アメフト

特集:駆け抜けた4years.2024

関西大LB曽山天斗 高校生にボコボコにされた未経験者が、関学戦勝利を支える存在に

関西大のLB曽山天斗(47番)はずっと鈴木怜央(44番)を追いかけてきた(撮影・篠原大輔)

2023年の関西学生アメリカンフットボールリーグ1部は関西学院大学、立命館大学、関西大学の3校同率優勝で終わった。3校の主将による抽選の結果、関学が「1位相当」を引き当て、全日本大学選手権進出を決めた。関大はその13分ほど前に終わった試合で16-13と関学を破ったが、ここでシーズンが終わった。関学戦で7タックルの活躍だったLB(ラインバッカー)の曽山天斗(そやま・たかと、4年、常翔学園)は「甲子園ボウルに出られなかったのが、いまだに悔しい。すがすがしさより悔しさが勝ってるっす」と正直に明かす。

【特集】駆け抜けた4years.2024

小学1年から高校3年までサッカー

あの関学戦はディフェンスの勝利だった。中でも序盤から動き回り、タックルを繰り返したのが第2列に構えるLBの曽山と鈴木怜央(れお、4年、関大一)だった。大学からアメフトを始めた曽山に対し、鈴木は高3の冬にU-18日本高校選抜チームの一員としてアメリカのテキサス州へ遠征。インターナショナルボウルでアメリカU-17ナショナルチームを下した経験を持つ。曽山は常に鈴木を意識してきた。「アイツがどう思ってるか分からないですけど、とくに4年の秋はアイツに負けたくない気持ちがほとんどやった」と打ち明ける。そして最後の最後に肩を並べるようなプレーができた。

4年生の秋シーズン、曽山の登録サイズは身長171cm、体重84kgだった。「ほんまは170ないぐらいです」と明かす。大学3年のときに関西1部ベストイレブンのキッカーに選ばれた曽山は、小1から高3までサッカーに打ち込んでいた。

身長170cm足らずの曽山がアメフトはサイズだけでは決まらないと示してくれた(撮影・北川直樹)

大阪府北東部にある交野(かたの)市で生まれ育った。小学校に上がるときに交野フットボールクラブ(FC)に入った。1学年40人ほども集まる大所帯。曽山はこのころは周りの子に比べて大きく、さまざまなポジションを任された。飛び級で4年のときに5年の試合にも出た。「デカかったんで期待だけはされてました。DFで出てて負けてたら最後はFWに上がって。まあ、それで点取ったことは一回もないんですけどね」。大阪人らしく、笑いを忘れない。

中学生になると電車で1時間ほどかけて、親が見つけてくれたエルマーノサッカークラブに通った。「交野FCでちょっとうまい子は遠くのチームへ行くってのがあるあるやったんです」。1年のときは学年リーダーを託される存在だった。「でも2年から怪しくなって、3年はスタメンじゃなかったです」。それでもスポーツ推薦で大阪市旭区にある常翔学園高校に進んだ。1年生のころは朝7時から淀川の河川敷にあるグラウンドでトンボがけ。2人一組で1時間かけてグラウンドをふかふかにした。

3年のときは部員が123人いる中で、ベンチ入りの20人に20番目で入っていた。全国高校選手権の大阪府予選はベスト16進出をかけた5回戦で、前年優勝の大阪学院大高校と対戦。ともに無得点でPK戦となり、3-4で負けた。その瞬間、曽山は「やっと終わったな」と思った。「もう指定校推薦で関大に進むのが決まってて、関大のサッカー部はレベルが高すぎて無理やなっていうのはありました。さらに高校サッカーが終わった瞬間の気持ちが『やっと終わったな』やったんで、もうサッカーはやめることにしました」

低く入って、つかまえたら離さない(撮影・北川直樹)

「何がやりたい?」「タックルがしたいです」

曽山にとって高校サッカーが終わった日の4日前、関大カイザーズは17-14で9年ぶりに立命館大を下していた。引退が決まって大学で何をやろうかと考え出した曽山のスマートフォンに、関大スポーツが作った動画が流れてきた。「キャプテンがみんなの前でしゃべってるシーンがカッコよかった。ナイターの試合やったんで、とくにカッコよく見えた」と曽山。興味を持ち始めたところに、「アメフトは大学から始める人が多くて試合にも出やすい」という趣旨の文章をSNSで見つけた。「これにかけてみようと思って、親にも相談してアメフトに決めました」。2020年4月に入学すると、すぐに新型コロナウイルスの感染拡大で練習自粛の期間に入り、再開した6月に入部した。

