ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2024

慶應義塾大・木村亮介 Fチームからつかんだ早慶戦の大舞台、16年間の愛塾心を胸に

誰よりも慶應ラグビーを愛した男・木村亮介(すべて撮影・慶應スポーツ新聞会)

2024年に創部125年を迎える慶應義塾大学蹴球部(ラグビー部)は、ルーツ校としての矜持(きょうじ)と責任を胸に、日本ラグビー界を引っ張ってきた。昨年は早稲田大学との「早慶戦」が100回の節目を迎え、改めてその歴史を感じさせられる1年だった。国立競技場のピッチには伝統ある黄黒をまとった23人の選手がいたが、その中で他の誰よりも慶應ラグビーを愛した男が、木村亮介(4年、慶應)である。幼稚舎から16年間の学生生活を慶應義塾で過ごし、ラグビーに励んだ。

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心に刺さった「君たち泣くほど練習したの?」

木村は小学校5年生の時、友人や先生からの勧めがあって幼稚舎ラグビー部に入部した。実はそれ以前に、一つ忘れられない経験をしていた。

「小学校3年生の時、クラス対抗のドッジボール大会があって。僕らは最下位だったんですけど、そのとき何人か泣いてる子がいたんです。そしたら担任の先生が、『君たちそんなに泣くほど練習したの?』と言ってきて、それが僕にめっちゃ刺さって」

当時の木村はこの言葉を、「頑張って負けた時にこそ涙が出る」と解釈した。普通部(中学)時代は最後の試合で大敗したため泣くことすらなく終わり、塾高でも泣けるほど頑張ったとはいえなかった。父親にそのことを話すと「大学は絶対にその経験ができるから、絶対やった方がいい」と背中を押され、「究極を体験したい」と覚悟を決めて大学蹴球部の門をたたいた。

幼稚舎から慶應一筋で「愛塾心」は心にしみついている

「ちくしょう魂」の下級生時代

大学でのラグビー生活は順風満帆なものではなかった。大学1、2年時は公式戦どころか、練習試合にも出ることができず、Fチームで汗水を垂らす毎日。2年生の時は2022年シーズンまで指揮を執った栗原徹・前監督から、「お前は自分で限界を決めている。そんなことやってたら一生上にはいけないぞ」と厳しい言葉をかけられた。それでも「『この野郎、何言ってんだこいつ』って。ちくしょう魂と呼んでるんですけど、監督にいろいろ言われて、見返してやりたいっていう気持ちがありました」。その後は限界を決めずにやっていこうと挑戦し続けた。それには二つ上の先輩の存在も大きかったという。

「僕の師匠的な方が二つ上にいて。その先輩は大学からラグビーを始めて、お世辞にもうまいとは言えない方だったんですけど、すごい頑張る人で。その人が死ぬ気で頑張って上を目指してるのを見てたら、腐ってらんねえなって」

ある日、その先輩から「一緒にやろう」と声をかけられ、少人数の自主練グループに参加した。過酷なトレーニングにともに打ち込んだ仲間は、今でも大切な存在だ。栗原前監督の厳しい言葉にも、「当時はそうだったかもしれない。今となっては感謝しています」と隠された愛情をくみ取り、精進を重ねた。

フランカーからプロップへの転向

木村は3年生の時、大きな転機を迎えた。高校3年生時より務めたフランカーに区切りをつけ、プロップへの転向を自ら打診した。当時のフランカー陣には2022年度主将の今野勇久など、経験や実績のある選手が多数いた。4年生で早慶戦にスタメン出場することを考えると、フランカーでは厳しいのではないか。自分の強みを最も生かせるのはプロップではないかと考えた末のことだった。一度は栗原前監督に止められたが、ある日帰ろうとした際、「きむ、お前いってみるか? 片道切符だけど、どうだ?」と言われ、「いきます」と一言。次の日からプロップに転向した。

「フランカーで結構ラグビーをしたつもりでいたんです。プロップになって、スクラムって僕は後ろから押すだけだと思っていたら、奥が深すぎて。考えることめっちゃ多いし、めっちゃきついし、ラグビーが100倍ぐらい面白くなりました」

