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特集:あの夏があったから2024~甲子園の記憶

早大・安田虎汰郎(下)「チェンジアップと甲子園が人生変えた」大学でも通用する魔球

「魔球」のチェンジアップを投げ込む早稲田大の安田虎汰郎(撮影・井上翔太)

2023年2月9日。日大三高の小倉全由監督は、同年の3月31日をもって退職すると発表した。現在は早稲田大学の1年生で、当時高校3年になる直前だった安田虎汰郎は、他の部員たちと同様に小倉監督を慕って、日大三野球部の門をたたいた。予感はあったものの、いざ現実を突きつけられると、チーム内には衝撃が走った。

【前編はこちら】早大・安田虎汰郎(上)小倉全由監督の影響で「ロッキー」の大ファン、ルーティンにも
【特集】あの夏があったから2024~甲子園の記憶

吉永健太朗さんとの運命的な出会い

それでも切り替えなければいけない。「部長から監督になる三木有造さんを甲子園に連れていく。これが小倉監督への最高の恩返しになると、心を一つにしました」

翌10日に、運命的な出会いがあった。2011年夏の第93回全国高校野球選手権大会で優勝したときの右腕・吉永健太朗さんが小倉監督のもとを訪ねたのだ。早稲田大学1年の春はリーグ優勝と大学日本一の立役者となり、卒業後はJR東日本でもプレーを続けたが、2019年限りで現役を引退した。

安田は、シンカーの使い手として知られていた吉永さんにあいさつした後、「投げ方を教えてください」と頼み込んだ。快く承諾した吉永さんは、安田のチェンジアップを1球受けただけで、シンカーを投げられる素質があると見抜いた。そして、コツを伝授してくれたという。

今春の東京六大学リーグ戦で、他大学の監督から「初見で打つのは難しい」と言わしめた安田のチェンジアップは「魔球」の異名を持つ。投げ始めたのは高校入学後。最初は見よう見まねだったが、2年夏にはシュート系とスライダー系の投げ分けができるように。ただ、ブロック予選から全試合を完投した2年秋も、絶対的な武器にはなっておらず、その比率は全投球の2割程度だったという。

安田のチェンジアップは他大学の監督から「初見で打つのは難しい」という評価が出た(撮影・井上翔太)

そこでシンカー系を加えようと、吉永さんに指導を仰いだ。吉永さんのシンカーも当時「魔球」と呼ばれていた。

現在、安田のチェンジアップは大きく分けて3種類ある。緩いチェンジ、鋭く曲がるチェンジ、そしてカウントによって抜き方を変えるチェンジで、シンカー系は3番目に含まれているようだ。チェンジアップは球速がない一方、手元で変化するため、バットの芯でとらえるのはなかなか難しい。

チェンジアップが絶対的な武器となったのは、3年春の大会後、5月の愛知遠征だった。中京大中京打線に打ち込まれた安田は、翌日の享栄戦でチェンジアップを多投。すると次々に打者のバットが空を切り、三振の山を築いた。

夏を勝ち上がるには、このチェンジアップしかない――。9回1失点、10奪三振の内容に、安田は手応えをつかんだ。6月の香川遠征でも高松商打線を完封し、安田は自信を深めていった。

3年夏の甲子園で試合を締めくくり、静かにガッツポーズ(撮影・田辺拓也)

神宮の硬いマウンドも、周到に準備

最後の夏。安田は「魔球」を引っさげて西東京大会に臨んだ。前年夏の甲子園でホームランを打たれた右腕には「絶対に甲子園に戻る」という強い決意と、「小倉さんが勇退したから三高は弱くなったと言わせたくない」という熱い思いが入り交じっていた。

圧巻は大会の終盤だった。猛暑の神宮で準々決勝から決勝までの3試合、すべて1人で投げ抜いた(準々決勝は延長10回、準決勝は6回コールド)。「今年の夏は神宮に後輩の応援に行ったんですが、よくこの暑さで3連続完投ができたなと」

安田はこう言うと、言葉をつないだ。

「これもみんなが守ってくれて、打ってくれたおかげです。ただ、一番は三木監督が腹をくくって、僕を送り出してくれたからだと思います。振り返ると、三木さんは闘争心を引き出すのが上手で、『俺が投げてやる』という気持ちでマウンドに立つことができました」