確かに新入部員の半分弱がアメフト未経験者だった。しかし前述の鈴木を始め、DB(ディフェンスバック)の須川宗真(佼成学園)、WRの横山智明(関大一)、OL(オフェンスライン)の向井亮輔(関大一)がその年の1月に日の丸を胸にアメリカでの戦いを経験していた。日本を代表するような選手たちとやることになるとは思っていなかった曽山は驚き、必要以上に彼らを別格扱いしたところがあったという。

初めて防具を着けたときに想像以上の違和感があり、「やばい。来るとこ間違えた」と思った。スタッフの先輩が2週間ほど未経験者組に付きっきりで教えてくれて、ポジションを決めることになった。「何がやりたい」と聞かれた曽山は「タックルがしたいです」と返した。ディフェンスだ。体が小さい曽山はDBの中でもニッケルと呼ばれるポジションで練習を始めることになった。同じような身長の鈴木も高校ではLBだったが、大学ではニッケルでやっていくことになった。

1年生の夏はコロナの関係で一度に練習できる人数に制限があった。8月に入り、圧倒的に経験値が足りない曽山はコーチから「一高の練習行ってこい」と言われた。もう一人の未経験新入部員とともに、隣にある関大一高まで行って練習に入れてもらった。いきなり試合形式の練習に入れられ、高校生のOLにぶっ飛ばされた。「ボコボコにやられました。3回ぐらいアオテンさせられた」。アオテンとは仰向けに倒されること。「めちゃくちゃ屈辱的で。友だちのチャリを借りて一高まで行って、大学の部室に戻ってきたら、20分ぐらい動けませんでした。悔しさと当たりを食らいまくった体がほてって、ほんまに動けんかったす。あと2回ぐらい行ったんですけど、毎回やられました。いまでも覚えてます」。この悔しい経験が、曽山のアメフトの原点だ。

最初は高校生にも歯が立たなかった(撮影・北川直樹)

藤本昌也さんのようなLBになりたい

一方で12年間のサッカー人生で培ったキック力を買われ、キッカーの練習も始めた。基本的に右利きだが、小学生のころに「サッカーでは左利きの方が重宝される」という親の見立てで猛練習を課され、レフティーになった。蹴るのと、なぜか歯ブラシだけは左だそうだ。

大学1年の冬、新チームへ移行するタイミングで和久憲三ヘッドコーチ(HC)に直訴し、ニッケルからLBにコンバートしてもらった。「ニッケルはレシーバーとマンツーマンすることがあって苦手だったし、LBの方がタックルするチャンスが多い。それに3学年上の藤本昌也さん(現・関大コーチ)が僕ぐらいの身長で関西を代表するようなLBとしてバリバリやってはったんで、僕もやってみたいなと思って。まあ鈴木が1年の秋からLBにいったんで、それに合わせてという感じですね」。ここから鈴木の背中を追う3年間が始まった。

初めてLBとして試合に出たのは2年の夏、京都産業大学とのJV戦(控え選手中心の試合)だった。「スターターで出ることになって、やったろか、みたいな感じでいきました。確か2タックルで、当時の僕からしたら上出来です。フィールドゴール(FG)のキッカーとしても初めてスタートで出て、全部決めました」。まだ練習の人数制限があったので、秋はチームをAとBに分けて練習していくことになった。曽山はLBとして成長した自覚もなかったが、主力組のAに入れた。「ビックリしました。頑張るモードに入りました」。ただ、その秋はまったくフィールドに立てなかった。LBは当時3年生の前野貴一(関大一)、仲村優志(大阪学芸)が二枚看板で、鈴木が交代出場を果たしていた。鈴木の背中が遠くなった。

ボールを蹴るのと歯ブラシだけは左利き(撮影・北川直樹)

キッカーとして開花した3年目

3年になり、曽山にキッカーとしてのチャンスが訪れた。春の関学戦は7-7で引き分けたが、序盤に先輩のキッカーが34ydのFGを外していた。この試合のあと、「秋は曽山でいく」という話になった。和久HCは「LBで見放すわけじゃないけど、今年はキッカーで頑張れ」と言ってくれた。「そこからが地獄でした」と曽山は顔をしかめる。当時は全体練習が終わったあと、スナッパー、ホルダー、キッカーの3人だけがセットし、残りの部員たちが周りを囲んだ状況でFGを蹴るのが恒例だった。スペシャリストの3人に対して、周りから「これ外したら終わりやぞ」「またキックで負けるんか」との罵声が飛ぶ。そんな中で蹴り、キックが外れた本数分だけ、全員がサイドラインからサイドラインまでの約54ydをダッシュするのだ。「僕は最高で7本走らせたことがありました。あれがつらくて……」。家から大学に向かうとき、いつも吐き気をもよおしていた。