プロップへ転向して1年目、公式戦出場は果たせなかったものの、練習試合や定期戦で試合経験を積み、目標に一歩踏み出せた大学3年目となった。

フランカーからプロップへの転向が大きな転機となった

「『慶應ラグビー』という組織が、大好きです」

そして迎えたラストイヤー。木村は4月からAチームに同行し、春季大会の初戦に出場。これが初の公式戦出場となった。この日を含めてAチームの試合に出場後は、休む間もなく直後のBチームの試合に出場するという「ダブルヘッダー」起用も多かった。負荷は相当なものだが、自分の実力をアピールするチャンスでもあり、日々の練習の真価が問われた。

「自分はAチームでは下の方なので、活躍したいけれどチームの勝利を一番に考えていました。Bチームでは自分が先頭に立って、チームをどう持っていくかというところでした。まだまだモチベーションの低い選手とか、そういう選手をどう鼓舞していくかという考えでやっていました」

自分とチームのために頑張る木村の努力が一つ、結果になって表れた。9月の対抗戦初戦、筑波大学戦で初のリザーブ入り。出場はなかったが、試合を見ていた栗原前監督からは「お前、ここまで来たか」と声をかけられた。それまでの道のりに「一度満足しちゃった」と言うが、現在の青貫浩之監督から「お前の本当の目標は何だ?」と問われると、「『早慶戦にスタメンで出て勝利する』という夢をかなえたい」という心に再び火がつき、「絶対にやったろう」と覚悟を決めた。

早慶戦の前日、ジャージープレゼンテーションが行われた。青貫監督が「1番、きむ!」と呼び上げ、木村の早慶戦スタメンが決まった。「はい!」と答えた木村は、部員全員の前で「慶應人生16年間すべてをぶつける」と抱負を口にし、「最後に、僕はこの『慶應ラグビー』という組織が、大好きです」と愛塾心を燃えたぎらせた。

「慶應ラグビーは125年の歴史があって、OBの人数も他の大学とは比べ物にならないくらい多くて。どこで試合しても先輩が応援に来てくれたり、外で食事中に『お前ラグビーやってんの? どこでやってんの?』と聞かれて『慶應です』と言うと、『俺もやってたんだよ、一緒に飲もうよ』と言われたり。そういう家族みたいなところがあって。幼稚舎生のときに大学生がラグビーを教えてくれたり、中学生のときに高校生と対戦したり、縦のつながりもあって。そこが僕すごい大好きなんです」

そして、早慶戦にかける思いは他の誰よりも強かった。

「絶対に対戦相手に負けてはいけないとか、逃げてはいけないとか、そういう教育を小1から施されてきたんです。友達もいっぱいいて、家族や今までお世話になったコーチ陣全員が来て、それこそ幼稚舎生も応援しに来てくれて。そういうのを見ると、絶対に負けられない、何としても勝ちたいという気持ちでした」

試合は惜しくも敗れた。しかし、2年生まで練習試合にも出場できなかった木村が、12年間抱いていた「早慶戦にスタメンで出場する」という夢をかなえた軌跡は、木村自身、そして木村を支えたすべての人の心に深く刻み込まれただろう。

昨年の早慶戦でアタックを仕掛ける木村

「練習ハ不可能ヲ可能ニス」を体現

昨年12月の大学選手権に敗れ、木村ら124代の引退が決まった。引退後は普通部ラグビー部のコーチとして、東日本大会優勝を目指している。今度は木村が慶應ラグビー人生で得た経験や財産を、後輩に伝えていく。「自分が受けてきたもの以上のものを返す」と意気込む木村が、後輩に一番伝えたいことは、自身がそうだったように「絶対に諦めるな」ということだ。「早慶戦」という最大の目標を掲げ続け、どんな困難があろうと仲間とともに乗り越えてきた。木村はまさに、小泉信三元塾長が残した「練習ハ不可能ヲ可能ニス」を体現した。

「努力100%でここまで来たと思っている」

2年生まではFチームでの日々が続き、試合には出られなかったが、目標を諦めることなく、ちくしょう魂と泥臭さを武器に、先輩との自主練や過酷なトレーニングに打ち込んだ。その結果、国立競技場で100回目の早慶戦という最高の舞台が用意された。木村の存在は、Aチームの選手はもちろん、これからAチーム入りを目指す選手や、一貫教育校の選手にも勇気を与えるだろう。木村自身も「きむさんが出られるなら俺もいける」と奮闘する選手が増えていると話す。「上が下を教えるという縦のつながりこそ、慶應義塾の強み」と語る木村に16年間養われた愛塾心は、将来の慶應ラグビーを背負って立つであろう後輩たちに、受け継がれていく。

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