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特集:あの夏があったから2024~甲子園の記憶

青学大・北條慎治 花巻東の信頼関係が最後に出た猛追、合言葉は「麟太郎まで回すぞ」

2023年夏の甲子園で力投する花巻東時代の北條慎治(撮影・竹花徹朗)

菊池雄星(アストロズ)や大谷翔平(ドジャーズ)、西舘勇陽(読売ジャイアンツ)、そして佐々木麟太郎(スタンフォード大学)と、次々に大物選手を輩出する花巻東。青山学院大学の北條慎治(1年)は、この系譜に続く逸材として期待されている。高校で「背番号1」を背負って4番打者を任され、大谷と同じ「投打二刀流」の道を歩むかと思われたが、大学では投手一本に絞って勝負を挑んでいる。

【特集】あの夏があったから2024~甲子園の記憶

上下関係がないチームの雰囲気に「ノビノビと野球ができる」

もしコロナの流行がなかったら、中学時代に日本一を経験できていたかもしれない。

北條は岩手県大船渡市立第一中学の軟式野球部出身。チームのOBには佐々木朗希(千葉ロッテマリーンズ)がいる。ここに、仁田陽翔(仙台育英から立正大学)、佐々木朗希の弟・怜希(大船渡から中央大学)、そして北條と、近隣の小学校から有力選手が集まってきた。エースは仁田で、北条は4番ファースト。だが、この時期はコロナ禍の真っただ中。大会は軒並み中止となり、彼らは力を試すことなく中学野球を終えた。

北條は中学3年時に身長が180cmを超えていたが、投手としては仁田が突出しており、中学時代は野手に専念していた。右ひじの故障を抱えていたため「投げることがちょっと怖かったんです」と、自ら望んで投手をやろうとはしなかった。それでも地域の選抜チームに行った時、監督から「投げられるよな?」と言われ、マウンドに上がる機会があった。

白球を追った高校時代を振り返る北條(撮影・矢崎良一)

その選抜チームで登板した試合を、たまたま花巻東の佐々木洋監督が観戦に来ていた。「この子には伸びしろがある」と佐々木監督の目に留まり、誘われた。大船渡一中のチームメートとは「みんなで地元の大船渡高校に行こう」と言い合っていた時期もあったが、仁田が仙台育英に進学することが決まり、北條も「強豪私学で甲子園を目指したい」という気持ちが芽生えていた。花巻東の練習を見学した際、上下関係がないチームの雰囲気を感じ、「ここならノビノビと野球ができる」と思ったという。

仙台育英が「東北勢初優勝」を成し遂げた2年夏の心境

入学当初は佐々木麟太郎をはじめとする硬式出身の選手たちの体力とパワーに圧倒されていたが、何カ月間か一緒に練習するうちに、その差がだんだんとなくなっていった。1年目の夏の大会が終わり新チームがスタートすると、北條は佐々木麟太郎や後に主将となる千葉柚樹(現・筑波大学)らとともに、上級生に交じってメンバー入り。チームは東北大会で優勝し、翌春の第94回選抜高校野球大会への出場を決めた。

選抜はベンチ入りしたが登板機会はなく、1回戦で市和歌山に4-5で惜敗。その後、肋骨(ろっこつ)の疲労骨折など故障が続き、登板機会が減っていった。

最後の夏の甲子園では「背番号1」ながら野手としても活躍した(撮影・白井伸洋)

2年目の夏は岩手大会の準決勝で齋藤響介(現・オリックス・バファローズ)を擁する盛岡中央に2-3で敗れた。自分たちが出場を阻まれた夏の甲子園で、仙台育英が東北勢初の優勝を成し遂げる。

「仙台育英には(前年)秋の東北大会で勝っていたので、じゃあ自分たちも出場していたら優勝できたんじゃないかと言い合って、みんな結構悔しがってました。僕も悔しさはありましたが、(仙台育英に)仁田がいたので、正直、うれしいという気持ちもありました」と北條は打ち明ける。仁田はこのとき、仙台育英が誇る強力投手陣の一角として、甲子園で147キロを計測し注目を集めていた。

東北勢初優勝については、「東北の人間にとって、東北の高校が優勝したのは大きなことではあるのですが」と言いながら、そこまで大きな感動はなかったという。近年は仙台育英や花巻東だけでなく、八戸学院光星(青森)や聖光学院(福島)など、東北の高校が甲子園で上位に進出している。それだけに、東北大会を勝ち抜くのも容易ではない。その中の代表として仙台育英が頂点に立ったという受け止め方をしている。

花巻東を卒業後は名門の青山学院大で野球を続けている(撮影・矢崎良一)

「不思議な感覚」の打席、「楽しくなった」マウンド

3年生の夏、北條は初めて「背番号1」を背負った。1学年下の小松龍一(現在3年)の成長もあって投手層に厚みが増し、北條は岩手大会で2試合、わずか6イニングしか投げなかった。だが、打者としてチームに欠かせない存在に。開幕時の打順は5番だったが、打撃が好調で、岩手大会の決勝から4番に座り、甲子園でも4番を打ち続けた。佐々木麟太郎が3番にいるだけに、後ろを打つその役割は重要だった。

初戦の宇部鴻城(山口)戦。3番の佐々木が打席に立つと、甲子園が異様な雰囲気に包まれた。スイングするたびにどよめきが上がり、ネクストバッターズサークルの北條にも「うぉー」という地鳴りのような歓声が降り注ぐ。「なんだこれ」と、思わずスタンドを見上げていた。

