇治)は、高校時代から悩まされ続けた故障の影響で、大学では駅伝だけでなく、トラックレースにも出られなかった。最初で最後の出走レースとなったのが、2023年12月17日に行われた山陽女子ロードレース大会。年末の富士山女子駅伝を控えたチームに弾みをつけた彼女の競技生活を振り返ってもらった。

【特集】駆け抜けた4years.2024

「一番と言っていいぐらい、つらかった時期」に打ち勝ち

埼玉県草加市出身の桶谷は小学校3年生のとき、陸上競技を始めた。「他の人よりは足がちょっと速かったので、特技として生かせるんじゃないかと」。小学校の持久走大会は「すごいきつかった」思い出しかなかったが、クラブチームに入ると「嫌なきつさではなくて『もっと頑張ろう』というきつさでした」。タイムを設定して本数を決めたり、動き作りをしたり。少し本格的な練習をするだけでタイムが上がることが、何よりも楽しかった。埼玉県の強化選手に選ばれ、玉川大学の山田桃愛(4年、川口市立)と切磋琢磨(せっさたくま)していた。

玉川大学・山田桃愛 富士山女子駅伝で区間賞めざすインカレ覇者 白血病を乗り越えて

中学1年生のとき、ジュニアオリンピックに出場し、女子800mで2位に入った。しかもトップとは0秒23差で「あとちょっとで日本一になれる可能性が自分にもある」と自信をつけた一方、「1位と2位は全然違う」という悔しさも味わった。このときに感じた日本一への思いが、大学でも競技を続けられたモチベーションにもつながっている。全日本中学校陸上競技選手権には2年のときから出場。高校進学にあたっては「個人と駅伝の両方で結果を出したい。高校卒業後も大学で駅伝を走りたい」という理由から、立命館宇治を志した。

「不安よりもワクワクした気持ちの方が大きかった」と振り返る初めての寮生活。1年目から全国高校駅伝の1区や全国女子駅伝の2区を任され、順風満帆な競技生活を送っていたようにも見えるが、実は中学の卒業間際に手術を受け、思うようにいかないことも多かったと振り返る。「入学式の前日に退院して、翌日に京都に向かったんです。そこから1カ月間は練習も筋トレもダメと言われて、体重も落ちてしまいました。ようやく体を軽く動かせるようになっても、すぐに息が切れるし、今までの感覚とは違いすぎました」

高校1年時、全国女子駅伝で京都チームの一員として都大路を走った(本人提供)

練習できないもどかしさを抱えながら、親元を離れてまったく新しい環境に適応しなければならない。「陸上人生で一番と言っていいぐらい、つらかった時期」に打ち勝てたことで、その後の困難も乗り越えられた。

迫った試合に間に合わせては、その反動で故障

もちろん仲間や、その保護者の存在も大きかった。陸上競技部で寮生は桶谷だけ。そのため練習や試合で車が必要なときは、他の部員の保護者が運転する車に同乗させてもらい、帰りは寮まで送ってくれた。練習で一緒に走る集団からこぼれ落ちそうになったとき、先輩たちは特に厳しく「ここで遅れたら悔いが残るよ」と言葉をかけてくれた。「負けず嫌いなので『次は絶対に言われないようにしよう』と思っていました。でも、練習終わりには『大丈夫?』と優しく声をかけてくれるんです。先輩も先輩の保護者の方も、親身になってくださったので、それが心の支えになりました」

体に異変を感じるようになったのは、高校2年の終わりごろからだった。「足が痛くないのに痛い、みたいなよく分からない現象が起きました。普通は地面を蹴ったときに押せるんですけど、力が入らなくて足がそこで止まってしまうんです。自分でも原因が分からなくて、悩んでいました」。全国高校駅伝の出走も諦めなければならない、と覚悟した。しかし「ふと走れる」こともあり、このときは1区で出走。その後、疲労骨折してしまった。高3になると、インターハイの京都予選にはギリギリで間に合わせて3000mで2位になったが、近畿予選は棄権。目の前に迫った試合に合わせては、その反動でけがをしてしまうということを繰り返した。

高校2年のときにはインターハイに出場(本人提供)

チームを支える傍ら「次こそは自分が」

もう一度、栄養をつけて体を作り直し、大学ではイチから競技と向き合おう。そう考えていた桶谷にとって、大学1年目のコロナ禍はプラスに作用した面もあるかもしれない。競技会やレースが軒並み中止や延期となり、大会に間に合わせる必要がなくなった。「練習環境でモチベーションが左右されない」という性格も後押しに「2020年の3月に1度自宅へ戻って、4月から再び寮にいました。グラウンドも使ってはいけなかったので、寮の周りや道で各自練習するような形式でした。私はそのときも走れなかったので、歩いたり、補強したりでした」。練習再開への準備期間には、十分だった。

「走っていない期間が長かった割に、体力的にはすぐに戻ったので、自分の体を強くする期間だったと思っています」。コロナ禍をそう前向きにとらえた桶谷だが、仲間と一緒に練習すると、再びけがに悩まされた。「今までは『試合に間に合わせる』というけがの理由があったんですけど、大学ではそこにたどり着くまでの練習の段階で、もうけがをしていました。ジョグでペースを上げていないのに、また折れたのかと……」。高校時代から今にいたるまで、疲労骨折の回数は10回を超えたという。

それでも「けがさえ治ればチャンスがあるんじゃないか」と信じ続けた。全日本大学女子駅伝と富士山女子駅伝では「チームが日本一になるために、できることをやろう」と選手の付き添いをする傍ら、内心は悔しさを抱え、壮行会で出走メンバーが紹介されるたびに「次こそ自分が」という思いも持っていた。

「けがさえ治れば」。大学ではその一心で競技と向き合ってきた(撮影・井上翔太)

設定タイムを1分以上も更新した最終レース

その思いはかなわず、大学では駅伝もトラックレースも出場することができなかった。唯一のレースは、コーチから「絶対に立命館のユニホームを着てほしい」と促された昨年12月の山陽女子ロードレース大会。本番の約2カ月前にも疲労骨折してしまったことから「練習のジョグぐらいのペースで行こう」と臨んだが、思った以上に流れに乗れて、設定タイムよりも1分以上早かった。「けがをしても、やることをやっていれば走れるようになることを証明したいと思っていて、本当は最後の富士山で見せたかった。それはできなかったですが、競技に取り組む姿勢で、みんなにいい影響を与えたいと思っていました」。最後の富士山女子駅伝は最終7区の中地こころ(3年、立命館宇治)に付き添い、チームは4位入賞を果たした。

山陽女子ロードレース大会で初めて立命館大のユニホームを着た(本人提供)

競技者として「結果」を求めて立命館に進んだ。ただ、けがが続いた大学生活で「それだけじゃない」ことに気付かされたという。「それまで自分はサポートを受けることの方が多かったんですが、大学は逆で、走ること以外の部分を結構やりました。マネージャーもいなかったので、選手の試合エントリーを自分がすることもありましたね」。当時は葛藤もあった。ただ、競技者視点だけでは見えづらい部分にも目が届く「気付き」を得て、春から社会に飛び出していく。

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