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特集:あの夏があったから2024~甲子園の記憶

早大・安田虎汰郎(上)小倉全由監督の影響で「ロッキー」の大ファン、ルーティンにも

高校時代から経験豊富な神宮のマウンドで登板する早稲田大の安田虎汰郎(撮影・井上翔太)

入学早々の今春から神宮デビューを果たし、「魔球」と呼ばれるチェンジアップを武器に早稲田大学の東京六大学リーグ優勝に貢献した安田虎汰郎(1年、日大三)。意外にも中学時代は全くの無名だったという。訪れたいくつもの分岐点を経て、名門高校のエースに。3年夏の甲子園で快投を披露し、高校日本代表にも選出された。

【特集】あの夏があったから2024~甲子園の記憶

「三高で甲子園に行きたい」熱い思いが届いた

「人生を変える場所であり、自分の力量以上のものを発揮させてくれる場所だと思います」。安田は甲子園についてこう語る。日大三高時代は2年夏、3年夏と2年連続で甲子園のマウンドを踏んだ。

ここに至るまでには、いくつものターニングポイントがあったという。一つひとつの判断が、安田の野球人生を前へ前へと進めてくれた。

最初に訪れたのは中学3年の時。当時は千葉の袖ケ浦リトルシニアに所属し、主将で5番ショートだった。無名の存在で、野球で進路を切り開くのは難しい状況だったが、憧れていた高校はあった。それが日大三高だ。

「中学1年の夏(2018年)、日大三は甲子園(第100回全国高校野球選手権記念大会)でベスト4に進出したんですが、この時の姿が強く印象に残りまして。カッコいいな、強いチームだなと」。小倉全由・前監督(2023年3月末で勇退、現・U-18日本代表監督)のもとでプレーしたい思いも抱いていた。「小倉さんは僕と同じ外房出身なので、親近感もありました」

同じ外房出身の小倉全由・前監督が率いる日大三に憧れていた(撮影・上原伸一)

幸運なことに、袖ケ浦シニアには日大三高に進学した卒団生がおり、つながりがあった。神田雄二監督が三木有造監督(当時部長)に連絡をすると、安田を見に来てくれた。こうして翌春、安田は日大三高に進学し、春夏通算で39回の甲子園出場と3度の甲子園優勝を誇る名門野球部の一員となった。

それにしても、なぜ入れたのか? 高校野球を引退した後、安田が三木監督に尋ねると、真実を教えてくれたという。

「技術的には三高でメンバーに入るのは難しいと思っていたそうです。ただ、僕の『小倉監督のもとでやりたい』『三高で甲子園に行きたい』という言葉や表情を見て、この子なら3年間、厳しい三高でもやっていけると。そう判断してくれたようです」

想像をはるかに超えていた野球部のレベル

地元の千葉県鴨川市から上京し、東京都町田市にある合宿所で生活することになった安田。入部すると、野球部のレベルは想像をはるかに超えていたという。「とんでもないところにきたなと。3年夏でベンチ入りにかするのが精いっぱいだろうと思ってました」。しばらくはBチームの練習試合でもベンチに入れなかったという。

小学校時代に少し経験があったという投手に転向した安田は、夕食後の自主練習で誰よりも走り込み、地道に下半身を強化した。すると1年夏が終わり、新チームが結成されたところで出番が回ってきた。B戦でもわずか1試合、それも1イニングしか投げていない安田が、A戦で先発を託されたのだ。

「先輩の投手が次々に故障してしまい、投手がいなくなってしまったんです」

そういう事情があったにせよ、このチャンスをものにした。6回を無四球、1失点。小倉監督(当時)に制球力を買われた安田は、以降も練習試合に起用され、ストレートとカーブの2球種で好投を続けた。走り込みの成果だ。「とにかく走っていたので、暑い8月の練習試合でも投げ抜けたのでは」と当時を回想する。