逆に自分が打席に入ると、スタンドが静かになる。「不思議な感覚でした」と北條。甲子園では4試合を戦い、14打数6安打だった。投手としても2回戦のクラーク国際(北北海道)戦で先発。子どもの頃から憧れていた甲子園のマウンドだった。「めちゃめちゃうれしくて。でも、めちゃめちゃ緊張して、生まれて初めて自分の心臓の音が聞こえました。それでも初回を抑えたら落ち着いて、あとはもう投げるのが楽しくなって」

佐々木麟太郎の後ろで甲子園で打つことは「不思議な感覚」だった(撮影・金居達朗)

6回を4安打無失点に抑えてマウンドを後にし、レフトの守備についた。

「ベンチで監督から『まだ行けるか?』と聞かれるたびに『行けます』と答えて、最後は『この回で交代するから』と言われたんですけど、『えー、もっと投げられるのに』と思ってました」と楽しそうに北條は振り返る。

仙台育英戦後、仁田陽翔から届いたメッセージ

ベスト8に勝ち上がり、準々決勝の相手は組み合わせ抽選により仙台育英になった。開会式の入場行進前、室内練習場で待機していた時に、仁田と「もし戦えたら、俺たち対戦したいな」と言葉を交わしていた。「本当はもうちょっと上、決勝戦とかでやりたかったですね」と苦笑する。

試合は中盤に仙台育英の打線がつながり、大量得点。北條も四回からリリーフで登板したが、勢いを止めることができずに失点を重ねた。七回を終えて9-0と一方的な展開となった。

八回裏の攻撃前、ベンチ前の円陣で、佐々木監督は選手たちにこんな声をかけた。「このまま終わっちゃいけない。1点でも2点でも取り返して、何とかあらがっていこう。自分たちらしい姿を見せていこう」。九回裏、北條は最初の打者として打席に入った。「どんな形でもいいから、出塁することしか考えていなかった」。四球で出塁し、そこから怒濤(どとう)の猛追が始まった。

花巻東はヒットを連ね、得点を重ねていく。選手たちは口々に「麟太郎まで回すぞ」と言い合っていた。八回は佐々木で攻撃が終わっていたので、9人目の打者になる。それは奇跡を願うようなものだった。それでも、佐々木自身がそれを諦めていなかった。守備を終えてベンチに戻ると、すぐにバッティング用の手袋をはめ、打席に立つ準備をして、ベンチから声を出し続けていた。

北條はホームに生還した際、スライディングでユニホームが破れてしまった。ベンチの裏で予備のものに着替えていると、チームメートが「また点が入ったぞ。早く戻ってこい」と伝えに来た。どの選手も「このまま逆転できるのでは」と思い始めていた。「チームの信頼関係が最後に出たと思っています」と北條は誇らしげに言う。

2死になっても攻撃は続き、ついに佐々木まで打順が回った。大歓声の中、佐々木は積極的に打ちにいったが、打球はセカンドへのゴロ。一塁へのヘッドスライディングも及ばず、審判がアウトをコール。北條はネクストでその瞬間を迎えた。「細かい場面とかは、あまり覚えていないんです。でも、あっという間に進んでいたゲームが、この回だけ、ゆっくりゆっくり進行しているように感じられました」。北條は奇跡のイニングの記憶をたどりながら言った。

実はこの九回裏の前、表の守備で北條はレフトから再びマウンドに上がっている。2死一、二塁という場面。事前に言われておらず、急な登板だった。慌ててマウンドに向かい「絶対にきちんと抑えて終わらせて、九回の攻撃につなげよう。自分ができることをやろう」と考えていた。北條は力のこもったボールを4球続け、相手打者を三振に打ち取った。

「こういうことがすごく大事なんだと思ったし、監督はそれを伝えたくて、あんな場面で交代したのかもしれないと考えるようになりました」

仙台育英戦「猛追」の直前、マウンドに再び上がり相手打線をピシャリ(撮影・田辺拓也)

試合後、仁田からLINEが届いた。仁田は七回裏に3番手でマウンドに上がったが、4四球を与え、北條に打順が回る前に降板してしまった。「マジでごめん。ストライクが入らなくて」と謝っていた。同級生対決は、次のステージに持ち越しとなった。

ルーキーイヤーで自身初の「日本一」

青山学院大への進学は高校3年になる前の春、花巻東のグラウンドを訪れた安藤寧則監督から声をかけられたことが縁になった。「投手として、ウチに来てほしい」と誘われ、「ぜひ行きたいです」と答えた。甲子園での活躍や、大谷翔平の後輩ということもあり、「二刀流」という声も挙がっていたが、北條自身は「バッターでこれ以上はないと思うし、投手一本で勝負したかった」と将来像を現実的に考えていた。安藤監督も「中途半端なことはしたくない。投手として大成してもらわなくてはいけない選手です」と育成プランを口にする。

花巻東から青学大の野球部という進路は、北條が初めてだという。その年、青学大は東都1部で春秋のリーグ戦を連覇し、大学選手権で優勝。安藤監督が花巻を訪れた当時は、よくチームメートから「青学って強いの?」と聞かれていた。だが、常廣羽也斗(広島東洋カープ)、下村海翔(阪神タイガース)の2人がドラフト1位で指名されたこともあり、「そんなすごいチームから声がかかったんだ」と言われるようになったという。

青学大では入学早々、シーズンの後半からベンチ入りし、優勝がかかった日本大学戦で神宮初登板。わずか2球だったが、貴重な経験となった。チームはリーグ戦で3連覇を果たし、6月の大学選手権でも優勝。2年連続の日本一となった。北條にとっては、空想の世界ではない、初めて経験する「日本一」の栄冠だった。

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