何とか乗り越えられたのは、同期のひとことで心に火がついたからだ。ある日の練習後、曽山がFGを外して落ち込んでいると、WRの井川直紀(いかわ、関大一)が曽山の肩をポンとたたいた。曽山は「ああ、なぐさめてくれるんやな」と思った。すると井川は「悔しがる権利はやったヤツにしかないで」と言った。「いまならあれがアイツの優しさだと思えるんですけど、当時はそんな余裕ないじゃないですか。『なんやねんコイツ』と思って、悔しくて悔しくて頑張りました」。もちろんLBの練習も続けていた。

そして迎えた3年秋のシーズン。ついに曽山が関西学生リーグのフィールドで躍動し始める。47番が左足を振り抜くたび、関大の得点が増えていった。立命館に勝ち、関学に負けて2位。関大が「指定席」の3位からはい上がったのは3校同率優勝の2010年以来だった。

3年秋の立命館戦。この2本目のFGを決めて「完璧でいたい」という気持ちが出て、3本目を外した(撮影・篠原大輔)

関西学連の資料には2022年秋、曽山はFGを8回蹴って7回成功し、タッチダウン後のキックは20回すべて決めたと記載されている。だが、この20回は21回の間違いだという。「ホルダーの人が蹴ったことになってて……。あの間違いがなかったら、僕がスコアリングで単独1位の平松的さん(当時立命館大4年のRB)と並んでたんです」と曽山。その先が面白い。「キッキングコーディネーターの吉田(光一)さんと話してたんですけど、将来おっさんになったときに『探偵!ナイトスクープ』で調べてもらおうかと思ってます」

大阪人らしいアイデアに笑ったが、気になるので調べてみた。公式記録をさかのぼると、甲南大学戦の二つ目のタッチダウン後のキックを決めたのが、ボールをセットするホルダーのQB中島武(当時4年、駒場学園)であり、キッカーの曽山がホルダーをしたことになっていた。そのキックを映像で振り返ると、もちろん曽山が蹴っていた。曽山はこの2022年秋シーズンの関西1部ベストイレブンに選出されたが、本来はスコアリング1位のタイトルも付いてくるはずだった。

曽山が3年のシーズンで目指していたのが「キッキング完メン」だ。FGを蹴るだけでなく、キックオフカバーのフロントメンツ、キックオフリターン、パントカバーのフロントメンツ、パントリターンでもフィールドに立つことを意味する。「それが渋いと思ってました。完メンをやれた試合もありました」。伝統的にキッキングゲームを大事にする関大の選手らしい。大きく返した立命館戦の試合開始のリターンでも、47番はいいブロックをしていた。

誰よりも相手を研究した

迎えた大学ラストイヤー。キッカーには190cmの長身で飛距離の出る中井慎之祐(2年、関大高等部)が台頭してきた。そしてLBは前野、仲村という大学フットボール界を代表するようなコンビが抜けた。曽山はLBにかけようと思っていた。ただ強豪チームならどこでもそうだが、高校までの未経験者がディフェンスの出来を左右するLBのスターターになるのは難しい。4年の春の初戦は先発から外れた。ディフェンスの中心選手となっていた鈴木は、もちろんスターターだった。

曽山も春の2試合目からLBのスターターで出られるようになった。曽山は後輩とのローテーションで、鈴木は出ずっぱりだった。鈴木は線こそ細いがフットボールのセンスに裏打ちされたプレースピードがあり、タックルもうまい。曽山は鈴木に負けていられないと必死でやっていたが、「どうしてもアイツと比較してしまうんで」と、自分がうまくなれた実感は最後までほとんどなかったという。

関大の小さなLBふたりは最終的にお互いをたたえあった(撮影・北川直樹)

LBとして傑出したものがない曽山はフィールド外でもやれることをやろうとした。3年の夏に体重を増やしたくて1日5回もプロテインを飲んでいたら、とんでもない腹痛に襲われて2週間入院した。最初の3日間は断食で、2週間後に85kgあった体重が72kgまで落ちた。これは努力の方向を間違えた例だが、頭で勝負しようとしたことでLBとしての視界が開けた。チームが導入している映像や分析結果を共有できるサービスで、曽山は常にチーム内の視聴時間ランキングの1~5位に入っていた。「日々の練習とか対戦相手の過去の試合とか、ずっと見てました。相手の癖が分かったことも何度もありました」