すると思わぬ「ご褒美」が待っていた。秋の大会で「背番号19」をもらったのだ。入部当初は見上げるばかりだった日大三のメンバー入りを1年秋で果たした。

高3でエースを張った安田だが、入部当時はレベルの高さに驚かされた(撮影・筋野健太)

「ロッキー」第1作で培ったハングリー精神

1年秋の東京都大会では主にリリーフを務め、チームは準決勝に進出。翌春の選抜出場がほぼ確実になる頂点まで、あと2勝に迫った。しかし、準決勝の國學院久我山戦で、3-14と5回コールド負けを喫してしまった。

この試合、安田は2番手で登板したが、9失点と打ち込まれ、ただただ悔しい結果に終わった。「國學院久我山の勢いにのまれてしまいました」

試合後、合宿所に帰ると、小倉監督は「ゼロからやり直しだ」と言って、自身が大好きな映画「ロッキー」の第1作を全員に見せた。1976年公開の1作目は、やさぐれた4回戦ボクサーだったロッキーが、ひょんなことから世界チャンピオンと対戦することになり、周囲に支えられながら、はい上がっていく様子が描かれている。

「小倉監督はハングリー精神が必要だと、分からせたかったのだと思います。僕も千葉から上京した時の気持ちに立ち返ることができました」

すっかり「ロッキー」の大ファンになった安田は、全作を見たという。テーマソングからは今も力をもらっており、リーグ戦に向かうチームバスの中では、神宮球場に着く直前に必ず聴き、心を奮い立たせるのがルーティンになっている。

試合前には映画「ロッキー」のテーマソングを聴いて気持ちを高める(撮影・井上翔太)

「薄々、感づいていた」小倉監督の退任

名物となっている冬のトレーニングを経て2年生になると、安田は準エース格になった。夏の西東京大会は2試合に登板し、4回と3分の2を1失点。甲子園出場に貢献した。

自身初めての甲子園。1回戦の聖光学院(福島)戦で甲子園初マウンドを踏んだが、このときは苦い思いしか残っていないという。3番手で登板し、ホームランを浴びてしまったからだ。

「この時から僕にとって甲子園は『夢舞台』ではなくなりました。『現実』を思い知らされた場であり、絶対に帰らなければいけない場所になったんです」

2年夏に初めて甲子園を経験したが「現実を思い知らされた」(撮影・西畑志朗)

安田は2年秋に初めてエース番号の「1」を背負うと、2年夏の甲子園で味わった悔しい思いをパワーに変えた。加えて絶対に負けられない理由もあった。「薄々、小倉監督が指揮を執るのは、この秋の大会が最後になると感づいていたからです」

ブロック予選の初戦から、先発完投を貫いた。安田にはエースとしての美学もあった。

「僕は昔気質なタイプで、エースたる者、マウンドを譲ってはいけない。最後まで投げ切るのがエースという考えです。ノースロー調整も僕には無縁な言葉で、リリーフの時も試合では『ブルペン完投』と言われるくらい、投げ込んでました」

今日に至るまで肩ひじの故障が一度もないのは、鴨川市の漁師町で育ったことも影響しているのだろう。祖父は伊勢エビ漁師。安田は小学2年の頃から、登校前に一緒に船に乗り、網漁の仕事を手伝っていた。「これで体幹や握力などが鍛えられたのかもしれません」

安田が粉骨砕身の投球を続けた2年秋。日大三は準決勝で東海大菅生に2-3で惜敗した。日當直喜(当時2年、現・東北楽天ゴールデンイーグルス)に投げ負けた。「試合後は、3年夏が終わったかのように泣きました。小倉さん最後のシーズンを優勝で飾りたいと、チーム全員が思っていたので」

そして、とうとう「その日」はやって来た。翌年2月9日。小倉監督が同年の3月末限りで監督を退任し、学校も退職することが、本人の口から告げられた。

早大・安田虎汰郎(下)「チェンジアップと甲子園が人生変えた」大学でも通用する魔球

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