3試合を投げ抜けた背景には、神宮の硬いマウンドへの準備もあった。日大三は、安田が1年秋の準決勝で國學院久我山に5回コールド負けを喫した後、練習場のマウンドの土を神宮と同じものに。安田はここでピッチングを続けてきた。

周到な準備が功を奏し、猛暑の神宮を1人で投げ抜いた(撮影・滝沢貴大)

チェンジアップへの注目が高まったのは、決勝で日大鶴ヶ丘を1失点に抑え、2年連続19回目となる夏の甲子園出場を決めてからだった。日大鶴ヶ丘のある打者が「ボールが止まって見えた」と口にした。この試合を機に「威力のあるストレートとカーブをコーナーに投げ切るタフネス右腕」は、チェンジアップが代名詞になった。

「最後の夏」を終えた後に、届いた朗報

チームとして「三木監督を甲子園に連れていくことが小倉監督への恩返し」という総意のもと、安田は「必ず戻ってくる」という誓いを果たし、2年連続で甲子園の土を踏んだ。

だが、初戦の社(兵庫)戦を前に、安田のコンディションは万全ではなかった。「西東京大会の疲れが出てしまったんだと思います」。当日も調子は良くなかったが、その分、力みもなくなり、丁寧にコーナーを突いた。100キロ台のチェンジアップもさえ、終わってみれば2安打完封だった。

2回戦、鳥栖工(佐賀)との試合では、2番手で登板すると7回3分の1を無失点に抑え、3回戦進出の原動力となった。続くおかやま山陽に敗れてベスト8進出を逃し、高校野球生活に終止符が打たれたものの、その後、朗報が舞い込んできた。

「宿舎での最後のミーティングで泣くだけ泣いて、それでもまだ涙が止まらなかったんですが、三木監督から『安田、もう泣くなよ。さっき、U-18ワールドカップの日本代表に選出されたと連絡があったぞ』と伝えられたんです」

おかやま山陽に敗れて応援席にあいさつした後、涙を流す安田(中央、撮影・白井伸洋)

甲子園での2試合が評価された証しだった。ただ、安田は想像していなかった分、一瞬、耳を疑ったという。「チェンジアップと甲子園が人生を変えてくれました」。もちろん、それは自分1人の力だけで成し得たことではない。小倉前監督や三木監督、それと入学時は誰よりも体が硬かった安田に「これではケガをする」とストレッチの重要性を説いてくれたトレーナーの庄司智則氏……。挙げればキリがない。

安田は同期の仲間たちにも感謝している。

「もう1回彼らと高校時代をやり直したいと思えるほど、最高の仲間たちでした。実は投手と野手がぶつかり、チームがバラバラになりかけたこともありました。夏の大会前の6月ごろです。それでも言いたいことを言い合ったことで、わだかまりがなくなり、主将の二宮士(まもる、現・立正大1年)を中心にチームがまとまったんです。互いに遠慮したままだったら、甲子園には行けなかったかもしれません。捕手の大賀一徹(現・明治学院大1年)も信頼してました。大賀とは1イニングごとに配球の話をしていたので、サインに首を振ったことはなかったです」

もともと勉強熱心、好奇心も旺盛

3年夏の甲子園での快投は、高校日本代表入りだけでなく、早稲田大学進学にもつながった。

早大では入学早々の今春から神宮デビュー。立教大学と対戦した週では、早大の1年生投手としては初となる開幕カード2勝をマークした。計6試合に救援登板し、7回3分の1を投げて被安打1。防御率0.00。魔球のチェンジアップを操り、ルーキーながらリーグ優勝に貢献した。ただ本人は「1四球でピンチを招いてしまったこともあった」と課題を口にする。

もともと勉強熱心で、向上心は誰よりも旺盛だ。高校時代からすべての登板結果をデータで管理しており、大学入学後は他大学の投手の回転数や回転軸も研究している。また時間あれば、社会人や大学、高校の試合に足を運び「自分だったら、ここはどう投げるかと考えながら見てます」。大学入学後の観戦試合数は、すでに20を超えたという。

安田の野球人生はまだまだこれから。大学でも訪れるであろうターニングポイントを経ながら、さらなる成長を続ける。

1年春から早稲田大のリーグ優勝に貢献、これからも成長を続ける(撮影・井上翔太)

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