そしてついに最後の秋シーズンがやってきた。初戦の甲南大戦から、関大は鈴木、曽山の4年生コンビをLBのスターターに据えて戦った。「自分らは弱いと分かってたんで、毎試合全力で勝ちにいきました」と曽山。開幕4連勝で最初のヤマである立命館戦。関大はDLが押されたことでLBの鈴木と曽山が思うように動けず、ランプレーで主導権を握られた。計251ydも走られ、27-38で負けた。「あんなに気持ちで圧倒されたのは初めてでした。正直言って、はよ帰りたくなりました」

4年秋の立命館戦は関大ディフェンスにとって点差以上の完敗だった(撮影・北川直樹)

チーム全体が初黒星を引きずったまま、次の京都大学戦に備えていた。その前日に関学と立命が戦い、立命が勝てば関大の全日本大学選手権進出はなくなるという状況。カイザーズの面々は全員で観戦に行った。「関学が勝った瞬間、『生き返ったなあ』って言うたのを覚えてます。そこから立て直した感じでしたね」。34-10で京大を下し、いよいよ関学戦だ。4年間のすべてをかけた戦いを前に、曽山は京大戦で左手首を痛め、左手にほとんど力が入らない状態だった。

試合の3日前、曽山は磯和雅敏監督と向き合った。監督は「片手(しか満足に動かない)のお前と両手の後輩2人とどっちが上やねん」と尋ねた。曽山が即答できないでいると、「お前の言う通りでいくから」と監督。曽山は「いかせてください」と返した。監督は「じゃあ期待してるわ」と言って去っていった。痛みが残ったまま決戦の日になった。痛み止めの注射ができない箇所だったので、鎮痛剤を飲んでフィールドに立った。

序盤から目立ちまくった関学戦

立命館戦の反省から、関大ディフェンスは関学のランに対してこんなスタンスで臨んだ。DLの4人とLBの曽山は自分でランナーをタックルすることは考えず、OLに決して押されないことに力を注ぐ。そしてLB鈴木が自由に動いてタックルする。蓋(ふた)を開ければ関大のランストップ策がはまり、1試合を通じて鈴木だけでなく曽山もDBの面々も自在に動いてボールキャリアーを仕留めた。曽山はタックルを決めると全身で喜びを表現した。試合巧者の関学も次の一手を出せなかった。

16-13と関大リードで迎えた試合残り1分17秒、前進してきた関学はゴール前21ydからの第1ダウンとなった。後退さえせずFGを決めて同点で終われば単独優勝だ。しかし仕掛けてくる関大ディフェンスの前にミス。続く第2ダウン17ydではブリッツで入った曽山がRBにロスタックルを決め、派手にガッツポーズ。第3ダウン20ydでは鈴木と曽山がクロスしてブリッツに入り、2人でQBにロスタックルを決めた。このとき珍しく鈴木が曽山に呼びかけ、2人で喜び合った。第4ダウン25ydのロングパスも防ぎ、カイザーズに歓喜の瞬間が来た。

関学戦の最終盤。曽山が上から、鈴木が下からQB鎌田をタックル(撮影・北川直樹)
関学を下し、関大の和久ヘッドコーチは感情を爆発させた(撮影・北川直樹)

「あのシリーズは、どうでもええからタックルしようと。あんなに『仲間のために』って思ったことなかったですね。めっちゃ体が動いたし、ミスする怖さなんか全然思わんかったす」。確かに関学戦最終盤の曽山の動きはキレキレだった。いわゆる「ゾーン」に入っていたのかもしれない。それに、研究熱心な曽山が相手の癖を見つけていたというのは前述したが、最後の関学戦でも相手オフェンスの複数人の癖を把握してチームで共有しており、実際に役に立ったという。

「情に厚い仲間たちに囲まれて幸せでした」

最後にカイザーズでの思い出を語ってもらった。「情に厚い仲間たちに囲まれたのが幸せでした。嫌いなヤツなんか一人もいないです。フットボールを好きにさせてくれたのもよかった。引退してからもめっちゃ見てますもん。和久さんとの出会いも大きかった。1年のときからめちゃくちゃ気にかけてくれました。僕は練習を抜けるのが嫌で、少々のけがなら入ってたんで、『お前痛みに強いな。ええぞ』って言ってくれて。ほんまに好きです」

大学からアメフトを始め、最初は高校生にもボコボコにされた。でも、あきらめずに少しずつのし上がって、最後の最後の関学戦で輝いた。2023年のカイザーズには、愛すべきたたき上げのラインバッカーがいた。

関大LB曽山の4年間は、大学からアメフトを始める新入生のいい手本になる(提供・関大スポーツ編集局)

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