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特集:駆け抜けた4years.2024

日本体育大・半田雄資 教員からプロに目標変わった4年間、春から当初の夢に突き進む

日本体育大の半田雄資は卒業後、教員になって指導者を目指す(すべて撮影・井上翔太)

日本体育大学男子バスケットボール部ライオンズの半田雄資(4年、八王子学園八王子)は、小学2年で神奈川県海老名市のミニバスケットボールチームに入ってから、アレセイア湘南中学校、高校と常にチームの中心にいた。ただ、大学では理想通りにいかないことも多く「バスケをやめたい」とまで思ったこともあった。春から教員になり、バスケの指導者をめざすという半田に4年間を振り返ってもらった。

【特集】駆け抜けた4years.2024

コロナの影響で「エッサッサ」できない世代

高校卒業後はもともと、本格的にバスケをするつもりはなかったという。「将来的には教員になって、担任を持って、部活のバスケを指導したいと思っていたんです。なので『関東1部ではもういいかな』と。他の大学に行こうとしたんですけど、ダメになっちゃって。滑り込みみたいな形で入学させていただきました」

高校3年の3月に入寮し、2週間ほど練習に参加すると、すぐにコロナ禍に見舞われた。寮を出て夏まで実家に帰省。しかし、地元の体育館を借りることはできず、バスケがまったくできなくなってしまった。「家の周りを走るとか、筋トレをするとか、たまにリングがある公園に行くとかするぐらいでした。それでもすぐに太っちゃって……。モチベーションが一番下がっていた時期だと思います」。夏ごろに練習が再開されても、最初は特にしんどかったと振り返る。

入学してすぐコロナ禍に。バスケができなくなり、モチベーションも下がった

1年目は授業もオンラインで、日体大独特の応援スタイル「エッサッサ」の実習も受けられなかった。2年のときに任意の実習案内が届いたが、バスケの練習もあり、参加できず。「僕らは唯一『エッサッサ』ができない世代です。他の授業も1年目は出された課題を提出すると、単位をもらえました。ずっとパソコンと1-1でした」

モチベーションを引き上げてくれた母親の存在

同期には現在、Bリーグ1部の千葉ジェッツふなばしでプレーする小川麻斗(福岡第一)がいた。高校時代から試合で絡むことはあったが、同じチームになると、改めてレベルの高さを実感させられた。「同じポジションで上手だし、尊敬する部分も、学ぶ部分もたくさんありました。一緒のレベルに達することができるように練習していたんですけど、なかなか試合に出してもらえず、差が開いてしまって、悔しい思いをしました」。バスケはプレータイムをどれだけもらって経験を積めるかが、選手の成長を左右する。同期にずば抜けた存在がいることで、悶々(もんもん)とすることもあった。

1年目の秋、練習にもあまり参加できず、当然ながら試合にも出させてもらえない時期があった。ミニバスから中学、高校と常に主力として活躍してきた半田にとっては苦しく、初めて「バスケをやめたい」と思った。全体練習が終わったら、すぐに帰る日々が続いた。半田のモチベーションを引き上げてくれたのは、母親だった。

「つらい気持ちも分かるけど、そこで逃げていたら、社会に出ても通用しない。指導する側になるんだったら、同じ気持ちになった子がいたときに、何をどう伝えるのか」といった趣旨のことを言われたという。「ここで腐ったら、僕も終わりだと思いましたし、指導する立場になったときに『やめてもいいんだよ』と伝えることになってしまう」と気付かされた。1年目の全日本大学バスケットボール選手権(インカレ)からベンチ入りメンバーに選ばれ、以降は一度もベンチを逃さなかった。

母親のおかげで、練習や試合に参加できない時期を乗り越えられた

小川麻斗が抜け「新たなライオンズを」

3年目のインカレが終わると、チームにとって大きな転機があった。小川のプロ移籍だ。当時の心境について半田は振り返る。「麻斗が抜けたから、日体大が弱くなったとは言われたくなかったので、永野雄大(4年、市立船橋)をはじめとした同期や学生コーチと『新たなライオンズを作り直そう』と話し合いました。後輩たちとも本当に仲が良くて、みんながバスケをやりやすい環境だったと思います」

成果はいきなり現れた。昨年春の関東大学バスケットボール選手権(スプリングトーナメント)で21年ぶりに優勝した。ルーキーの小澤飛悠(1年、中部大一)がのびのびとプレーし、「シックスマン」の大森尊之(3年、小林)が躍動。「後輩たちの勢いがすさまじくて、思いっきりの良さが、バチッとはまりました」。そう語る半田の表情はさえなかった。「僕はちょっとけがをしていて、結構メンタルやられてました。複雑な気持ちでしたね。何もできていないのに優勝して、僕だけ静まるのもおかしいですし……」

スプリングトーナメントが終わると、母校の八王子学園八王子高校へ3週間、教育実習に行った。そこでバスケのことは「いったんリセット」。けがも治り、チームに戻ってくると、最後のリーグ戦、最後のインカレに向けて取り組み方を変えた。朝練習を自主的に行い、ミニバスでやるかのような基礎的なドリブル練習を徹底し、ステップの踏み方などをイチから見直した。リーグ戦の序盤はスタートから出場し、プレータイムも増えていった。

最後のインカレを前に基礎を見直したことで、プレータイムが増えた

今までの人生で一番濃い時間

チームは13勝6敗の上位リーグ4位でリーグ戦を終え、インカレには2回戦から登場。しかし初戦の筑波大学戦にオーバータイムの末、73-75で敗れた。当時の半田はプロをめざしており「この悔しさをBリーグで晴らせばいい」とすぐに気持ちを切り替えたが、その後、教員になることが決まった途端に、悔しさがあふれた。「これで俺の選手としてのバスケット人生は終わりかと思うと……。そのときはだいぶ泣きましたね」

「最初は本当に苦しくて、今まで自分が経験したことのない世界を知って『やめたい』とも思いました。そこを乗り越えて、藤田将弘監督から『よくやった』と言われたときは、本当にうれしくて。今までの人生で一番濃い時間を過ごせたと思います」。教員からプロに目標を変更するほど、かけがえのない4年間を経て、半田は春から、当初に抱いた夢を追いかけていく。

プロ入りはかなわなかったが、「今までの人生で一番濃い時間を過ごせた」

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